8月24日メッセージ
小平牧生牧師
「かつては、しかし、今は」
エペソ人への手紙 2章1~5節
先週の礼拝では、使徒ペテロが小アジアに散らされ、寄留していたキリスト者たちに宛てた手紙の結びの言葉から、「神の恵み」に焦点を当てて考えました。ペテロは「神の恵み」に堅く立ちなさいと力強く勧め、それを揺るがない信仰の土台として強調しています。ここで語られている「神の恵み」とは、私たちがふさわしくない者であるにもかかわらず、一方的に、無条件に与えられた神の愛と憐れみのことです。それは、私たちがまだ罪人であったときに、キリストが私たちのために死んでくださったという事実に最も明確に示されています。そして、この恵みの原則は、私たちの人生全体を貫いています。すなわち、私たちが罪から救われたのも、将来、完全に救われて栄光を与えられるのも、すべて「神の恵み」によるのです。この恵みは、過去の罪を赦すだけでなく、現在の歩みを支え、さらに将来の栄光へと導く力でもあります。だからこそ、私たちはキリストの栄光の現れと永遠の平安を目指し、どのような時にもその恵みに堅く立ち続ける者でありたいと願うのです。
この「神の恵み」という真理について、パウロも明確に語っています。今朝は、彼が小アジアの諸教会に宛てて書いた『エペソ人への手紙』を通して、パウロが示す「神の恵み」について考えてみたいと思います。
パウロはこの手紙を、まず神への賛美から始めています。主イエス・キリストの父なる神を称え、その理由として、「キリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださった」ことを挙げています(1章3節)。続く4節以降では、その祝福の具体的な内容が語られています。この章全体を通して、「キリストによって」「キリストにあって」という表現が繰り返されていることに気づかされます。つまり神は、世界の基が置かれる前から、私たちをイエス・キリストにあって選び、愛をもってあらかじめ定め、キリストの血による贖いと罪の赦しを与えてくださいました。これは、ただ神の豊かな恵みによるものだと、パウロは語っています。さらにパウロは、私たちが罪の赦しを受けただけでなく、神の国を受け継ぐ者とされ、その保証として聖霊が与えられたことも丁寧に記しています。
そして1章の後半に入ると、パウロは「こういうわけで、あなたがたのことを覚えて祈っています」と述べます。では、彼はなぜ、何のために祈っているのでしょうか。それは、イエス・キリストによって与えられた救いの真実を、心の目が開かれてはっきりと理解できるようにと願っているからです。救われているという事実には変わりありません。しかし、その恵みを十分に自覚できず、ぼんやりとしたまま生きてしまう人がいるのです。つまり、「救われている」ということと、「救いの現実を自分のものとして生きること」とは違うのです。神の子とされていても、神の子として与えられた特権や受け継いだ祝福に気づかない場合があり、それは神によって示されなければわからないこともあります。だからこそパウロは、ただ救われているという事実に満足するのではなく、次のように祈り続けています。
「あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒が受け継ぐものがどれほど栄光に富んでいるか、また、神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に注がれる神のすぐれた力がどれほど偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように」(エペソ人への手紙 1章18節)。
パウロは「神の全能の力」の偉大さを、イエス・キリストの働きを通して力強く語っています。その力は、キリストが十字架の死から死人の中よりよみがえられ、さらに天において神の右の座に着かれたことによって明確に示されました。「神の右の座に着く」とは、キリストが最高の権威と力を持つ存在であることを意味します。パウロはさらに、キリストの権威が「すべての支配、権威、権力、主権、この世ばかりでなく、来るべき世においても唱えられるあらゆる名」にまさる、絶対的なものであると語っています。すなわち、キリストはこの世に存在する政治的・霊的なあらゆる力を超越する、唯一無二の主権者なのです。そして、この絶大な力はイエス・キリストの十字架と復活においてだけ働いたのではなく、キリストを信じる私たちにも及んでいるのです。つまり、それは私たちをキリストとともに生かし、よみがえらせ、天において神の右の座に座らせてくださる力と同じであることを示しています。
① かつては、神から離れて「死んでいた」私
パウロはエペソ人への手紙2章1節で、キリストを信じる前の私たちの状態を「あなたがたは、自分の罪過と罪との中に死んでいた」と語っています。ここで言う「死」とは、肉体的な死ではなく、神との生きた関係が断絶している状態、すなわち霊的死を意味しています。創世記によれば、人間はもともと神によって創造されました。人間は単なる物質的な存在ではなく、神の命の息を吹き込まれて、神とつながる生きる者とされたのです。しかし人類の堕落によって、人は神から離れ、霊的に死んだ者となってしまいました。これは今も続く人間の根本的な状態であり、パウロが語るように「罪の報酬は死」であるという霊的現実なのです。私たちはそのような霊的死の状態のまま生まれてきたのであり、人生のある時点で罪人になったのではなく、初めから罪人として生まれてきたのです。ですからパウロが言うように、かつての私たちは神から離れ、霊的に死んでいた存在でした。霊的に死んでいる人間は、神の御心に従う力を持たず、罪の力に支配され、神の恵みから遠く隔てられているのです。
聖書において「死」という言葉は、三つの意味で用いられています。
第一に挙げられる「死」は、神との関係における「霊的な死」です。これは、神との生きた交わりを失い、神のいのちに結びついていない状態を指します。肉体的には生きているため、外見上は人の目には分からないかもしれません。しかし、本来「神のかたち」として造られた人間は、神を愛し、神のうちにある平安と喜びによって生きることを目的としています。その目的から逸れてしまっているならば、霊的には死んでいると言えるのです。ですから、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、この霊的な死の状態から回復され、永遠のいのちを得ることこそが、私たちの救いなのです。
第二の「死」は、「肉体的な死」です。私たちは誰もが例外なく、肉体的な死を経験します。たとえ霊的に神との交わりを回復し、新しく生まれ変わっていたとしても、また神の子とされていたとしても、この地上においては一度は肉体の死を迎えるのです。しかし、神とのつながりを持つ者には、たとえ肉体が死を迎えても、永遠のいのちが与えられています。したがって、霊的には生き続けているのです。
第三の「死」は、「永遠の死」です。聖書は、「霊的な死」「肉体的な死」に加えて、「永遠の死」があることを明確に記しています。人間は「神のかたち」として創造された、尊く、素晴らしい存在です。神との親しい交わりの中で生きるように造られました。しかし、神に背き、罪を犯した結果、神とのつながりを失い、霊的に死んだ状態となりました。その私たちを救うために、神はイエス・キリストを遣わされました。けれども、そのイエス・キリストを無視し、拒絶し、神の召しに応答しないならば、やがて「永遠の死」に至るのです。美しく生けられた花も、枝や根から切り離されていれば、やがて枯れて死んでしまいます。水を吸って美しく咲いているように見えても、すでに死に向かっている状態なのです。人間も同じで、見た目には元気で華やかに見えていたとしても、創造主なる神に繋がっていなければ、霊的には死んでおり、最終的には「永遠の死」に至るのです。
パウロは、この「永遠の死」の状態について具体的に描写しています(2章2〜3節)。まず、「この世の流れに従い」とあるように、神との関係が断たれ霊的に死んでいる人は、この世の流れに抗う力を持たず、流されるままになっています。この「流れ」とは、神から離れた価値観や自己中心的な欲望に支配された生き方を指します。さらに、「空中の権威を持つ支配者、すなわち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました」とあります。ここで言う「空中の権威を持つ支配者」とはサタンを指しており、彼はこの世のシステムを通して人々を神から遠ざける働きをしています。このように、神との関係が断絶している人間は霊的に「死んでおり」、罪に抵抗する力を持たず、罪の支配下に置かれています。そしてそのままでは、やがて「永遠の死」を迎えることになるのです。
しかし、霊的に死んでいるという現実を認め、悔い改める者は、「神の恵み」を受けることができます。なぜなら、「神の恵み」とは、相応しくない者にこそ神が与えてくださるものだからです。自分には相応しくないと認める者こそ、その「神の恵み」の価値を理解できるのです。イエス・キリストの十字架の死と復活は、罪の中にあって死んでいる者、滅びに向かう者、このままでは「永遠の死」に至る者のために与えられた、神の豊かな「恵み」なのです。
“…あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり…” 1
“かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。” 2-3
② しかし、今はキリストとともに「生かされている」私
背きの中に死んでいた私たちを、神はキリストとともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは、まさに神の恵みによるのです(エペソ2章5節)。さらに神は、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました(同6節)。エペソ書1章20節には、「神の全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上において神の右の座に着かせた」と記されています。神の全能の力はまずイエス・キリストに働き、十字架の死と復活においてその偉大な力が示されました。そして、この同じ力が、キリストとともにある私たちにも働いているのです。つまり、神の全能の力は、まずイエス・キリストにおいて完全に現され、次にキリストとともにある私たちの内にも働いて、私たちを生かし、よみがえらせ、天上においてキリストとともに座らせてくださるのです。
エペソ書2章5〜6節で用いられているギリシア語の動詞「生かし」「よみがえらせ」「座らせ」は、いずれもアオリスト時制で書かれています。アオリスト時制とは、単に過去の出来事を表すだけでなく、「過去に完結した一度きりの行為」を示す文法形式です。これは、イエス・キリストの十字架の死と復活という一度限りの出来事が、神の救いの計画において決定的な意味を持つことを強調しています。アオリスト時制の使用は、出来事が過去に完了したものであると同時に、その効果が現在にも及んでいることを示唆しています。つまり、パウロはこの三つの動詞を通して、キリストによる救いの三つの側面を、信じる者のためにすでに成し遂げられた確定的な事実として提示しているのです。そして、十字架の死と復活による救いは、過去に一度きり成し遂げられた歴史的事実であると同時に、その効果が今を生きるキリスト者に現実に及んでいます。私たちがキリストとともにすでに「生かされ」「よみがえらされ」「座らされている」ということは、もはや将来の希望だけでなく、現在すでに実現されている神の恵みを示しているのです。したがって、私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活によって、今もキリストに生かされ、キリストとともに生きているのです。
“背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。” 5-6
“ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪に支配させて、からだの欲望に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の道具として罪に献げてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい。” ローマ6:12-13
③ そのように救われたのは、神の恵みによる
私たちはかつて、神から離れ「死んでいた」者でした。しかし今は、キリストとともに「生かされている」者とされています。イエス・キリストによって永遠のいのちに結びつけられたことこそ、私たちの救いなのです。そして何より心に留めたいのは、そのすべてのプロセスが「神の恵み」によるということです。救いは、私たちの努力や信仰心、あるいは修行の行為によるものではなく、ただ神の一方的な愛と憐みに基づく恵みによるのです。救いとは、人間の功績の結果ではなく、「かつての私たち」と「今の私たち」との間に働いた、神の「大いなる愛」と「憐み」によるプロセスなのです。救いは、神の愛と憐みに始まり、そして神の愛と憐みによって完成する、すなわち、それが「神の恵み」です。この「神の恵み」を自分のものとするために、私たちに必要なことはただ一つ、自分が神から離れ、霊的に死んでいる者であることを認めることです。そうでなければ、救いの物語は始まりません。なぜなら、「神の恵み」とは、それを受けるに値しない、滅んで当然の私たちに、神が一方的に与えてくださるものだからです。自分が罪の中で死んでおり、この世の流れに従い、肉の欲のままに生きてきたことを認めなければ、「神の恵み」を本当に受け取ることはできません。「神の恵み」は確かに私たちのためにある―そのことを認める者だけが、この恵みを受け取ることができるのです。
人は、自分が罪人であるから滅びるのではありません。自分を罪人であると認めないがゆえに、滅びの道を歩むのです。私たちは罪人であってもよいのです。なぜなら「神の恵み」は、まさに罪人のために備えられたものだからです。しかし、自分が罪人であることを認めなければ、その恵みを受け取ることはできません。私たちの人生には、さまざまな出来事があります。もちろん、自分の力ではどうすることもできない出来事もあるでしょう。けれども、その中には、自分の罪のゆえにもたらされたものも少なくありません。それにもかかわらず、私たちは神から離れ、霊的に死んだ状態のまま、この世の流れに従い、肉と心の望むままを行いながら、その原因を自分以外のところに求め、不平や不満を口にし、問題のすり替えを繰り返しているのです。これこそが、パウロの言う「背きと罪の中に死んでいる者」の姿です。けれども、自らの罪を認めるとき、私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活に現された神の力を受け、その力がキリストを通して私たちの内にも働き始めるのです。だからこそ、私たちは神の前にへりくだり、自分の罪を悔い改め、イエス・キリストの救いにあずかる者とならなければならないのです。
“しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに…” 4
“神は、みこころの良しとするところにしたがって、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。…このキリストにあって、私たちはその血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。” 1:5,7
Author: Paulsletter
