6月22日メッセージ
小平牧生牧師
「私のヒーロー、ステパノ」
使徒の働き7章54~60節
初代教会が急速に成長する中で、ギリシャ語を話すユダヤ人(ヘレニスト)のやもめたちが、日々の食料の配給において不公平な扱いを受けているとして、不満の声が上がりました。この問題に対処するため、使徒たちは共同体の信者たちに対し、自分たちが福音宣教と祈りに専念できるよう、「聖霊と知恵に満ち、評判の良い人々」という条件で、この奉仕の働きを担う七人の奉仕者を選ぶように求めました。ステパノは、その選ばれた七人のうちの一人であり、特に「信仰と聖霊に満ちた人」として紹介されています(使徒の働き6章5節)。さらに彼は、恵みと力に満ち、人々の間で大いなるしるしと不思議を行いました(同6章8節)。しかし、こうした彼の働きは、当時のユダヤ教の指導者たちの反感を招くことになります。ステパノは、イエス・キリストを証ししたことによって、神の名を冒涜したとして訴えられ、裁判にかけられることとなりました。
『使徒の働き』7章1節から続く箇所は、その裁判の場におけるステパノの長い弁明の場面です。彼はアブラハムの時代から自身の時代に至るまでのイスラエルの歴史を振り返り、民が一貫して神に逆らい続けてきたこと、そして最終的にメシアであるイエスを殺したことを厳しく指摘します。さらに、神殿礼拝のあり方にも言及し、結論として、聞いていたユダヤ人たちが聖霊に逆らい、律法に背いていると強く非難しました。この弁明の後、ステパノはユダヤ人たちによって石打ちにされ、殉教します。彼はイエスの弟子の中で最初の殉教者となりました。ルカはステパノのことを「聖霊に満ちた人」と記していますが、この表現は『使徒の働き』の中で繰り返し用いられ、初代教会の信仰と働きを理解する上で非常に重要です。
「聖霊に満たされる」という表現は、神学的・教理的に多岐にわたる理解があり、伝統や教派によってその考え方や聖霊観は異なります。ある教派では、「聖霊に満たされる」ことを、単なる罪からの解放だけでなく、罪のもたらす内面的な性質の清め、すなわち聖化のプロセスとして捉えます。また別の教派では、「聖霊に満たされる」とは、癒しや異言などの霊的賜物が与えられる体験と考えます。これらの理解はどれも、神から与えられる素晴らしい恵みであることに変わりはありません。しかし、私たちにとって本当に大切なのは、「聖霊に満たされる」ことによってどんな経験や賜物が与えられるかということよりも、聖霊によって新しく生かされ、神の子とされ、その導きによってどのように歩んでいるかということです。
今朝は、特に『使徒の働き』の著者ルカが示している「聖霊に満たされる」とは、具体的にどのような意味を持つのかを深く学んでいきたいと思います。
第1 聖霊に満たされているからと言って
① メッセージによって人々に感動を与えるわけではない
『使徒の働き』7章1節以降では、ステパノの長い説教が展開されます。しかし、ルカは、ここの個所で、ステパノの説教を聞いて感動し、悔い改め、回心した人が生まれたとは記録していません。むしろ、ステパノはおそらく聖霊に満たされて説教したにもかかわらず、人々は回心どころか、「はらわたが煮えくり返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりをした」と記されています(使徒の働き7章54節)。このような聴衆を目の前にして、ステパノが神の御言葉を語り尽くすことができたのは、まさに彼が聖霊に満たされていたからだと言えるでしょう。しかし、このことからわかるのは、人を感動させ、回心に至らせることが、必ずしも「聖霊に満たされた」説教の唯一の基準ではないということです。このことは、説教を聴く側の私たちにとっても重要な示唆を与えます。「聞きやすい」とか「分かりやすい」という基準だけで、説教の良し悪しを判断することはできません。聖書の言葉は、私たちを教え、戒め、矯正し、義の訓練を与えるものです(テモテへの手紙第二3章16節)。そのため、時には自分の考えと違うことや、耳の痛いメッセージとして示されることもあるでしょう。しかし、説教を聞いて、自分の考えや行動が正されるのであれば、それは神の言葉を聞いていることになります。単に耳障りの良い説教を聞いて、「ためになった」「慰めや励ましになった」というだけでは、真の神の言葉を聞いていることにはなりません。神の言葉は、時に、聞くに堪えないほど厳しい言葉である場合もあることを、私たちはしっかりと心に留めるべきです。
“人々はこれを聞いて、はらわたが煮えくり返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりをしていた。”54
② 苦難からいつも助けられるわけではない
キリスト者の証しには、「神が助けてくださった」という素晴らしい体験が数多くあります。しかし、私たちが心に留めておきたいのは、すべての場合に助けが与えられるとは限らないという現実です。
ステパノは石打ちにされ、殉教しました。神は彼を奇跡的に助け出すこともできたでしょう。けれども、彼は助けられなかったのです。それでも、その苦難の中にあって、信仰を捨てることなくキリストを証しし、命をささげた彼の姿には、神の深い恵みが現れています。助けられることも確かに神の恵みです。しかし、苦難に耐える力を与えられ、それを受けることができるということもまた、神の恵みなのです。たとえキリストの福音のために命をささげることになったとしても、それは神の憐れみと力によることであり、聖霊によって支えられてこそ可能なのです。私たちは、誰かのためにわずかな物を分け与えることすらためらってしまう弱さを持っています。にもかかわらず、もし私たちが、自分の持ち物、さらには命までも差し出すことができるとすれば、それは私たち自身の力ではなく、聖霊の働きによるものです。私たちはしばしば、「助けられること」ばかりを求めがちです。もちろん、それは大切で、祈り求めてよいものです。しかし、「助けられること」だけが、聖霊に導かれた結果ではありません。
この世界には、信仰のゆえに命を落とした多くの殉教者たちがいます。神に助けられることなく命を落とした人々が、これまでにどれほどいたことでしょう。そして今もなお、世界のさまざまな地域で、同じような状況に置かれている人々が存在します。では、なぜ彼らは、そのような過酷な状況の中でも、最後までイエス・キリストへの信仰を貫くことができるのでしょうか。それは、彼らが聖霊によって、信仰を全うする力を与えられているからです。
“人々は…一斉にステパノに向かって殺到した。そして彼を町の外に追い出して、石を投げつけた。” 57-
③ その姿によって人に影響を与えるわけではない
ルカの記述するこの場面には、少しだけサウロ(後の使徒パウロ)が登場します。当時のサウロは、イエス・キリストとはまだ出会っておらず、熱心なパリサイ派のユダヤ教徒として、積極的にキリスト者を迫害していました。『使徒の働き』8章1節には、「サウロはステパノの殺害に賛成していた」と記されています。この場面において、サウロはステパノの殉教を目撃していたのです。ステパノは、聖霊に満たされ、顔が御使いのように輝いていたと記されています(6章15節)。その姿はまさに、神の臨在に満たされた人を表現していたに違いありません。しかし、サウロはその輝きにまったく気づかず、心を動かされることもありませんでした。私たちは人間的な視点から、「もしサウロがステパノの語ったメッセージや、その輝く姿に何らかの感銘を受けていたらよかったのに」と思うかもしれません。しかし、実際にはこの時点で、サウロの心は固く閉ざされており、何の感動も起きていなかったのです。このことから私たちが学べるのは、「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたはわたしの証人となる」(使徒1:8)というイエスの言葉は、聖霊に満たされることが即座に人々の心を変える結果を生むという意味ではない、ということです。たとえ私たちが聖霊に満たされ、主の証人として語ったとしても、人々の心が開かれるかどうかは私たちの働きによるのではなく、イエス・キリストご自身の御業によるのです。
私たちは、「自分が聖霊に満たされて語れば、きっと誰かが信じてくれるだろう」と期待してしまいがちです。しかし、それは本質的に正しい考えとは言えません。私たちは証人であって、心を変える者ではありません。人の心を動かし、救いへと導かれるのは、あくまでも主ご自身の働きによるのです。「聖霊に満たされる」とは、イエス・キリストが私たちのうちに生きて働かれるということであり、その力によって私たちが主の証人とされていくということなのです。ステパノの姿からもわかるように、証人になろうと無理に力む必要はありません。ただ、聖霊に満たされて歩むとき、私たちの存在そのものが証しとなるのです。
“…証人たちは、自分たちの上着をサウロという青年の足もとにおいた。”58
第2 聖霊に満たされていることによって
① どんな時にも主を見上げることができた
私たちは、同じものを見ていても、人によってその「見え方」や「見えるもの」は異なります。ある人には、四方八方が塞がれ、希望などまったく見いだせない状況に思えるかもしれません。しかし、別の人には、まさにその同じ状況の中に天が開け、イエス・キリストの御姿が見えるのです。つまり、同じような苦しみや試練の中にあっても、ある人は暗闇しか見ることができず、不平や不満の言葉しか出てこないかもしれません。一方で、聖霊に満たされている人の心には、そこから賛美や感謝の言葉が自然と湧き上がってくるのです。
では、何がその違いを生み出すのでしょうか? それは、環境が変わることではありません。変わるのは、その人の霊的な状態です。「聖霊に満たされ、天をじっと見つめていたステパノ」の姿が示しているように、聖霊に満たされることこそが、同じ状況の中でも視点を変える鍵なのです。私たちの内には、イエス・キリストを信じる信仰によって、聖霊なる神が住んでおられます。その聖霊を崇め、従うとき、たとえ外側の状況が変わらなくても、私たちの霊の目には天が開かれ、イエス・キリストの栄光を見ることができるのです。
“しかし、聖霊に満たされ、じっと天を見つめていたステパノは、神の栄光と神の右に立っておられるイエスを見て、「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます」と言った。” 55
② 自分のいのちを主に委ねることができた
私たちは、神を信じ、神によって生かされていると信じています。つまり、私たちは神に選ばれ、神によって命を与えられ、導かれているのです。ステパノの人生もまた、神によって選ばれ、導かれたものでした。聖霊が彼のうちに臨み、「これから福音宣教の実り多い時代が始まる」と思われた矢先、彼は初代教会の最初の殉教者としてその生涯を閉じることになります。ステパノの人生がそのように導かれたということは、彼自身の願いや思い通りの人生を歩んだというよりも、神が彼にとって最善の道を備えてくださったという事実に他なりません。もともと命を与えたのは神であり、だからこそ、その命を神のためにささげることができたのです。ステパノは、死を目前にしても、「なぜ私なのですか」「私ではなく、他の誰かではいけないのですか」と神に問うことはしませんでした。投げつけられる石を避けようともせず、自らの身を神にゆだねたのです。そして、死の直前には「主イエスよ、私の霊をお受けください」と祈り、自らの霊を主に委ねる信仰を表しました。私たちもまた、どのような状況に置かれていても、聖霊に満たされるとき、「私の霊をあなたの御手に委ねます」と告白することができるのです。
“こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」” 59
③ 敵を赦すことができた
ステパノは、自分に石を投げつける者たちに向かって、「この罪を彼らに負わせないでください」と叫びました。ここに至るステパノの姿からわかるのは、主を見上げ、自分のいのちを主に委ね、そして自分の敵を赦すという一連の流れが、非常に重要な意味を持っているということです。私たちは、「敵を赦さなければならない」ということを頭では理解していても、実際にその赦しの行為に移すことは簡単ではありません。なぜなら、しばしば「赦さなければ」とその一点だけに焦点を当ててしまうからです。しかし、聖書が示しているのは、まず天を見上げ、神を見つめ、自分自身を神に委ねるというプロセスです。このプロセスを経て初めて、私たちは敵を赦すことが可能になるのです。天を仰ぎ見るとき、私たちは自分の立ち位置と神の偉大さや愛を知り、自分の霊を神にゆだねることができるのです。そして、自らを神に明け渡した者だけが、他人を赦すことができるのです。自分自身の霊を神に委ねることができない人が、特に敵を赦すことはできません。だからこそ私たちは、聖霊によって天を仰ぎ、神に自分の生と死をゆだねることができるようにと、日々祈り求める必要があるのです。そして、そのとき初めて、私たちは隣人を愛し、赦す者へと変えられていきます。ステパノは、決して特別な人物ではありません。彼をそのような姿に変えたのは、聖霊なる神です。そして同じ聖霊が、今を生きる私たちにも働き、同じ恵みと力を与えてくださるのです。
“そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。” 60
Author: Paulsletter
