8月17日メッセージ
小平牧生牧師
「神のまことの恵みの中に立つ」
ペテロの手紙第一 5章12~14節
ペテロの手紙は、当時ローマ帝国による迫害に直面していた小アジア各地のキリスト者(ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに離散していた人々)を励ますために書かれました。その手紙は、苦難の試練が信仰の真価を証しするためにあること、そして苦しみを通じてキリストの栄光にあずかることができると述べています。
今朝の聖書箇所は、その結びとなる最後の挨拶であり、同時に手紙全体の核心的なメッセージが込められています。ペテロは、迫害や困難によって信仰が揺らぎかねない状況の中で、手紙の冒頭で「生きている望み」として語られた復活の希望を再確認させます。彼は、「神のまことの恵み」の中にしっかりと立ち続けるようにと勧めました(Ⅰペテロ5:12)。この「神の恵み」こそが、キリスト者が堅く立つべき揺るぎない土台であることを強調しています。私たちもまた、この地上にあって困難や苦しみを経験し、当時の受け取り手と同じように「寄留者」としてこの世に散らされている存在です。それでも、私たちは神の真実な恵みに立つように召され、生かされています。だからこそ、自分の力や行いではなく、神の一方的な恵みと平安によって支えられていることを思い起こしながら、キリストの栄光の現れと永遠の平安を目指し、どのような時にもその恵みに堅く立ち続ける者でありたいと願います。
今日は、この手紙の最後に記された「神の恵み」に焦点を当てて、改めて確認していきたいと思います。
① 神の恵みに立つということ
聖書において「恵み」という言葉は繰り返し用いられています。ここで「恵み」と訳されているのは、ギリシャ語の 「カリス」 です。「カリス」の原義は「好意をもって受け入れること」「喜びを与えるもの」といった意味を持ち、コイネー・ギリシャ語では「恩寵」や「感謝の意」など、幅広い意味で使われていました。聖書的に言うならば、それは「相応しくない者、価値のない者に、無条件に与えられるもの」を指します。これに対する概念は「何らかの行いに対する当然の報い・報酬」であると言えるでしょう。もし「定められた行いをする結果、天国に行ける」とする教えがあるとすれば、それは「行いの報酬」であって「恵み」とは異なります。また、「性格が良く、心が清いから神に愛される」と考えるなら、それもその人の資質や行いの結果によるものと言えるでしょう。しかし聖書が語る「恵み」はそうではありません。むしろ、性格が悪く、欠けや弱さのある者であっても、神が変わらぬ愛をもって受け入れてくださることこそが「神の恵み」なのです。
牧師として務めを担ってきた中で、私が確信していることの一つは、信仰の歩みにおいて「神の恵み」を自分のこととして体験的に理解しているかどうかが、その人の信仰形成に大きな影響を与えるということです。つまり、「神の恵み」とは単なる言葉や抽象的な概念ではなく、自らの体験として深く知ることにこそ、信仰を形づくるうえで大きな意味があるのです。これは頭で理解しようとして分かるものではありません。なぜなら、「神の恵み」とは人間の一般常識とは根本的に異なるものだからです。では、なぜ私たちは「神の恵み」を知ることができたのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架において神の愛があらわされたからです。もし十字架がなければ、私たちは「神の恵み」を知ることすらなかったでしょう。なぜなら、この世にはそれに匹敵するものが存在しないからです。確かに「恵み」という言葉自体は世の中にもあります。しかし「神の恵み」とは本質的に意味が異なります。イエス・キリストの十字架によってこそ、私たちは「神の恵み」の真の意味を知るに至りました。それは、相応しくない者、価値のない者が無条件に愛されるということです。普通に考えれば、評価されるべきでない者が評価されることはあり得ません。通常は、愛されるに値する人が愛されるのであり、そのために人は「愛されるに相応しい者」になろうと努力するものです。しかし、神の愛はその常識とはまったく違うのです。
パウロがローマ人への手紙5章8節で述べているように、私たちは悔い改め、良い行いをした後に愛されたのではありません。むしろ、神に背を向け、敵対していたまさにその時に、神は一方的な愛をイエス・キリストの十字架を通して示されたのです。この神の愛は、私たちの状態や行いに左右されることなく、無条件に現されたものです。イエス・キリストの十字架こそが、私たちが救われるための「神の恵み」の本質です。また、パウロはガラテヤの諸教会へ送った手紙の中で、「これほど愚かな者なのか。御霊によって始めたのに、今、肉によって完成しようとしているのか」と厳しく戒めました。この言葉は、神の恵みによって始まった信仰生活を、人間の努力や律法によって完成させようとすることへの警告です。この傾向は、今日の私たちにも当てはまります。私たちは確かに神の恵みによって救われ、信仰の歩みを始めました。しかし、いつの間にか自分の行いや功績によって神に認められようとしてしまうのです。その結果、信仰を成長させるための努力が、知らぬ間に「律法主義」へとすり替わってしまいます。だからこそ、パウロは、救いと義の源はただイエス・キリストの十字架の恵みにあることを強調し、律法による義を退けたのです。キリスト者は、自分の内にある「行いによって神に認められようとする心」に気づかなければなりません。そして、律法ではなく、神の一方的な恵みによって生かされているという真理に、繰り返し立ち返ることによって、信仰は成長していくのです。
18世紀の神学者であるジョン・ウェスレーは、彼自身の経験として、「神のしもべであること」から「神の子とされること」へと、信仰のあり方が変えられたと語りました。ウェスレーは当初、厳格な規律や行いによって神に仕えようとしていましたが、やがて信仰の本質が、行いではなく、神との個人的な関係にあることを悟りました。「しもべ」は、その働きや行いによって評価され、認められようとします。しかし、「神の子」は、行いに関係なく、父である神との関係によってその存在が成り立っています。神の子どもたちは、すでに父なる神から愛され、認められている存在なのです。私たちは、自分が「しもべ」ではなく「子」であることを認識し、神の恵みの中で安心して生きることを学ぶ必要があります。この真理こそが、私たちの信仰を律法主義から解放し、キリストの愛と平安の中で成長させていく力となるのです。
放蕩息子の兄は、長年にわたり父のもとで忠実に仕え、父の命令に従ってきました。しかし、弟が帰ってきたとき、兄は父に不満をぶつけます。「私には子ヤギ一匹もくれたことがない」という言葉には、彼の心が「しもべ」の心であり、行いによって報酬を得ようとする姿勢を示しています。兄は、自分が父に尽くしてきた分だけの見返りがないと感じていたのです。しかし、父はこう答えます。「お前はいつも私とともにおり、私のものはすべてお前のものだ」。この言葉は、兄が単なる「しもべ」ではなく、「子」であり、父の相続人であるという揺るぎない真実を伝えています。兄は、父との関係がすでに与えられている特権や恵みによって成り立っていることを理解していなかったのです。
私たちは、この放蕩息子の兄の姿から、自分が救われているという真理を学ぶことができます。私たちは、父なる神を「ご主人様」としてではなく、聖書が教えるように「神の子」として呼ばれる存在です。神は私たちに「アバ、父よ」と叫ぶ特権を与えてくださいました。この特権は、私たちがどれだけ父の戒めを破っても、父との関係が一切変わらないことを保証しています。しもべは自分の働きによって認められようとしますが、子は父との関係において、行いに関係なくすでに認められ、愛されている存在です。ですから、イエス・キリストの十字架によって与えられた「神の子」という特権は、私たちの行いや功績に左右されることはありません。神の子となるためにすべきことは何一つないのです。神が望まれているのは、ただ私たちが父の愛を知ることです。私たちは、イエス・キリストの十字架によって初めて神の愛を知り、神の恵みを理解しました。この揺るぎない恵みの真理に立つとき、私たちは心からの平安と自由を得ることができます。神の恵みの中に生きるということは、まさにこのことなのです。
“忠実な兄弟として私が信頼しているシルワノによって、私は簡潔に書き送り、勧めをし、これが神のまことの恵みであることを証ししました。この恵みの中にしっかりと立っていなさい。” 12
“この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。” エペソ2:8-9
② 恵みによって救いが与えられている
ペテロは、この手紙の冒頭で、散らされて寄留している選ばれた人たちへと書き送っています(1章1-2節)。ギリシャ語原文を見ると、「選ばれた者たち」という言葉が、その後に続く「寄留者」「散らされた者」にかかっていることがわかります。つまり構文としては、ペテロが書き送っているのは「神によって選ばれた寄留者たち」というまとまりで示されており、「散らされた地」がどこであるかを限定しています。このことは、神の恵みによって選ばれた者たちに手紙を書き送っていることを強調する構文になっています。
ヨハネによる福音書15章で、イエスは弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを立てたのです」。この言葉は、私たちの救いが私たち自身の努力や選択の結果ではなく、神の一方的な選びによるものであることを明確に示しています。私たちは、イエス・キリストの十字架を信じて救われた者として、皆、神によって選ばれた者です。それは、私たちが選ばれるにふさわしいからではなく、ただ神の愛と恵みによって選ばれたのです。また、エペソ人への手紙2章8-9節でパウロも述べているように、「この恵みにより、あなたがたは信仰によって救われました。それは、あなたがた自身から出たことではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」。このことは、どれだけ困難な状況にあっても、私たちが自分の力や行いに頼るのではなく、神の揺るぎない選びと恵みに基づいて生きていることを自覚すべきであることを教えています。ですから、繰り返しになりますが、救いは決して私たちの行いによって完成されるものではありません。私たちは地上では「寄留者」かもしれませんが、天においては「選ばれた者」として、神の子という確かな身分を与えられています。それは、神の恵みの中に生かされているということなのです。
“イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別aによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。” 1-2
“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。” 1:3
“私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。”ローマ5:8
③ 恵みによって救いの完成が約束されている
ペテロは、前段の5章10節で、神の本質が「あらゆる恵みに満ちた神」であることを示しています。この恵みは、私たちを救いへと導くだけでなく、信仰を成長させる力そのものです。私たちは、この世の苦難からの一時的な慰めではなく、最終的には「永遠の栄光」へと導かれています。神は、私たちが苦しみの中で傷つき、疲れても、そのままにしません。神ご自身が、私たちの疲れを癒し、元の状態に回復させ、試練の中で揺らいだ信仰を堅く立たせ、信仰の道を歩み続けるための力を与え、私たちを不動の者としてくださいます。私たちの信仰は、恵みに始まり、恵みによって完成され、そして常に神の恵みによって貫かれているのです。
最後に、恵みの中に立ち続けるために必要なことについて話して、メッセージを終えたいと思います。「恵み」とは、本来相応しくない者に与えられる、神の一方的な愛の証です。その恵みの中に立ち続けるために必要なのは、信仰、すなわち父なる神への信頼です。本来、神に愛される資格のない私たちが神の愛を受け取るためには、愛を提供してくださる方を信頼することが不可欠であり、それが神に対する信仰なのです。恵みとは、価値のない者に一方的・無条件に与えられるものであり、それを自分のものとするためには、信頼して受け取る必要があります。受け取るためには、神を信頼して手を差し伸べなければなりません。信頼できない相手のものをどうして受け取れるでしょうか。子であるということは、父である神を絶対的に信頼することです。それが信仰なのです。放蕩息子の兄のように、父の戒めを守ったら「肥えた子牛の一匹でもほふってもらえるだろう」という関係ではありません。自分の行いによって報いを受けようとする者には、真の信仰は生まれません。その心には、報いを求める思いしかなく、父と呼んでいても、父と子という本当の関係はありません。私たちは、神の無条件の愛の中に生かされていることを知り、その恵みの中にしっかりと立ち続けることが大切なのです。
ジョン・ウェスレーは、「神のしもべであること」から「神の子とされること」へと、信仰のあり方が変えられたと語りました。彼は幼いころから信仰の教育を受け、信仰者として知るべきことを学び、なすべきことを教えられてきたことでしょう。しかし、そこには真の喜びはありませんでした。ある時、彼は神の本当の愛を知り、真に神の子とされた喜びを経験します。私たちもまた、自分の働きが評価されることを期待するしもべのような思いを抱くことがあります。その中で、報われない自分に苛立ちを感じることもあるでしょう。しかし、私たちはそうではなく、父なる神との子としての関係の中で与えられる愛と平安の中に生かされているのです。神は私たちを神の子としてくださいました。そして、私たちが父なる神の愛を受け取り、その恵みの中に立ち続けることを望んでおられるのです。
“あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみの後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。” 10
“愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけません。むしろキリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びなさい。キリストの栄光が現れるときにも、歓喜にあふれて喜ぶためです。” 4:12-13
Author: Paulsletter
