8月31日メッセージ
小平忠直主事
「神に語る中で、神から語られる」
ピリピ人への手紙 4章6~7節
植物の生命活動において、二酸化炭素(CO₂)と酸素(O₂)は「光合成」と「呼吸」という二つの重要なプロセスに関わっています。光合成は、植物が光エネルギーを用いて無機物から有機物(デンプンなどの養分)をつくるはたらきです。一方、呼吸は光合成でつくられた養分を分解し、生命活動に必要なエネルギーを取り出すはたらきです。植物が土から水や養分を吸収し、太陽の光を浴びて成長するように、神を信じる人の心もまた、神の言葉と聖霊の恵みによって豊かに育まれます。
聖書は、神を信じる者が新しいいのちを与えられ、聖霊によって成長していくことを教えています。植物が根を張り、幹を太らせ、枝葉を広げるのは、外からCO₂を取り込み、成長の過程でO₂を放出するからです。同じように、キリストを信じる人はキリストと結びつき、聖霊によって命を与えられます。そして、その働きによって「実」を結びます。これは人間の努力で作り出すものではなく、聖霊に導かれ、神との交わりの中で自然に生じるものです。
私たちが霊的に実り豊かな人生を歩むためには、絶え間ない「心の呼吸」、すなわち祈りが欠かせません。祈りは呼吸のように自然で日常的な営みであり、神とのつながりを養うものです。植物が光合成によってCO₂を取り入れ、成長の糧とするように、私たちの心も祈りによって神からの恵みを受け取ります。そして、この「心の呼吸」を通して、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」といった御霊の実が結ばれていくのです。
“御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません”(ガラテヤ人への手紙 5章22節~23節)
① 祈りの呼吸
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネによる福音書 第1章1節)と記されています。 ことばとは、相手に語りかけるものであると同時に、相手から聞くものでもあります。 すなわち、神はことばによって語られる方であり、また聞かれる方でもあるのです。この聖句は、神がことばを通して人と交わり、私たちとコミュニケーションを持たれる存在であることを示しています。 神は、私たちのことばに耳を傾けてくださることを望んでおられます。 私たちは祈りを通して、自分のありのままの思いを神に伝えることができます。それでは、私たちはどのような祈りをもって、神に語りかけているのでしょうか。
聖書を読み、学ぶことに関しては熱心に取り組む一方で、神に自分の言葉で語りかけることには、あまり時間をかけていないのではないでしょうか。同じ言葉やフレーズを繰り返すだけで、まるで形式的な祈りになってはいないでしょうか。人と会話するとき、同じ言葉を機械的に繰り返していては、真の対話は成り立ちません。それは神との祈りにおいても同じです。特に不安なとき、私たちは神にどのように祈っているでしょうか。神は、私たちがなぜ不安なのか、その原因がどこにあるのか、どのような感情にあるのか、そしてその不安をどうしたいと願っているのかを、具体的に知りたいと望んでおられます。そして、それをあなた自身の言葉で語ってほしいと願っておられるのです。
「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」というパウロの言葉は、単に自分の感情をそのまま伝えることを超えた、深い信仰の姿勢を示しています。祈りとは、心の内にあるすべての思いや願いを、謙遜に神に委ねることです。祈りにおいて大切なのは、言葉の形式や定型文にこだわることではなく、心が真に神に向かっているかどうかです。もし祈りが形だけの言葉にとどまり、心の中では依然として自分を優先し、自己中心的に解決しようとしているならば、それは真の祈りとは言えません。祈りは呼吸のように、日常生活に欠かすことのできない営みです。絶えず神と対話を続けること、これこそが「祈りの呼吸」なのです。
“何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます”(ピリピ 4:6-7)
“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった”(ヨハネ1:1)
② 祈りの招き
祈りとは、呼吸のように日常生活に欠かすことのできない営みです。絶えず神と対話を続けることが大切です。先ほど「主の祈り」を祈りましたが、これはイエスが山上の説教において、弟子たちに祈り方を教えられた模範の祈りです。イエスは、人に見せるための偽善的な祈りを戒め、心から神に向かう祈りの模範として「主の祈り」を示されました。祈りは形式的なものではなく、日々の生活の中で神との関係を築くためのものです。そのためイエスは、弟子たちが必要としていること、赦しを求める罪、試練からの守りなどを、自分自身の言葉で具体的に祈るように教えられたのです。神は、私たち一人ひとりのあらゆる事柄に関心を持っておられます。
しかし、私たちがありのままを神に語れないのは、自分は神の教えを守れない者であり、神に愛される資格がないと感じ、このような祈りは神に受け入れられないのではないかと思ってしまうからです。つまり、本心を語れないのは、神との間に壁や溝をつくり、純粋に信頼できなくなっているからです。その結果、自然に呼吸するように祈ることができなくなってしまうのです。けれども、信仰とは「どれだけ神の教えを守ったか」ではなく、「どれだけ神の言葉を信じているか」にかかっています。行いや生活の在り方ではなく、ただ神の愛を信じることこそが、信仰の本質なのです。もし自分の努力や行いと祈りの結果を結びつけて考えるなら、「これだけ頑張ったのに、神は祈りに答えてくださらない」と思い込み、かえって神との間に壁をつくってしまいます。神は、私たちが罪人であることをすでにご存じのうえで、「それでもあなたを愛している」と語っておられます。神は、ありのままの私たちを受け入れ、愛してくださっています。私たちに求められているのは、その神の言葉を信じ、受け取ることだけなのです。神は私たちの姿を受け入れ、愛してくださっているのですから、私たちはその言葉を信じるだけでよいのです。神は、私たちが信頼をもって、ありのままを語り、具体的に祈るよう招いておられます。
③ 神に語る中で、神のことばが心に語られる
私たちは、なぜ神に対して深い祈りができないのでしょうか。その要因の一つとして考えられるのは、「神はすべてをご存じなのだから、わざわざ自分のことを具体的に語る必要はない」と思ってしまうことです。けれども、聖書は「あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい」と語っています。
イエスは「わたしが命のパンである」と宣言されました。これは、五つのパンと二匹の魚で五千人の空腹を満たす奇跡の後、群衆が再び物質的なパンを求めてイエスのもとに押し寄せてきたときのことです。イエスが「命のパン」と語られた真意は、地上における空腹を満たすためではなく、ご自身を信じる者に永遠のいのちを与えるためであるという点にあります。群衆が求めていた「地上のパン」は一時的な空腹を満たすだけですが、イエスが与えるパンは永遠の命へと導くものです。すなわち、羊飼いがいなければ迷う人々に対し、イエスご自身が人生の目的であり、生きる意味であり、さらに深い霊的真理へと導かれる方であることを示されたのです。群衆が様々なものを求める中で、イエス・キリストは神の御心を示されました。神のみことばは、神との対話を通して私たちに示され、力を与えてくださいます。そして、そのみことばは「祈りの呼吸」によって、私たちの内に生き生きと働きかけるのです。
イエスは十字架にかけられる直前、逮捕される前、深く苦悩しながらゲッセマネの園で祈りました。そのとき、汗が大粒の血のように流れ、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と訴えます。イエスの本心は、この苦しみを取り除いてほしいという願いであり、自分のありのままの弱さを神に打ち明けたのです。しかしすぐに、「しかし、わたしの願いではなく、あなたの願いがなりますように」と付け加えました。イエスは父なる神に、自分の思いをありのままぶつける中で、神に近づき、神との心を共有し、神のみことばを受け止めたのです。これこそが神との対話であり、「祈りの呼吸」といえるものです。祈りは呼吸のように、神に語り、神の声を受け取ることの繰り返しによって成り立ちます。神との対話を続けることで、自分と神との心の温度差がなくなり、霊的な安定が保たれるのです。
聖霊の実は、最初は小さな種かもしれません。しかし、その種は成長していきます。どのように成長するかというと、「祈りの呼吸」、すなわち自分の言葉と感情をもってありのままの自分を神に語り続けるときに、神のことばが自分に入ってくるのです。神のことばを受け取り、心に留めることによって、神とのコミュニケーションが深まり、御霊の実が稔っていきます。神との壁を取り払い、自分の言葉で神に近づき、語り続けることこそ、聖霊の実が豊かに稔る祈りの姿です。
Author: Paulsletter
