11月23日メッセージ
小平牧生牧師
「わたしが道です」
ヨハネの福音書14章1~10節
洗礼(バプテスマ)は、ギリシャ語の動詞 baptizō(「浸す」「沈める」の意)に由来します。キリスト教会の儀式として定着したのは、イエス・キリストの十字架の死と復活を経た後ですが、水に浸す行為そのものは古代から清めや新生を象徴する宗教的行為として知られていました。旧約聖書においても、祭司が会見の幕屋に入る前に水で身を洗うよう命じられているように、水による清めは律法において重要な意味を持っていました。また、さまざまな汚れから清められるための「水による洗い」が繰り返し記されています。
イエス・キリストの前の時代に、バプテスマのヨハネは「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ」を授けていたことが福音書に記されています。多くの人々がヨルダン川で、悔い改めのしるしとして洗礼を受けました。さらに、聖霊降臨のペンテコステの日、ペテロは群衆に向かってこう語りました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪の赦しのために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。」この言葉に従い、多くの人々が洗礼を受けたと記されています。
洗礼は原始キリスト教会において、キリスト者となることを示す重要な礼典として行われていました。その本質的な意味は、信じる者がキリストの十字架の死と復活にあずかり、新しい命に生きる者(新生)となることを象徴するしるしにあります。水に沈むことは、古い自分が死に葬られることを表し、水から上がることは、キリストとともに復活した新しい自分の誕生を示します。赦しの源泉は、イエス・キリストが流された血にありますが、洗礼は、信仰によってその赦しにあずかり、キリストと一体とされたことを外的に示すしるしとして行われたのです。
洗礼を受ける人は、大人であれ子どもであれ、牧師や教師、教会のリーダーとともに学びの時を持ちます。その学びの中で、イエス・キリストを信じるとはどういうことかを理解し、自らの信仰を確認したうえで、言葉による信仰告白を行います。このように洗礼は、単なる儀式ではなく、キリストの救いにあずかり、新しい命へと導かれる神の恵みのしるしとして、聖書全体にわたって深い意味をもって位置づけられているのです。
それでは、「イエス・キリストを信じる」とは、いったいどういうことでしょうか。一般に「宗教」といえば、教義・伝統・儀式が体系化され、それらの教えや規律に従って生きることが「信仰」だと理解されがちです。そのため多くの宗教では、家や墓を守り、家族の一体性を保つことが重要視され、信仰とは伝統を受け継ぎ守ることだと長く考えられてきました。多くの人にとって「信仰」とは、何を信じているかを深く掘り下げることよりも、代々受け継いできたものを続けることに重点が置かれているのではないでしょうか。しかし、キリスト者の信仰は、単に教えや真理を理解し信じることや、決められた儀式を行うことにとどまりません。聖書が示す「イエス・キリストを信じる」とは、イエス・キリストに対して、単なる知的理解を超えて、心から信頼し、愛することです。したがって、私たちの生き方も、この生けるお方との親しい関係から新しくされていくのです。私たちが信じるお方は、私たち以上に私たちを愛し、信頼してくださる方です。この点は、他の宗教と大きく異なる特徴と言えるでしょう。つまり、キリスト信仰とは、単なる思想や教えの継承ではなく、信じる者と信じられるお方との人格的な関係に根ざした生き方なのです。
この点は、夫婦関係にもよく似ています。夫は妻のすべてを知っているわけではありませんし、ときにはお互いの理解不足から、夫婦間にぎくしゃくしたり混乱が生じたりすることもあります。しかし、妻は夫を愛し信頼し、夫も妻を愛し信頼しているからこそ、互いについて完全に知り尽くしていなくても、その関係が揺らぐことはありません。夫婦は人間同士であるため、互いに欠けがあります。それでも関係が成り立つのなら、まして神と人間との関係は、さらに確かなものです。人間の側は不完全で、神を十分に理解できるわけではありませんが、神の側は人間を完全に理解し、変わらず愛しておられます。ですから、信仰とは、この関係において、私たちが神を信頼し、身をゆだねることなのです。
今朝の聖書箇所は、イエス・キリストが十字架にかかられる前日の場面です。イエスは弟子たちと共に食事をされる中で、ヨハネによる福音書13章では、イエス・キリストは、弟子たちの足を洗われました。この行為は、当時の身分や習慣から考えると非常に驚くべきものでした。しかし、イエスはそれによって、互いに仕える愛の模範を示されたのです。そして、「新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と語られました。弟子たちは、イエスのこの行動と言葉に驚き、戸惑ったことでしょう。特にペテロは、イエスの言動の深い意味を完全には理解できず、「主よ、どこにおいでになるのですか」と尋ねます。これに対してイエスは、14章で「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。わたしはあなたがたのためにその場所を備えに行くのです。わたしの行く道はあなたがたも知っています」と応じられました。さらに続いて、トマスは「主よ、どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかるでしょう」と返答します。そこでイエスは、あの有名な「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」という御言葉を語られました。
このイエスの言葉は、私たちにとって、イエス・キリストを信じるとはどういうことかを的確に示しています。今朝は、この御言葉を通して、私たちにとってイエス・キリストを信じることが何を意味するのかを考えてみたいと思います。
① イエス・キリストは、私たちの救いとなられた
イエス・キリストは、私たちに「救いの方法」を示したのではなく、ご自身こそが私たちの救いそのものである、ということです。イエスは、他の多くの宗教のように「こうすれば天国に行ける」「こうすれば永遠のいのちが与えられる」と教えられたわけではありません。また、何か具体的な対象を指して「これが道である」「これが真理である」と言われたのでもありません。「あそこへ行きなさい」「これをしなさい」と外的な行為を示されたわけでもないのです。イエスは、ご自身について「わたしが道であり、真理であり、いのちである」と宣言されました。私たちは正しいことを示すことはできても、自分自身が「道である」「真理である」と言うことはできません。イエス・キリストが人となってこの世に遣わされたのは、「これが正しい道だ」と教えるためではなく、ご自身こそが「道」であることを表すためです。イエスだけが、「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません」と断言できる、唯一の救いの道なのです。
ヨハネによる福音書14章6節の「わたしが道である」という言葉にある「道」を、ヘブル的(聖書的)な思考で捉えると、より深い意味が見えてきます。ヘブル語で「道」を表す言葉は「デレク」であり、その語源は「踏む、踏みつける」という意味を持つ動詞「ダラク」に由来します。何もない場所が繰り返し踏みしめられて道となるように、この語の背景はイエス・キリストのご生涯を象徴しているのです。私たちは「道」と聞くと、「移動するための道路」を思い浮かべがちですが、「デレク」は単なる通路ではありません。正しい生き方、歩むべき道筋、そして「歩む」という行為そのものを意味します。旧約聖書においても、人が神に従って歩む「正しい歩み」や「神の道」、さらには「神と人との関係」を示す文脈で用いられています。このように理解すると、イエスが「道」となられたということは、単に案内役として道を示されたのではなく、ご自身が踏みつけられることによって道となられた、という深い意味が見えてきます。神の子であるイエスが、私たちの罪のために十字架で死なれたからこそ、「わたしが道である」と宣言することができたのです。私たちにとって大切なのは、イエス・キリストに関する知識や教えそのものではありません。もちろんそれらにも重要な意味がありますが、知識や理解が私たちを救うのではないのです。私たちを救うのはイエス・キリストご自身であり、この方との関係を大切にすることこそ、最も重要なのです。
“イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたし を通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。” 6
聖書は、イエス・キリストがどのようなお方であるかを繰り返し語っています。いくつかの該当箇所がありますが、その一つがピリピ人への手紙2章6節-8節です。ここでパウロは、ピリピ教会の信徒たちに向けて、イエス・キリストのへりくだりの姿を模範として示しています。すなわち、キリストは神の身分をお持ちでありながら、その身分に固執することなく、ご自分を無にし、人間と同じ姿となられたのです。
“キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考え ず、御自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人と しての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われ ました。”ピリピ2:6-
ヨハネも、ヨハネの手紙一 3章16節で、イエス・キリストの姿を模範として、キリストご自身が愛のお方であることを説いています。この箇所も、単なるイエス・キリストに関する解釈を示すものではなく、神の愛がイエス・キリストの具体的な行動によって示されたことを強調しています。つまり、私たちはイエス・キリストの教えだけを信じるのではなく、私たちを愛し、十字架にかかり、死んで復活されたイエス・キリストご自身を信じているのです。
“キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって 私たちに愛が分かったのです。” 1ヨハネ3:16
② 私たちは、イエス・キリストを信頼し、また愛している
私たちがイエス・キリストを信じるということは、単に「神の存在を信じるかどうか」という次元の話ではありません。昨日、私は中学校時代の同窓会の幹事会に出席しました。その場では、「イエス・キリストは本当に存在したのか」という話題から始まり、少しずつ神について語ることもできるようになってきました。しかし、イエス・キリストを信じるということは、単にイエスが歴史上存在していたかどうかに関わる問題ではありません。イエスの存在が事実だから信じる、あるいは祈りが聞かれたから信じる、ということでもないのです。もちろん、キリスト者の中には、祈りが応えられた経験を通して神の存在を深く実感する人もいます。しかし、祈りが応えられたからといって、それだけで神を信じることができるわけではありません。それはしばしば、人間の都合や思い込みに過ぎないのです。
神は燃える柴の中からモーセに語りかけ、エジプトで奴隷となっている同胞のイスラエルの民を救う使命をモーセに与えます。神の命令に戸惑ったモーセは、イスラエルの民から「あなたをつかわされた神の名は何か」と尋ねられたとき、どう答えればよいのかと神に尋ねます。これに対して神は、「わたしは、在りてあるものだ」と答えられます。つまり神とは、絶対的な存在であり、永遠に変わることなく存在する方だということです。私たちが神を礼拝してもしなくても、その存在は変わらず、この世のすべての人が神の存在を否定しても、神は変わらず「在りてあるもの」であるのです。私たちがイエス・キリストを信じるということは、この「在りてあるもの」を信じるということなのです。
“あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。”1
ヨハネによる福音書に記されているように、イエス・キリストは弟子たちと寝食を共にし、生活そのものを分かち合っておられました。弟子たちはイエスの言葉を直接聞き、数々の奇跡を目の当たりにしていたのです。本来であれば、イエスの存在そのものは彼らにとって疑う余地のない事実であり、あらためて「信じなさい」と言われる必要などないほど、親密な関係にあったはずです。ところが、イエスが捕らえられ、十字架につけられるという受難の現実を前にしたとき、弟子たちの心はイエスへの信頼や愛よりも、目の前の厳しい状況や自分たちに降りかかる危険への恐れに支配されてしまいました。彼らは散り散りとなり、絶望の淵に追い込まれてしまったのです。しかし、神の計画はそこで終わりません。神はイエス・キリストを死者の中から復活させ、よみがえられたイエスは、恐れと自責の念に沈む弟子たちの前に再び姿を現されました(ヨハネ21章)。その場面で語られたのが、かつて三度「知らない」と否認したペテロに向けられた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たち以上にわたしを愛しているか」というイエスの問いかけでした。ここで注目すべきなのは、復活のイエスがペテロに求められたのが、もはや「わたしを信じるか」という信仰の確認ではなく、「わたしを愛するか」という愛の確認であったという点です。
“彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモ ン。あなたは、この人たちが愛する以上に、わたしを愛していますか。」ペテロは答 えた。「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」イエ スは彼に言われた。「わたしの子羊を飼いなさい。」” ヨハネ21:15
現代の私たちは、弟子たちのようにイエス・キリストを直接見聞きすることはできません。しかし、それでも私たちは、イエスから同じ問いかけを受けています。「あなたは、わたしを愛していますか」という問いに、私たちは「はい、主よ、愛しています」と応えるのです。パウロもローマ人への手紙で、「もし口でイエスは主であると告白し、心で神がイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる」と記しています。つまり、私たちの信仰とは、単なる知識や理屈ではなく、イエス・キリストとの生きた関係なのです。イエス・キリストの十字架の死と復活について、聖書に記されているすべてのことを「正しいか正しくないか」「あり得るかあり得ないか」と証明し、理解できるように説明することを求める人たちがいます。しかし、たとえそれらを証明し、理解できるように説明できたとしても、それだけで信じることにはつながりません。たとえ理解したとしても、その理解自体が私たちを救うわけではないのです。理解できるかどうかに関わらず、たとえ理解できない部分があったとしても、イエス・キリストというお方を信じることこそが信仰の本質なのです。
“なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の 中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義 と認められ、口で告白して救われるのです。” ローマ10:9
③ 私たちは、イエス・キリストとの交わりの中に生きている
これまでお話ししてきたように、私たちの救いとは「やがて神の国に迎えられて初めて得られるもの」という未来の出来事だけを指すのではありません。救いとは、神とつながっているという意味において、すでに今この瞬間に与えられているものです。多くの宗教観では、現世と来世、あるいは仏教でいう「此岸(迷いの現実)」と「彼岸(悟りの世界)」のように、現在の世界と救いの世界を隔てられたもの、つまり対岸にあるものとして捉える傾向があります。そのため、「戒律を守り、善行を積めば、その報いとして川を渡り、やがて天国へ行ける」と教える場合も少なくありません。キリスト者の中にも、そのように理解して「天国行きの切符」を得るために地上での善行に励む人がいるかもしれません。しかし、聖書が語る救いの本質は、それとは異なるのです。
私たちに与えられている救いとは、単なる将来の保証ではありません。それは、「道」となってくださったイエス・キリストにつながり、その「道」であるお方と共に歩むことです。イエス様はご自身を指して「わたしは道であり、真理であり、いのちである」と言われました。救いとは、私たちが、その「道」の上を歩き、そのいのちの供給を受けて生きることそのものです。そして、その「道」を歩んだ先には、確かな約束として神の国が備えられているのです。
しかし、ここで私たちは自らを省みる必要があります。たとえ毎週欠かさず礼拝に集い、忠実に奉仕し、人前では熱心なキリスト者に見えていたとしても、肝心の「イエス・キリストとの個人的な関係」が冷めてはいないでしょうか。外面的な行いが立派であっても、「初めの愛」から離れてはいないでしょうか。宗教的な熱心さだけでは、主との真の交わりがあるとは言えません。イエスは、私たちの心の扉の外に立ち、「見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にする」と語っておられます。イエスが望んでおられるのは、私たちが偉大な業績を積み上げること以上に、心の扉を開いて主を迎え入れ、親しく食卓を囲むような人格的な交わりを持つことなのです。私たちは「何かをしたから天国に入れる」のではありません。日々の生活のただ中で、インマヌエルであるイエスと共に歩むことによって、神の国へと続く道を歩んでいるのです。イエスが私たちに「あなたはわたしを愛するか」と問いかけておられるのは、天国に行ってからではなく、まさに今この時なのです。
信仰の本質は、心の底からイエス・キリストを愛することにあります。私たちの人生の実りとは、立派な建物を建てることや組織を大きくすることではなく、「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めに生き、キリストを愛し、従っていくことそのものなのです。
最後に二つの御言葉を紹介します。今朝の聖書箇所、ヨハネによる福音書14章8節では、弟子の一人ピリポがイエスにこう願い出ます。「主よ、私たちに御父(神)を示してください。そうすれば満足できます」(8節)。これは、イエスが十字架にかかる前、最後の晩餐の席での出来事です。ピリポの問いかけに対するイエスの答えが9節に記されています。イエスは、ご自身の人格・言葉・行いのうちに、神の全人格が完全に現れていることを示されました。私たちは、イエスの愛を見るときに神の愛を見、イエスの赦しを見るときに神の赦しを見ることができるのです。
“どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください」と言うのですか。私が父のうち にいて、父が私のうちにおられることを、信じないのですか。…」” 9
コリント人への手紙第二13章5節は、パウロがコリント教会の信徒たちに宛てた手紙の結びの部分に記されています。当時のコリント教会には、教義的混乱や倫理的問題があり、さらにパウロの使徒性を否定する者たちも現れて、教会は内的対立と外的圧力に直面していました。パウロはそのような状況にある教会に対して、慰めつつも悔い改めを強く促すために、この手紙を書き送ったのです。パウロは、信徒たちが他者(特にパウロ自身)を批判する前に、まず自分自身の信仰を吟味すべきだと強調しています。ここで言う「信仰」とは、単なる宗教的行為ではなく、キリストとの生きた交わりを指します。パウロは、教理的な正しさや外面的な行為だけでは不十分であり、日々の生活の中で「キリストがあなたのうちにおられるかどうか」が信仰の本質であると説いているのです。
私たちは、イエス・キリストが私たちの内におられることを日々意識しているでしょうか。信仰生活は、知らぬ間に形式的なものへと変わってはいないでしょうか。イエス・キリストとの交わりは、今もなお親しく保たれているでしょうか。私たち自身もまた、信仰を振り返り、吟味する必要があるのではないでしょうか。繰り返しますが、私たちの内におられるイエス・キリストとの関係こそが、信仰の本質なのです。
“あなたがたは、信仰に生きているかどうか、自分自身を試し、吟味しなさい。それと も、あなたがたは自分自身のことを、自分のうちにイエス・キリストがおられること を、自覚していないのですか。”2コリント13:5
Author: Paulsletter
