6月1日メッセージ
小平牧生牧師
「教会の光と闇と」
使徒の働き4章32節~5章11節
イエス・キリストが十字架にかかる前夜、弟子たちに聖霊の到来を約束された場面が記されています。ヨハネによる福音書14章16節で、イエスはこう語られました。「わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父はもうひとりの助け主をお与えになる。その助け主が、あなたがたとともに永遠におられるためである。」イエスはこのようにして、聖霊の到来を約束されたのです。その後、イエスが昇天されたのち、約束どおり聖霊が弟子たちの上に降臨し、福音宣教の働きが始まります。この出来事は、『使徒の働き』第2章に記されている「ペンテコステの出来事」です。弟子たちは聖霊に満たされ、異言を語り始めました。そして、多くの人々がその証しを通して悔い改め、バプテスマを受けたのです。こうして、イエスをキリスト(救世主)と信じる人々の共同体が誕生しました。
『使徒の働き』には、初代の教会が福音を広める過程で直面した外的な迫害と、内的な葛藤・罪という両面の困難が、非常に生々しく記録されています。4章の前半には、サンヘドリン(ユダヤ最高法院)の宗教指導者から迫害があり、ペテロとヨハネは、足の不自由な人を癒したことで捕らえられ、イエスの名によって語ることを禁じられますが、彼らは「神に従うより人に従うほうが、神の御前で正しいかどうか、あなたがたが判断しなさい」と毅然と答えています(使徒の働き4章19節)。 今朝の聖書箇所である5章には、教会の中に入り込む偽善・見せかけの信仰という問題が浮上します。
当時の教会では、信徒たちが自分の財産や所有物を売り、その代金を使徒たちのもとに持ち寄って、共同体の中で必要に応じて分かち合うという実践がなされていました。これは政治的な動機によるものでも、特定のイデオロギーに基づくものでもありませんでした。信者たちは、イエス・キリストによって与えられた救いの喜びと、聖霊による一致の実を結ぶかたちで、自発的に所有物を分かち合ったのです。そこには、神の愛が具体的に表されており、キリストへの信仰と愛に根ざした共同体の姿が示されていました。しかし、そうした共同体の中で、アナニアとサッピラは土地を売って得た代金の一部を隠しながら、すべてを献げたと偽りました。この行為は聖霊を欺く罪と見なされ、その結果として、彼らは死に至ることになったのです。
今朝は、アナニアとサッピラの出来事を通して、私たちが学ぶべきことについて考えてみたいと思います。
① 自分にも闇の部分があることに、誠実な態度でいたい
聖書において「光」と「闇」は、しばしば善と悪、真理と偽り、神の臨在と神からの隔たりなどを象徴する概念として描かれています。「光」であるイエス・キリストがこの世に来られたことにより、人々の中にある「闇」、すなわち罪や偽りが明らかにされました。つまり、神の「光」がなければ、人は自らの内にある罪や欠けに気づくことができなかったのです。人は「闇」の中にいるとき、それを「闇」として認識できないかもしれませんが、「光」が差し込むとき、自分の本当の状態が明らかになるのです。私たちはかつて暗闇の中にありましたが、イエス・キリストの十字架による贖いによって、今は「光の子」として歩む者とされたのです。
『使徒の働き』4章32節には、「信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた」と記されています。そして、「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」のです。当時のイエス・キリストを「救い主」として信じる共同体では、信徒たちが自分の財産や所有物を売り、その代金を使徒たちのもとへ持ち寄り、必要に応じて共同体の中で分かち合うという実践がなされていました。これは、共産主義を強制するものではなく、また財産の放棄を義務付けるものでもありませんでした。 信者たちは、イエス・キリストを通して得た救いの喜びと、聖霊による一致の結果として、自発的に所有物を分かち合ったのです。つまり、そこには神の愛が具体的に実践されており、キリスト信仰と愛に基づく共同体のあり方の一つが表れていました。
ここで心に留めたいのは、信徒たちのこのような姿は、イエス・キリストを信じる者を獲得するため、あるいは、人々に福音を信じさせるために、このような互いの所有物を分かち合っていたのではありません。もちろん、共同体の構成員が互いに愛し合い、助け合う姿を見て、教会の素晴らしさを感じることができるのであり、現代の私たちに、伝道のあり方を考えさせる姿でもあります。また、イエス・キリストが言われたように、「あなたがたの間に愛があるなら、それによって、すべての人が、あなたがたがわたしの弟子であることを知る」(ヨハネによる福音書13章35節)とあるように、人々は私たちがキリストの弟子だと知ることができるかもしれません。しかし、私たちに問われている本質は、心の内にある内面的な思いなのです。すなわち、この点に関して、以前に学んだ通り、『使徒の働き』には、当時の信徒たちの姿が詳細に描かれています。「彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた」(使徒の働き2章42節)。彼らは「互いのものを分かち合い、必要に応じて皆に分配した」(使徒の働き2章45節)と記されています。これは、外的な成果や伝道のためというよりも、内的な信仰の現れであり、聖霊によって結び合わされた共同体としての自然な愛と分かち合いの精神なのです。
しかし、そのような共同体の中で、麗しい姿でありながら、共同体にとって、大きなダメージとなる出来事が起こりました。アナニアとサッピラは土地を売った代金の一部を隠しながら、すべてを献げたと偽りました。この行為は、聖霊を欺く罪となり、彼らはその結果として死に至ることになります。
ペテロの言葉によれば、それは「神を欺いた」(使徒の働き5章3〜4節)行為でした。そして、本書の著者ルカが結論づけているように、「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた」(5章11節)と記されています。この出来事を見聞きした人々の中には、「ひとりもこの交わりに加わろうとはしませんでした」が、その一方で信徒たちに対する尊敬の念は失われていませんでした。それどころか、「主を信じる者は男も女もますます増えていった」(5章13〜14節)と記されており、人々が神に対する罪とその裁きを知って、神の聖さに心を打たれ、厳粛な思いに満たされたことがうかがえます。そして、多くの人が主の弟子となる道を選び取っていったのも事実です。
私たちが主の証人となるということは、この世の価値観における正しさや真面目さ、豊かさによって優れていると見せることではありません。確かに、キリスト者としての生き方には、周囲に良い影響を与える「光」のような側面もありますが、同時に、私たち自身の内にある罪深い「闇」の性質が明るみに出されることでもあります。そのことによって、人々に神への畏怖の念を引き起こすという結果を生み出すのです。そのため、「あなたのようなキリスト者を尊敬はするが、自分にはそのようには生きられない」と感じる人がいるのも自然なことでしょう。しかし、そのような中にあっても、聖霊なる神が人々の心に働きかけ、信じる者が起こされていくのです。ですから、私たちは人間の罪の現実に触れずして、福音を伝えることはできないのです。
キリスト者にならなければ、罪の問題を深く問われることはなかったかもしれません。しかし、キリスト者となったからこそ、罪に悩み、葛藤する経験をするようになるのです。「闇」の中に居続けていれば、その「闇」に気づくことはなかったでしょう。けれども、「光」に照らされ、「光」を知ったからこそ、自分の中にある「闇」が明らかにされたのです。その意味で、アナニアとサッピラの姿は、私たち自身を映し出しています。彼らの中にあった「闇」が明るみに出たことによって、私たちにも重要なことが示されているのです。すなわち、私たちのうちにも同じような「闇」が存在しているという事実が明らかにされたのです。だからこそ、私たちは自分の内にある「闇」の部分を素直に認め、それに対して誠実な態度をとっていかなければならないのです。
“さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。…彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。” 4:32-
“ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知のうえで、代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置いた。…ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言いなさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。” 5:1-2,8
② 大きな祝福を受けながらも、神を欺く人間の思い違い
アナニアとサッピラの出来事を通して思わされるのは、聖霊に満たされるという大きな祝福の中にありながらも、人は神を欺くという過ちを犯してしまうという人間の弱さです。使徒の働き4章の終わりには、美しい愛の共同体の姿が描かれています。誰一人、自分の所有物を自分だけのものとせず、必要に応じてそれを差し出し、分かち合うことができました。その結果、「一人も乏しい者がいなかった」と記されています。それは人間の力によるものではなく、イエス・キリストの十字架の死と復活を知る者たちによって生まれた、神の愛の交わりの実りでした。彼らは無償の愛を喜び、感謝しながらそれを実践していたのです。
アナニアとサッピラ夫妻もその交わりの中にいました。私の想像ですが、彼らは初代教会の模範的人物であるバルナバに憧れていたのではないかと思います。彼も畑を売り、その代金を使徒たちの足もとに置いたと記されています。しかし、アナニアとサッピラは、売った代金の一部を手元に残しながら、あたかも全額を献げたかのように装いました。本来、自分の財産を売るか売らないか、また、その代金をどれだけ献げるかは自由であり、誰からも強制されるものではありませんでした。にもかかわらず、彼らは虚栄心から偽りを行い、バルナバのように見られ、賞賛されたいと願ったのです。その心の動機は、バルナバとは全く異なるものでした。
ペテロは彼らに、「それは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ」と厳しく指摘しました。人を欺く行為に見えて、実は神ご自身を欺こうとしたことが、問題の核心だったのです。神に対して誠実であるか否かが問われるのは、神と人との関係が人格的な関係であるからです。人格的な関係だからこそ、神を愛し、信頼することができる一方で、その信頼を裏切ることも、欺くこともできてしまうのです。わかりやすく言えば、もし神が私たちを偽り、欺く存在だったならば、私たちは神を信じることができるでしょうか。しかし、現実には、私たちこそが神の信頼を裏切り、偽り続ける者なのです。聖書の歴史を通しても、神が真実と愛をもって導いてくださっているにもかかわらず、人は神を欺き、繰り返しその信頼を裏切ってきました。それでもなお、神はそんな私たちを愛し続けておられるのです。この神の愛を知るとき、私たちは神との人格的な関係に生きることができるようになり、真に神を信じることができるようになるのです。問題だったのは、献げなかったこと自体ではありません。惜しむ気持ちがあったとしても、それを正直に神の前に告白していればよかったのです。神は私たちの財産を求めておられるのではなく、私たちの誠実な心、愛に満ちた心を求めておられるのです。
“さて、信じ“すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのものであり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなことを企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」” 5:3-4た大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた。…彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった。” 4:32-
“思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。” ガラテヤ6:7
③ 神を欺くことは、教会の交わりを壊すことでもある
アナニアとサッピラに下された神の裁きは、あまりにも厳しすぎると感じるかもしれません。確かに、彼らが神を欺いたという事実は動かしがたく、それが重大な罪であることも否定できません。しかし、その結果が「死」であったことに、恐れを抱くのも自然な反応でしょう。私自身も、アナニアとサッピラと同じように、神の前に罪ある者であることを否定できません。これまでどれほど神を欺き、偽ってきたことでしょう。一方で、「お父さん」と呼びかけ、感謝の祈りを捧げながらも、神に対して不誠実な言動を繰り返してきたのが、まさに私自身です。ですから、私は彼らを責める資格など持ち合わせていません。私もまた、神から与えられた多くの恵みの中から、ほんのわずかしか捧げることができない者です。それは金銭に限らず、やるべき務めがあると知りながら、「したくない」という理由で避けてしまったことが、何度あったことでしょう。
『使徒の働き』には、このアナニアとサッピラの出来事を見聞きした人々に「非常な恐れが生じた」と記されています。そして、この場面で著者ルカは、初めて「教会(エクレシア)」という言葉を用います。彼は福音書の中では一度もこの言葉を使いませんでしたが、この出来事を通して、イエス・キリストを「救い主」と信じる者たちの共同体を「教会」として表現したのです。つまり、アナニアとサッピラの出来事は、単なる個人的な失敗ではなく、「教会」全体に関わる深刻な問題であるとルカは伝えようとしているのです。
確かに、「教会」はすばらしい交わりを築いていました。乏しい者が一人もいないような愛の共同体が形成されていたのです。しかし、どれほど外面的に整った交わりを持ち、聖霊の働きが力強く現れていたとしても、また、日々信じる者が加えられていたとしても、ルカは私たちに「教会の本質とは何か」と問いかけているのです。教会が何をできるか、どんな状態にあるか、教勢が伸びているかどうか、あるいは繁栄しているかどうかが問われているのではありません。むしろ、「私たちは神の前で、どのような存在であるか」が問われているのです。神の前において、欺きや偽りに対して無関心であってはならないということを、ルカは厳しく警鐘を鳴らしているのです。
アナニアとサッピラがどのような年齢で、どの程度の信仰を持っていたのかは詳細は記されていませんが、信仰的に未熟であったことは確かです。彼らは、自分たちの行為が、誠実に財産を捧げていた兄弟姉妹たちへの裏切りであることに気付いていませんでした。人間的な未熟さや欠けがあること自体は問題ではありません。私たちが真に考えるべきことは、神の前において共に成長していくような交わりを育むことです。外見だけを整え、キリスト者であるかのように装う者を生み出すことでも、そう見せ合うことが「教会の交わり」なのでもありません。むしろ、自分の内に「闇」としての罪の部分があることを認め、自覚しながらも、互いに愛し合い、支え合い、祈り合って神に従っていく。そのような、未熟さを隠さず、正直でいられる交わり。未熟さが裁かれることのない、赦しと恵みの交わりを築いていかなければならないのです。惜しむ心があるならば、偽ることなく、捧げられる分だけを喜んで捧げればよいのです。それを互いに喜び合うことができる交わりでありたいのです。惜しむ心があるにもかかわらず、ないふりをして偽ることはしてはなりませんし、そのような空気を作り出してもいけません。自分の心の中に惜しむ気持ちがあるならば、正直に神の前に出て、「わずかなものさえ惜しむ者です」と憐れみを求めて祈る。そうした心を、互いに受け入れ、祈り合うことのできる交わりでありたいのです。そして、共に愛し合い、支え合う「教会」として歩みたいと、心から祈り求めていきたいと思います。
“そして、教会全体とこのことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。”11
“あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。”1コリント3:16-
Author: Paulsletter
