12月14日メッセージ
小平牧生牧師
「愛されるために、そして愛するために」
ヨハネの手紙第一3章16節
洗礼(バプテスマ)とは、イエス・キリストを救い主として信じ、罪の赦しを受け入れた者が、その信仰を神と人との前で公に表すものです。それは、キリストとの結びつきを告白し、新しいいのちの歩みを始める決意を示す、目に見えるしるしでもあります。洗礼は単なる儀式ではなく、聖書において深い象徴的意味を持っています。その本質的な意味は、信じる者がキリストの十字架の死と復活にあずかり、新しいいのちに生きる者、すなわち新生の者とされることを象徴する点にあります。水に沈むことは、古い自分がキリストとともに死に、葬られることを表し、水から上がることは、キリストとともに復活した新しい自分の誕生を示しています。
洗礼の形態には、聖書の記述や各教派の伝統に基づき、主に二つの形式があります。
一つは、海や川、あるいは洗礼槽などで全身を水に沈める「全浸礼」です。もう一つは、礼拝の中で水盤などの水を用い、頭に水を注ぐ、あるいは振りかける「滴礼」です。ちなみに、イエス・キリストはヨルダン川において、バプテスマのヨハネから全浸礼の形式で洗礼を受けられました。イエスが洗礼を求められたとき、ヨハネはそれを思いとどまらせようとしました。なぜなら、イエスが罪のないお方であり、本来であれば、ヨハネ自身こそがイエスから洗礼を受けるべきだと理解していたからです。しかし、それに対してイエスは、「このようにして、すべての正しさを実現することが、私たちにはふさわしいのだ」と答えられました。ここで言う「正しさ」とは、神の御心、すなわち救いのご計画に完全に従うことを意味します。イエスは、罪の悔い改めのために洗礼を必要とされたのではありません。罪人である私たちと同じ立場に立ち、神の前にへりくだり、救い主としての使命を担う歩みを始められたのです。そして言うまでもなく、私たちが洗礼を受けること自体に、水そのものや、身体を水に沈めるかどうかといった行為が、救いに必要な力を持っているわけではありません。聖書は、私たちが神の恵みにより、信仰によって救われることを明確に教えています。その信仰に応答する歩みとして、洗礼が定められているのです。つまり洗礼は、救いそのものをもたらす手段ではなく、イエス・キリストを信じる信仰の告白として、またその救いのしるしとして与えられるものなのです。
余談ですが、キリスト教における「聖礼典(サクラメント)」とは、目には見えない神の恵み、すなわちキリストの恵みが、目に見えるしるしとして示される儀式のことを指します。この目に見える恵みのしるしは、カトリック教会および東方正教会において、七つと数えられてきました。すなわち、「洗礼」「堅信」「聖体」「告解」「終油」「叙階」「婚姻」であり、これらは「秘蹟」とも呼ばれます。しかし16世紀の宗教改革において、改革者たちは、秘蹟があたかも救いをもたらす手段であるかのように扱われていたこと、また聖書に明確な根拠を見いだしにくい秘蹟が含まれていたこと、さらにそれらが教会の権威や人間の功績と結びついて理解されていたことを問題としました。そこで彼らは、聖書においてイエス・キリストご自身によって制定されたと明確に認められるものは、「洗礼」と「聖餐」の二つであるとして、これらのみを聖礼典と定めました。現在では、聖公会および多くのプロテスタント教会において、この二つが一般的に聖礼典として認められています。
聖書は、イエス・キリストとキリスト者、すなわち普遍的教会との関係を、きわめて親密な愛の絆として示すために、「花婿と花嫁」という最も深い比喩を用いています。キリスト者は、やがて花婿であるイエス・キリストが再臨されるとき、花嫁として迎えられることを待ち望んでいます。人間同士の結婚において、二人の関係はきわめて個人的なものでありながら、その愛は公に示されるべきものであり、その証しが「結婚式」です。同様に、イエス・キリストに対する信仰の告白もまた、内面にとどまるものではありません。キリストを信じる信仰は、個人と神との内面的な交わりから始まります。しかし、真実の愛は隠されるものではありません。イエス・キリストは、ご自身を信じる信仰を公に告白することの重要性を繰り返し教えておられます。洗礼(バプテスマ)とは、この花婿であるキリストに対する花嫁の愛と献身の意思を、神と人との前で公に表す、具体的な「信仰告白のしるし」なのです。
私自身は、中学二年生のときのクリスマスに洗礼を受けました。当時の私は、洗礼の意味を十分に理解していたわけではなく、正直に言えば、他の方々に紛れて洗礼を受けたというのが実際のところです。しかし今になって振り返ってみると、それは間違いなく神によって備えられた時であり、その時でなければならなかったのだと思わされます。その時に洗礼を受けていなかった自分など、もはや想像することができません。自分から積極的に洗礼を願い出たわけでもなく、すべてを理解していたわけでもありませんでした。しかし、私自身がどうであったか以上に、神がその時を備えておられ、多くの教会の方々の祈りに支えられて導かれた出来事であったと、今は確信しています。それは、ひとえに神の深いあわれみによるものであったと思うのです。
本日行われる洗礼式の誓約においては、洗礼を受ける本人だけでなく、会衆の皆さまにも問いが向けられます。受洗とは、本人だけの出来事ではなく、教会全体に関わることだからです。たとえば、新しいいのちが誕生しようとするとき、その備えをするのは赤ちゃん自身ではなく、それを迎える家族です。家族の備えなしに赤ちゃんが生まれることはできません。同様に、新しい神の家族を迎える教会もまた、その備えと祈りが求められているのです。今日の洗礼式では二名の小学生が受洗しますが、ご両親とともに、私たち教会も祈りのうちに交わりを深め、共に歩んでいくのです。
このあとの洗礼式では、「君は愛されるために生まれた」というワーシップソングを賛美する予定です。この楽曲は1997年にイ・ミンソプ牧師によって作詞・作曲されたもので、多くの人々に親しまれ、現在では世界30か国以上の言語に翻訳されているそうです。冒頭の歌詞は「君は愛されるために生まれた」という言葉から始まります。私たちは、この歌詞の真の意味を、一人でも多くの人が自分自身のこととして受け止めてほしいと願っています。しかし、この歌詞を耳にすると、「人を甘えさせるのではないか」「愛されることよりも、愛することのほうが大切ではないか」と、自己中心的な意味合いに結びつけて否定的に受け止める人もいます。皆さんはどう感じられるでしょうか。私たちの教会のビジョンは、イエス・キリストの弟子として、神の愛に生きることです。イエス・キリストの弟子として生きることを考えるとき、私たちはしばしば「愛されること」よりも「愛すること」を優先して考えてしまいます。
13世紀に活動したフランシスコ会(フランチェスコ会)の創設者、聖フランシスコに由来する「フランシスコの平和の祈り」という有名な祈祷文があります。この祈祷文には次のように記されています。
「ああ、主よ、慰められるよりも慰める者にしてください。理解されるよりも理解する者にしてください。愛されるよりも愛する者にしてください。」
しかし、イ・ミンソプ牧師の楽曲には「君は愛されるために生まれた」と歌われています。確かに、私たちの人生の目的は、創造主なる神を愛し、隣人を愛することにあります。私たちは愛するために神によって生かされている存在であり、そのように神に造られました。ところが、神から離れてしまった私たちの現実の姿は、愛することができなくなっているのも事実です。なぜでしょうか。その根本的な原因は、十分に「愛されること」を経験していないからです。知識として理解しているつもりでも、真の愛を実際に体験していないのです。愛することは自分の力だけで成し遂げられるものではありません。聖書を正しく理解し、「愛さなければならない」と知っていても、それだけでは愛することはできないのです。愛するとは、まず私たち自身が無条件に神によって愛されていることを受け入れることです。そして、その無条件の神の愛が私たちの内からあふれ出るとき、初めて他者を愛することができるのです。ですから、私たちは愛されなければ愛することはできません。十分に愛されることが必要なのです。
この楽曲が生まれた当時、イ・ミンソプ牧師の心は必ずしも愛で満たされていたわけではありませんでした。家庭環境は決して恵まれておらず、母に愛された記憶もほとんどなかったといいます。むしろ心に残っているのは、母から包丁を向けられたという痛ましい体験でした。父との記憶もまた、幼い頃に足で蹴られたというものだったそうです。そのような環境で育った彼は、幼いころからずっと死ぬことを考えていたといいます。そんな中で、神が自分を愛し、イエス・キリストを与えてくださったことを知りました。ある晩、彼が一人で地下鉄に乗っていたとき、突然心の中に神の御声が響いたそうです。 「イ・ミンソプ。私がお前を愛しているのは、お前が立派だからではない。私が神であり、お前を創ったからだ。私にできないことはただ一つある。それは、お前を愛することを諦めることだ」 イ・ミンソプ牧師は、この神の御声を聞いたことによって深い癒しを経験しました。そして、神の愛を人々に伝えるために、自らを主に献げる歩みへと導かれていったのです。
「愛されるために生まれた」という歌詞は、自己中心性を肯定するものではありません。むしろそれは、神から与えられる無条件の愛を、自らが愛を実践するための源泉として受け取ることの本質的な重要性を指し示しています。愛されること自体がゴールなのではなく、神の無条件の愛にすでに満たされているという確信こそが、その愛を携えて、今度は自らが無条件に他者を愛する者へと導くのです。そしてそのとき、人は初めて、真の喜びと満たしを経験することができるのです。
① 私たちは愛されるために存在している
ヨハネの手紙第一3章16節は、前半と後半に分けて考えることができます。前半で重要なのは、「イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったことによって、愛が分かった」という点です。愛が分かるためには、まず愛される必要があるのです。では、私たちはどのようにして「愛が分かる」ようになるのでしょうか。それは言葉によってではなく、イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったという事実によって分かるのです。そして、私たちは「自分が神に愛されている」ということを、徹底して知らなければなりません。
私たちが誰かを愛するとき、そこには主に二つの動機があります。一つは、自分自身のために誰かを愛する場合です。この愛は、愛の対象のためではなく、愛する側のための愛です。一般に私たちが考える「愛」は、与えるためのものというよりも、見返りを求めるものであり、ときには与えるどころか、奪うものにさえなります。これは無条件の愛ではなく、条件付きの愛です。自分を満たし、喜びを得るための愛であり、相手からの応答がなければ成立しません。私たちが愛に破れ、しばしば悲しみや傷を負うのは、そのためです。しかし、もう一つの愛があります。それは、相手のための「愛」です。ヨハネの手紙に記されているように、イエス・キリストは、ご自分のためではなく、私たちのために、いのちを捨ててくださいました。この愛は、愛する側が自分の利益を求めず、正しさを誇ることもなく、ただ相手のために注がれる愛です。そこには、「これだけ愛しているのに」という思いはありません。キリストは、私たちの罪のために、ご自分を完全にささげてくださったのです。
私たちは、そのような愛を、これまで経験したことがありませんでした。知らなかったのです。「愛」とは、受けるものであり、自分を喜ばせるものだという理解しか持っていなかったのです。私たちは無条件で愛されることを知らず、あるいは親からも、友からも、さらには自分自身からさえも、条件付きで愛されてきたのかもしれません。しかし、この賛美にあるように、私たちは「愛されるために生まれた」のです。それは、神の無条件で変わることのない愛に愛されるためであり、愛し続けられるためです。そこにこそ、私たちの存在理由があります。洗礼を受けて神の子とされるということは、そのような人生の始まりです。洗礼を受け、キリスト者となり、神を喜ばせるために善行を積み重ねなければならない、ということではありません。神の無条件の「愛」に生きる人生が、そこから始まるのです。私たちは、愛されるための存在なのです。
“キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。…” ヨハネの手紙一3:16
② 私たちは愛されて、愛する者となる
ヨハネの手紙第一3章16節には、前半で「イエス・キリストが私たちのためにいのちを捨ててくださったことによって、愛を知った」と記されています。そして後半では「私たちも兄弟のためにいのちを捨てるべきです」と続きます。「いのちを捨てるべきです」という日本語の表現は強い響きを持つため、文字通り「死ぬこと」を意味しているように感じられるかもしれません。しかしここで語られているのは、いのちを懸けて愛された者が、いのちを懸けて愛する者へと変えられていくということです。いのちを懸けて愛されることを知らなかった私たちが、その愛を知ったのですから、私たちもまたいのちを懸けて人を愛する者へと造り変えられていきます。人を愛するというのは、自分の中にある善意や思いによって愛するのではなく、神によって無条件に注がれる愛が満ち溢れ、私たちの器からあふれ出ていくことなのです。ですから「愛さなければならない」という義務ではなく、いのちをもって愛された者は、その愛に満たされていのちを懸けて愛する者となることができるのです。そして、それこそが私たちに与えられた人生の目的なのです。
私たちは、愛されることなく人を愛することはできません。だからこそ、神によって無条件に愛される必要があるのです。私たちの教会の交わりも、神の無条件の愛を体験できる交わりでありたいと願っています。人は、無条件に愛されることを通して平安を得ることができます。そして同時に、無条件に自分を捧げることができる自分を見出したとき、人生を懸けるに値するものを見つけることができるのです。やがて神によって、惜しみなく自分の人生を差し出す者へと変えられていきます。しかし、私たちの内には罪があり、人を裁き、不平不満を抱えたままでは神の愛を理解することはできません。「愛さなければならない」と知りながらも、実際には愛することのできない者なのです。だからこそ、私たちの罪や不満に満ちた心を赦し、清めるために、イエス・キリストは十字架にかかってくださいました。その神の愛を知るとき、私たちは共に赦し合う者へと導かれていくのです。
“キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。” ヨハネの手紙一3:16
“ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く 愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです。」” ルカ7:47
“愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。…私たち が神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物とし ての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに 私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。” ヨハネの手紙一4:7-10
③ 私たちは愛されるために、そして愛するために存在している
最後のポイントは、以上に述べた二つのことが一体であり、切り離せないものであるということです。イエス・キリストによって新しく生まれ変わった私たちは、新しい目的のために生きるようになりました。それは、自分のために人を愛するのではなく、神が私たちを愛してくださったように、互いに神の愛によって愛し合うことです。ヨハネによる福音書13章34節にある通り、イエス・キリストが私たちに愛の模範を示されたように、私たちもまたその愛に倣って互いに愛し合うのです。クリスマスは、神が私たちのために救い主を与えてくださったことを記念する日です。私たちは神の愛を心から喜びたいと思います。私たちは、神から無条件に愛されていることを知る必要があります。そして、その愛を受けることによって、愛する者へと変えられていくのです。その喜びを分かち合いたいと願います。
“わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたが たを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。” ヨハネ13:34
Author: Paulsletter
