「最初のしるし」

5月19日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「最初のしるし」
(イエス・キリストの生涯⑤)
ヨハネの福音書2章1~11節

 ヨハネは、20章30節において、自身が書き記した福音書に記録されたイエスによる奇跡やしるしが全てではないことを示唆しています。他にも多くの奇蹟が弟子たちの面前で行われているということです。しかし、これらの奇蹟やしるしが単なる驚くべき出来事ではなく、神の力と臨在を示すものであったことが重要です。弟子たちは、これらの奇蹟やしるしを通してイエス・キリストを信じました。

 ヨハネの福音書は独特の構成と内容を持ち、多くのエピソードや教えが他の共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)とは異なります。カナの婚礼での水をぶどう酒に変える奇蹟のできごともその一つです。ヨハネが福音書にこれらの出来事を書き留めた目的は、読者にイエス・キリストが神の子であり、人類の救い主であることを信じさせるためであり、奇蹟やしるしを通して、イエスの神性を明らかにし、人々に救いの希望を与えることでした。ヨハネによる福音書はこのように、イエス・キリストを信じる信仰の土台を築き、その名によって永遠の命へと導く役割を担っているのです。

 今朝は、イエス・キリストがガリラヤのカナで行った最初の奇蹟である「カナの婚礼」に思いを馳せ、その出来事に込められた深い意味について考えてみたいと思います。

 カナの婚礼の状況を説明すると、イエスの母マリアがそこにいたこと、イエスとその弟子たちもその婚礼に招かれていたことがわかります。マリアの婚礼への関わり方から、この婚礼はマリアの親戚筋のものであったと考えられます。また、この場面では夫ヨセフが登場していないため、この時すでにヨセフは亡くなっていたと推察されます。

 当時のユダヤ人の婚礼には、二つの段階がありました。最初は「婚約」です。婚約の儀式が終わると、その瞬間から約1年間の婚約期間が始まり、二人は夫婦同様に見なされます。この期間に男性は実家に戻り、花嫁を迎える準備を始めます。婚約を破棄するには、離婚と同じ手続きを踏まなければなりませんでした。次の段階は婚姻の儀式の後に行われる「婚宴の催し」です。若い二人は新居に客を招待し、できるだけ多くの人に祝福を祈ってもらう祝宴が一週間ほど続きます。

① 私たちには備えたものが尽きてしまう時がある

 婚宴において、ぶどう酒が足りなくなるという事態が発生しました。婚宴でぶどう酒が足りなくなることは、招待客や新婦側の親族に対して失礼であり、婚約の準備期間に何をしていたのかという責任問題になりかねない深刻な事態でした。そのようなときに、母マリアは給仕の責任を担っていたのか、イエスに向かって「ぶどう酒がありません」と素直に認めました。イエスは母マリアに、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません」と返答します。もちろん、イエスは公生涯に入ったばかりで、彼の使命が足りないぶどう酒を調達することではないことは確かです。ここでの「イエスの時」とは、救い主として十字架にかかることを指しています。しかし、ぶどう酒が足りないのは事実であり、責任を追及しても意味がありません。喜びと祝福の宴会は続いているからです。

 この場面では、備えたものが尽きてしまう時があることを示しており、大切なのは、責任の所在を明らかにすることではなく、今何が必要なのかを理解し、主の前に、自分の力が尽きたことを素直に認め、祈り求めることなのです。マリアはぶどう酒が足りなくなったことを素直にイエスに告白し、求めたのです。私たちは、求めた答えが得られなかったとしても、また、その時でなかったとしても、神の時に備えて、いま、自分にできることを行うことが大切なのです。

“それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があり、そこにイエスの母がいた。…ぶどう酒がなくなると、母はイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。” 1-

“宴会の世話役は…、花婿を呼んで、こう言った。「みな、初めに良いぶどう酒を出して、酔いが回ったころに悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒を今まで取っておきました。」” 9-

② 「縁までいっぱいにする」という生き方

 当時のユダヤの家の戸口には、六つの大きな水瓶がありました。一つの水瓶の容量は八十リットルから百二十リットルとのことです。水は二つの目的のために必要でした。一つは、当時の道路は舗装されていなかったため、家に入るときに泥やほこりにまみれた足を洗うためです。もう一つは、清めの律法に従い、外出先から帰宅したときはもちろん、食前や食事中にも手を水で洗い清めるために使われていました。

 イエスは、その水瓶を縁までいっぱいにするよう手伝いの人たちに命じました。ヨハネによる福音書の4章には、サマリアの女が井戸に水を汲みに行く場面がありますが、六つの大きな水瓶を縁までいっぱいにする労力は相当なものだったと考えられます。しかし、手伝いの人たちは、マリアから「イエスの言うことは何でもしてあげてください」と言われていたとおり、イエスの言葉に素直に従いました。そして、その水瓶を宴会の世話役のところへ持っていくよう命じられます。いつ、どのようにして水がぶどう酒に変わったのかは説明されていません。しかし、世話役のところに運ばれた水は確かにぶどう酒に変わっていたのです。

 この奇蹟においては、二種類の人々が立ち会いました。第一は、水がぶどう酒に変わった過程を目の当たりにした水瓶を運んだ手伝いの人々です。彼らがそのぶどう酒を口にしたかどうかは不明ですが、神の奇蹟に立ち会い、水がぶどう酒に変わったという事実は知っています。第二は、宴会の世話役や新郎新婦、招待客のように、奇蹟の結果のみを享受した人々です。彼らは美味しいぶどう酒を味わったでしょうが、それが水から変えられたものであることを知る機会はありませんでした。このように、神の奇蹟に関与しその事実を知っている人と、その恩恵を受けただけの人との二種類が存在します。私たちは皆、いずれかの立場に置かれる可能性があります。では、どちらの生き方が神の栄光を称える生き方と言えるでしょうか。この出来事を深く考察すると、やはり、神の奇跡に立ち会った人ではないかと思います。

 神が奇蹟やしるしを行うとき、自分で簡単にできることでも、水瓶に水を入れさせ、運ばせたように、人を使ってそのわざを行われます。すなわち、私たちの日常の一つひとつの働きを通して、神の恵みのわざを行おうとされているのです。ある人は、それを知りませんが、ある人はそれを知っています。そして、大切なことは、水瓶をいっぱいにしなさいと命じられて、縁までいっぱいにする人がいたということです。タラントの譬えにもありますように、私たちが神から与えられているタラント(能力や資源)は人それぞれ違うかもしれません。また、置かれている環境も立場も違います。しかし、神から与えられているそのタラントをどう使うかということが重要なのです。最大限に生かして使う人もいれば、全く使わない人もいるでしょう。与えられた宝を地中に埋めるのではなく、神から与えられた能力を忠実に活用する者は祝福も大きいのです。そして、その才能や資源を使い果たしてしまったら、マリアのように、主のもとに素直に求めればよいのです。

“イエスは給仕の者たちに言われた。「水がめを水でいっぱいにしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。” 7

“一タラント預かっていた者も進み出て言った。『ご主人様。あなた様は蒔かなかったところから刈り取り、散らさなかったところからかき集める、厳しい方だと分かっていました。それで私は怖くなり、出て行って、あなた様の一タラントを地の中に隠しておきました。ご覧ください、これがあなた様の物です。』…” マタイ25:14- 

③ 神のみわざを体験することができる

 イエス・キリストは多くの奇蹟やしるしを行いましたが、それが単なる驚くべき出来事ではなく、イエスが神の子であり、救い主であることを私たちに証明するための出来事であったとヨハネは明確に語っています。

 日々の生活の中で、当たり前に享受してきた様々な恵みに、年齢を重ねることで、次第に神の愛の深さを感じられるようになってきます。例えば、健康な心身、家族や友人の存在、四季折々の自然の美しさなど、これまで当たり前と感じていたものが、実はかけがえのない神の賜物であることに気づかされるのです。しかし、神の恵みに感謝することと、自分の人生をどのように生きるかを結びつけるのは容易ではありません。多くの場合、私たちは与えられた恵みに安住し、自分の歩むべき道を模索することを怠ってしまうことがあります。真の信仰者は、神の恵みに感謝するとともに、その恵みにふさわしい生き方を模索し続けるのです。神の恵みに感謝する者は、与えられた場所で、与えられた使命を忠実に果たすことを喜びとするものです。つまり、自分には汲むべき水があり、汲むからには縁までいっぱいにするのだという生き方をしたいのです。ですから、真の信仰者は、単に神の業の恩恵に与かるだけでなく、神の業の背後に隠された神の愛と計画を理解しようと努めるのです。カナの婚礼における宴会の世話役のように、出来上がったぶどう酒の味だけに感動するのではなく、その奇蹟を通して神の力と栄光を悟り、神の御業における自分自身の役割について深く考えをめぐらせるべきなのです。

 カナの婚礼の出来事を通して、多くの人は神の奇蹟やしるしの恩恵を受けましたが、何が行われていたかはほとんど知りませんでした。そのため、イエスを信じ、従っていく人はいなかったでしょう。しかし、その状況を一部始終目撃し、経験した弟子たちは、イエス・キリストを信じ、従っていったのです。

 神の恵みは、皆に同じように与えられています。その恵みをどのように理解し、受け止めるかは人それぞれですが、誰もが神の愛と恵みの祝福にあずかることができるのです。しかし、神の恵みの経験をどのように受け止めるかは人によって大きく異なります。中には、神による奇蹟やしるしと認識し、感謝と畏敬の念を抱く人もいれば、単なる偶然や幸運と捉え、神の御業に関心を抱かない人もいるでしょう。

 私たちは、恐れたり守りに入ったりする必要はありません。欠乏しても心配することはありません。むしろ、そんなときにこそ、神が栄光をあらわしてくださる時なのです。神から与えられているものを縁までいっぱいになるまで使い果たしても大丈夫です。義務感からではなく、喜んで神の前に出ていくのです。そうすれば神は、私たちが水瓶の縁までいっぱいにした水を最高のぶどう酒に変えてくださるのです。

“イエスはこれを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。” 11

“宴会の世話役は、すでにぶどう酒になっていたその水を味見した。汲んだ給仕の者たちはそれがどこから来たのかを知っていたが、世話役は知らなかった。” 9

“イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を見上げて神をほめたたえ、パンを裂き、そして人々に配るように弟子たちにお与えになった。また、二匹の魚も皆に分けられた。彼らはみな、食べて満腹した。そして、パン切れを十二のかごいっぱいに集め、魚の残りも集めた。” マルコ6:41-

Author: Paulsletter