8月3日メッセージ
小平牧生牧師
「神の力強い御手のもとで」
(ニューコミュニティ合同礼拝)
ペテロの手紙第一 5章6~7節
ペテロは、教会に仕える人々と若い人たちに語りかけました。まず教会に仕える人々には、誰かに強いられてではなく、自ら進んで神に従うこと、目先の利益を求めるのではなく、神の栄光にあずかる時を目指すこと、さらに自分の思い通りに人を動かそうとするのではなく、まず自らが神の羊として模範を示すようにと勧めています。そして若い人たちには、そのように生きる先輩たちに従うよう促しています。さらにペテロは、「あなたがたは」と語りかけ、立場や世代を超えてすべての人に共通する最も重要な原則を示します。それは、互いに謙遜を身に着け、神の力強い御手の下で自らを低くすることです。なぜなら、「神は高慢な者を退け、謙遜な者に恵みをお与えになる」(ペテロの第一の手紙 5章5節)と聖書に記されているからです。この謙遜の姿勢こそが、教会の指導者にも若者にも、すべての信仰者に求められる霊的な土台と言えるでしょう。続けてペテロは、「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配していてくださるのです」(同 5章7節)と語り、あらゆる不安を神に委ねるようにと勧めています。今朝は、立場や世代を超えた、すべての信仰者に求められて大切な原則について学びます。
① 人間的な見方ではなく、神の主権のもとで
ペテロはここで、「みな互いに謙遜を身につけなさい」と語っています。この言葉はペテロの手紙だけでなく、聖書全体に繰り返し登場する重要なテーマです。しかし、「従順」や「謙遜」といった価値を体現する明確なモデルを、私たちの社会の中で見つけることは容易ではありません。実際、「謙遜」という行為は、現代社会において必ずしも好意的に受け入れられているとは言えません。なぜなら、「謙遜」や「へりくだり」には、本心とは裏腹な感情が伴いやすいからです。つまり、「謙遜であれ」と促されても、それを心からの恵みとして受け止められない現実があるのです。特に日本社会では、人間関係を重視する文化の中で、「人からどう見られるか」「どのように評価されるか」が重要視されがちです。その結果、「どんな状況でも頭を下げていればよい」といった形式的な振る舞いが奨励されることが多く、内心では納得していなくても、外面的には謙遜な態度を求められる傾向があります。しかし、そのような表面的な謙遜の裏に不満や批判的な思いが見え隠れする時、その「謙遜」が本物でないほど、むしろ虚しさや失望が深まってしまいます。けれども、聖書が教える「謙遜」は、そうした外面的な振る舞いに留まるものではありません。
本当の「謙遜」とは一言で言えば何か―それをChatGPT(人工知能)に尋ねてみました。すると、その答えは、「自分を正しく理解し、他者を尊重する姿勢」というものでした。
これは、過小評価や自己否定ではなく、自分の実力や立場をわきまえつつも、他者に敬意を払い、驕らない心を指しています。つまり、「謙遜」とは、ことさら自分を低く見せたり、控えめに装ったり、でしゃばらないように努めたりすることではありません。むしろ、自分自身を正しく理解すること、―それが本質なのです。そしてその理解があるからこそ、他者を尊重し、敬意をもって接することができるようになるのです。問題は、「どうすれば自分を正しく理解することができるのか」という点です。私たちはよく、自分の価値観で自分を評価しようとしますが、それは本質的には無理のあることです。なぜなら、神なき世界観においては、自分や他者の価値を測る唯一の手段が「比較」しかないからです。たとえば「偏差値」という指標があります。これは平均点を50とし、自分が平均からどれだけ離れているかで位置づけられる相対評価です。しかしそのような方法では、「自分は優れているか」「美しいか」「優しいか」「信仰深いか」などといった本質的な問いに対して、正しく答えることはできません。比較による自己理解は、優越感や劣等感を生むだけであり、そこから生じる「謙遜なふるまい」は、真の意味での謙遜とは言えないのです。
聖書が教えている「謙遜」は、他者と比較して成り立つものではありません。他者より謙遜に見せる、というのは作為的な態度であり、単なる人間関係の処世術にすぎません。真の謙遜とは、ペテロが語るように、「神の力強い御手の中で」実現するものです。他者との比較ではなく、絶対者であり、完全な愛をもって私たちを創られた神の視点を通して、初めて私たちは自分を正しく理解することができるのです。そしてその理解の中でこそ、私たちは真に謙遜な者となることができるのです。
“ですから、あなたがたは神の力強い御手の下にへりくだりなさい。” 6a
“人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。” 箴言18:12
② 自分のタイミングではなく、神のさだめた時を
自分のタイミングではなく、神が定めた時を待つ姿勢が大切です。ペテロはここで、「神のちょうど良い時に、高く上げてくださいます」と語っています。詳しい説明はされていませんが、この前の4節には、「大牧者(イエス・キリスト)が現れるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受ける」とあります。これは、神が来るべき時に、最も良いものを与えてくださるということを意味しています。つまり、神の考える“ちょうど良い時”に、最善の形で報いてくださるということです。しかし現実には、私たちはしばしば神の時ではなく、自分が望むタイミングで報いを受けたいと願ってしまいがちです。けれどもペテロは、「いま、謙遜な姿勢をとることが大切だ」と語ります。そして、神の報いの時とは人間の期待に合わせた時ではなく、神が定めた最善の時であるのです。
その「時」がいつ訪れるのか、私たちにはわかりません。しかし、神は私たちの謙遜でへりくだった姿勢に、必ず応えてくださるのです。そして問われているのは、「その時が来ることを信じて待つことができるかどうか」です。なぜ私たちは、神の定めた時を待たなければならないのでしょうか?それは、神の定める時こそが最善であり、その時を決める権威と力は神にのみ属しているからです。人間には、その時を支配する力はありません。私たちは、自分の思い通りに時を支配しようとする欲望をも手放さなければならないのです。私たちの「生」も「死」も、すべては神の愛の御手の中にあるということを、「あきらめ」としてではなく、積極的な信頼として受け入れ、生きることができるかどうかが問われているのです。だからこそ、神の定めた時が訪れるまで、私たちは与えられた使命を忠実に果たしつつ、信じて待つことが大切なのです。
“…神は、ちょうど良い時に、あなたがたを高く上げてくださいます。” 6b
③ 自分で思い悩むのではなく、神に全面的に信頼する
ペテロの手紙第一5章7節には、「思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい」とあります。これは、私たちにとって非常に力強い慰めの言葉です。なぜなら、神が私たちのことを心から心配してくださるからです。もし神が私たちに無関心であるなら、私たちが神にすべてをゆだねることは意味がありません。しかし、聖書が語る真の神は、私たちのことを深く気にかけてくださるお方なので、一切を神にゆだねることはまさに理にかなっているのです。この世界には、人間が創り出した様々な宗教や偶像の神が存在します。しかし、それらが本当に私たちに関心を持っているのでしょうか? もし本当に関心があるというのなら、それらにゆだねることも選択肢となるでしょう。しかし、聖書が語る神は、私たちの思いを遥かに超えて、深く私たちに関わってくださる創造主なる神なのです。
神がどれほど私たちを気にかけておられるか、その最大の証しは、滅びゆく私たちのためにイエス・キリストをこの世に遣わしてくださったことです。イエス・キリストは、私たちの罪を贖い、その滅びから救い出し、永遠のいのちと永遠の住まいを備えてくださいました。だからこそ、私たちはペテロの言葉を心に刻み、真の神にすべての思い煩いをゆだね、全面的に信頼して生きるべきです。そうすることによって、私たちは来るべき神の最善の時に、最高のものを受け取るという確かな希望と、深い平安を見いだすことができるのです。
“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださる からです。” 7
Author: Paulsletter
