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「いつまでも続くもの」

2026 7/18
メッセージを読む
2026年7月12日2026年7月18日

7月12日メッセージ
金子道仁牧師
「いつまでも続くもの」
コリント第二の手紙4章16節~18節

 今朝の礼拝メッセージは、金子道仁先生が取り次いでくださいました。メッセージは、スクリーンに映し出したスライドを示しながら語られたため、本稿では、スライドを指し示すことを前提とした表現が含まれています。

 本日は、このような特別な礼拝にお招きいただき、皆様とともに主を礼拝できる恵みに心より感謝申し上げます。実は、私自身、浴衣を着て礼拝に出席することも初めてですが、その浴衣姿で皆様に御言葉を取り次がせていただくのは、なおさら初めての経験です。このような機会が与えられたことを感謝しつつ、西宮の皆様とともに主を仰ぎ、御言葉に静かに耳を傾けてまいりたいと思います。

【本日の聖書箇所】
“ですから、私たちは落胆しません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない重い永遠の栄光をもたらすからです。私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。” Ⅱコリント 4:16-18

 本日のメッセージ題は、「いつまでも続くもの」です(お使いの聖書では「永遠に続く」と訳されているかもしれません)。パウロはここで、私たちが心を向けるべきものは、今、目の前に見えている一時的なものではなく、主が約束してくださった「目に見えないもの」であると語っています。そして、その目に見えないものこそが永遠に続くものなのです。今朝は、この御言葉が私たちに何を語りかけているのかをご一緒に味わい、一人ひとりの心に聖霊が豊かに働いてくださることを願いつつ、御言葉に耳を傾けてまいりたいと思います。

 ここで、少し私自身の証しをさせていただきます。私が暮らしている兵庫県猪名川町は、ここから171号線を越え、産業道路を北へ1時間ほど走ったところにある、人口約2万8千人の町です。私はその町で教会の牧師を務めるほか、チャイルドスクールの教師や社会福祉法人の理事長としての働きにも携わっています。その猪名川町で、今月初めに「いのちのライブ授業」という取り組みを開催することができました。スライドの奥で演奏しているのは、北海道を拠点に活動しているクリスチャンバンド「ナイトdeライト」です。4人組のバンドですが、そのうち3人は牧師であり、もう1人も神に人生を献げ、主に仕える献身者として歩んでいます。今回、このバンドの皆さんが地元の猪名川中学校でライブ授業を行ってくださいました。対象は1年生から3年生まで、全校生徒約600人です。この授業が実現した背景には、二つの出来事がありました。

 一つは、「いのちの電話」の働きです。「いのちの電話」は、1970年代にイギリスで始まった相談活動をモデルとして、日本でも全国各地へ広がった自殺予防・電話相談の働きです。しかし近年は、電話相談だけでは若い世代、特に子どもたちへメッセージを届けることが難しいという課題を抱えていました。そこで相談を受けたナイトdeライトの皆さんが、「一緒に『いのちのライブ授業』を始めましょう」と立ち上がったのです。聖書を土台としたオリジナルソングを通して「いのちの尊さ」や「生きる希望」を伝え、その後、「いのちの電話」の担当者が自殺予防について語るという教育プログラムが北海道でスタートしました。この取り組みは学校現場で大きな反響を呼び、多くの教育関係者から高い評価を受けました。しかし、社会福祉法人だけの予算では北海道全域へ活動を広げることが難しかったため、私も国の助成金の申請をお手伝いさせていただきました。その結果、この働きは継続的な事業として発展し、現在では北海道内の中学校・高校を中心に、毎年約50校を訪問する活動へと広がっています。

 もう一つ、背景となった出来事は、私の住む猪名川町で、二年ほど前に中学2年生の女子生徒が自ら命を絶つという、大変悲しい出来事があったことです。それ以来、町内の公立学校でも「いのちの授業」が行われるようになりました。ところが、私の教会に通っている中学生の女の子が、「学校の授業ではメッセージが全然心に響かない」と打ち明けてくれたのです。その言葉を聞いて、地元の子どもたちの心に、本当に届く形で「いのちの大切さ」を伝える方法はないだろうかと祈り、考え続けていました。ちょうどその頃、ナイトdeライトの20周年記念コンサートを私たちの教会で開催しないかというお話をいただきました。そこで私は、「教会でのコンサートだけではなく、ぜひ地元の公立中学校でも『いのちのライブ授業』をしていただけませんか」と、少し厚かましいお願いをしました。すると、メンバーの皆さんも、猪名川町教育委員会も、この提案を快く受け入れてくださり、この働きが実現したのです。スライドにある通り、「生きててくれてありがとう、生まれてきてくれてありがとう」という賛美の歌詞が映し出され、中学生たちの心へと届けられました。私たちのチャイルドスクールの生徒たちも参加し、また普段学校に通うことが難しい子どもたちも、集団の中には入れずとも2階席から見届けられるよう配慮しました。最後には全員が立ち上がり、体を動かしながらこの歌詞に心を向けました。

 「ナイトdeライト(Night de Light)」というバンド名は、「暗闇に光」という意味を持ち、聖書のヨハネの福音書1章4〜5節に記されている御言葉、「この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。」に由来しているそうです。その名のとおり、暗闇の中にいる人々へキリストの光といのちの希望を届けたいという願いをもって活動する彼らの姿を通して、主が一人ひとりの人生を用い、その歩みを通して周囲に光を届けてくださるという素晴らしい御業を、私は目の当たりにすることができました。私自身も、国会の日程の合間を縫って金曜日の夕方に帰郷し、主の導きによってこの授業に参加することができました。中学校での授業は全校生徒が参加する教育プログラムです。そのため、最初からすべての生徒が真剣に耳を傾けていたわけではありません。後方から見ていると、うつむいたままの生徒や、どこか関心を示さない様子の生徒も見受けられました。しかし、授業が進むにつれて、生徒たちは少しずつ顔を上げ、真剣に耳を傾け始めました。その変化は、後方で見ていた私にもはっきりと伝わってきました。そして最後には、全員が立ち上がり、手を振りながら一緒に歌う姿が見られました。そこには、学校という一つの場所に集められた生徒たちの心が一つになり、希望の光に包まれていくような光景がありました。その姿を見ながら私は、主が暗闇の中に光を輝かせ、人の心を照らしてくださる働きは、まさにこのような場にも現されるのだと深く教えられました。授業終了後には、中学校の教頭先生や教育委員会の方々から、「最初はどのような内容になるのか想像できませんでしたが、これはぜひ兵庫県全体にも広げていくべき取り組みですね」というお言葉をいただきました。その言葉を通しても、単なる一つの教育プログラムを超えて、主がこの働きを導いてくださっていることを改めて確信し、大きな励ましを受けました。

 さて、皆様がお使いの聖書では、4章の冒頭はどのように訳されているでしょうか。「こういうわけで」という言葉で始まっていることと思います。私は聖書を読むとき、「こういうわけで」という言葉に出会うと、つい「それはどういうわけなのだろう」と、その直前の箇所を読み返したくなります。そこで3章18節を見ますと、このように記されています。「私たちはみな、顔のおおいを取り除けられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられていきます。これはまさに御霊なる主の働きによるのです。」そして、この御言葉の後に続くのが、「こういうわけで……」という言葉なのです。つまりパウロは、私たちが主の栄光を映し出す者とされ、御霊なる主の働きによって、栄光から栄光へと、キリストに似た姿へ変えられていくことを語った上で、「だからこそ、私たちは勇気を失わない」と続けているのです。私たちは、イエス・キリストの十字架による贖いを信じ、罪を赦され、神の子どもとされるという大きな恵みにあずかりました。そして、永遠のいのちの約束をいただき、将来への確かな希望が与えられています。

 すると、私はまた一つの疑問を抱きます。「それならば、信じたその瞬間に天へ召されるほうが、この地上の苦しみを経験せずに済むのではないだろうか」と。罪を赦され、永遠のいのちをいただき、天の御国に迎えられることは、私たちにとってこの上ない希望です。主とともに永遠を過ごすことは、信じる者に与えられた最大の喜びであり、使徒パウロ自身も、地上の苦難の中で「この世を去ってキリストとともにいるほうが、はるかに望ましい」と本音を吐露しました。しかし主は、私たちをすぐに天へ召されるのではなく、なおこの地上に置き、それぞれの場所へと遣わしてくださっています。なぜでしょうか。それは、私たち一人ひとりに、この地上で果たすべき尊い使命が託されているからです。パウロが「肉体にとどまることが、あなたがたの信仰の進歩と喜びのためには、もっと必要である」と悟ったように、私たちはキリストの愛を証しする者として、また隣人に仕える者として、この世界に神の栄光を現すために生かされています。しかも神は、「自分の力で頑張りなさい」と私たちを突き放して送り出されるのではありません。主はいつも私たちと共にいてくださり、助け主である御霊を私たちの内に住まわせてくださいました。私たちの弱さも、地上で経験する苦しみもすべてご存じの主が、御霊の絶え間ない導きと慰めによって、私たちの内なる人を日々新しくし、キリストに似た者へと造り変えてくださるのです。主はその歩みの一歩一歩を支え、それぞれに与えられた使命を果たすために必要な力と恵みを、今日も豊かに注いでくださっています。私たちは時に、「この年齢になって、いったい何が新しくなるというのだろうか」「長年積み重ねてきた性格や考え方、頑固さが、今さら変わるはずがない」と考えてしまうことがあります。しかし、主に不可能なことはありません。

 ここで、生き物に見られる「変態」(生物が成長の過程で大きく形態を変えること)について考えてみたいと思います。子どもの頃、オタマジャクシがカエルになる姿を見て、「しっぽがなくなって足が生えてくるだけ」と単純に考えていた方も多いでしょう。しかし科学の発展によって、その変化がどれほど精巧で驚くべきものであるかが明らかになってきました。オタマジャクシは水中で植物などを食べて成長しますが、カエルになると昆虫などを捕食する生活へと変わります。そのため、消化器官の構造は大きく作り変えられます。また、水中でエラ呼吸をしていた生き物が、陸上で肺呼吸を行うようになるため、呼吸の仕組みそのものが再編成されます。私たちの目には単純に見える小さな命の変化の中にも、驚くほど精密な仕組みが備えられているのです。神は、このような人間の知恵をはるかに超えた変化の力を、小さな命の中にあらかじめ備えておられます。青虫が蝶へと変わる変態も同じです。子どもの頃、「サナギの中では何が起きているのだろう」と不思議に思った方も多いでしょう。ある人はこの変化を「組み立てられたレゴブロックを一度分解し、まったく新しい形へと作り直すようなもの」と表現しました。実際には、生命維持に必要な部分を保ちながら、体の各部分が大きく変化し、成虫として生きるための新しい姿へと整えられていきます。そこには、人間の知恵では決して生み出すことのできない、神の創造の知恵と御業が現れています。また、子どもたちに人気のカブトムシも、堆肥や腐葉土の中で白い幼虫として過ごした後、サナギの時期を経て、硬い黒い甲をまとった力強い成虫へと姿を変えます。このような「変態」は、私たちの身近にある自然現象であると同時に、神の創造の力を思い起こさせる証しでもあります。神は、私たちの人生にも同じように、私たち自身には想像できない変化をもたらしてくださいます。ですから、「自分は変われない」「もう遅すぎる」と思う必要はありません。主に不可能なことは何一つありません。御霊なる主は、私たちを栄光から栄光へと導き、キリストに似た者へと造り変えてくださいます。私たちは、自分自身の限界や過去の評価に縛られるのではなく、今も私たちの内に働き、日々新しくしてくださる主の恵みと約束に目を留めて歩む者でありたいと思います。主は、私たちが何者であったかだけをご覧になるのではなく、これからどのような者へと造り変えてくださるのかというご計画をもって導いてくださいます。それこそが、御霊なる主の働きなのです。

 私自身、この4月で牧師として歩み始めて30年になります。私は大学2年生、19歳の時に、クリスチャンホームではない環境の中で信仰を持ちました。そして、親に相談することなく洗礼を受けたため、母からは大変厳しく叱られました。その後、母から「あんたは三日坊主だから、三日もすれば忘れるはずだ」と言われたことを、今でも覚えています。実際、私は熱しやすく冷めやすい性格で、大学1年生の頃には友人に「自分には、一人の女性を生涯愛し続けることなどできないのではないか」と話していたほどでした。そのような私が、今もなお神を信じ続け、さらには牧師として主に仕えさせていただいていることは、自分自身でも不思議であり、神の恵みによる奇跡だと感じています。これは、私自身の努力や意志の強さによるものではありません。主が憐れみによって私の内側に働きかけ、少しずつ造り変えてくださった結果です。私の人生そのものが、御霊なる主が人を新しくしてくださるという、驚くべき恵みの証しなのです。

 最近、聖書通読の中で、マタイ9章38節の御言葉と改めて向き合う機会がありました。
「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫の主に、収穫のために働き手を送ってくださるように祈りなさい。」ここで「送ってくださるように」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「エクバロー(ἐκβάλλω)」と言います。この言葉には、単に「送り出す」という意味だけではなく、「外へ押し出す」「力強く遣わす」というニュアンスがあります。英語では cast out や drive out と訳されることもあり、「ためらう者の背中を押して送り出す」というような力強い響きを持った言葉です。この御言葉を思い巡らしているとき、神が私たちを務めへと召し出される姿が重なって見えてきました。私たちは、自分から進んで勇気をもって一歩を踏み出せる者ばかりではありません。むしろ、不安や自信のなさの中で立ち止まってしまうことがあります。しかし主は、そのような私たちを見捨てることなく、「わたしがあなたとともにいる。だから行きなさい」と励ましながら、御心の働きへと送り出してくださるのです。このようにして私たちは、この地上において「世の光」「地の塩」として生きる務めへと遣わされています。それは、私たちが特別に優れているからでも、十分に立派な者だからでもありません。むしろ弱さを持つ私たちを、主が憐れみによって選び、聖霊の力によって用いてくださるのです。その恵みを心に刻みながら、主が与えてくださる一歩を恐れず、信仰をもって踏み出してまいりたいと思います。

 パウロは4章1節に続けて、このように語ります。

 「こういうわけで私たちは、憐れみを受けてこの務めに任じられているのですから、勇気を失うことなく、恥ずべき隠されたことを捨て、悪巧みに歩まず、神のことばを曲げず、真理を明らかにし、神の御前で自分自身をすべての人の良心に推薦しています」(Ⅱコリント4:2)

 この箇所からは多くのことを学ぶことができますが、本日は特に、「神の御前で、自分自身をすべての人の良心に推薦しています」という言葉に注目したいと思います。もちろん、これは「私はこんなに立派な人間です。どうぞ私を見てください」という意味ではありません。私たちには弱さがあります。足りなさがあります。失敗もありますし、人生の中でさまざまな困難にも直面します。しかし、そのような歩みのただ中にあっても、決して失われることのない希望があります。だからこそ私たちは、自分自身を誇るのではなく、自分の内に働いてくださるキリストの恵みと希望を示す者として、自らの生き方を神の御前に差し出していくのです。困難の中にあっても希望を失わず、主に信頼して歩み続ける姿そのものが、周囲の人々への力強い証しとなります。

 ナイトdeライトの「いのちのライブ授業」の核心も、まさにそこにありました。彼らは、自分たちの成功や輝かしい実績を語ったのではありません。むしろ、自らの弱さや葛藤、苦しみを率直に明かし、そのただ中で神が与えてくださった希望を中学生たちに伝えたのです。コロナ禍においてバンド活動は完全に停止し、ライブハウスは閉鎖され、仲間たちも次々と活動を断念していきました。その中で、「自分たちの存在意義は何なのか」と深く悩み、葛藤した経験を彼らは正直に語りました。しかし、それでも神から与えられた希望を届け続けたいと願い、今できることは何かを祈りながら模索した結果、「いのちのライブ授業」という新しい扉が開かれたのです。そして彼らは、「もしあの時、諦めていたなら、今日こうして皆さんと出会うことはできませんでした」と語りました。その言葉は、自分たちの強さや立派さを示すものではありません。むしろ、弱さの中にあっても神が働いてくださること、そして主から与えられた希望は決して失われないという確かな証しでした。パウロが語る「すべての人の良心に推薦する」とは、人間からの評価や賞賛を求めることではなく、神の御前に置かれた一人ひとりの心に真理を届けることを意味しています。私たちもまた、自分自身を誇るのではなく、自らの内に宿されているキリストの希望を人々に示すことができます。神は、私たちの内に尊い宝を託してくださいました。その宝を教会の中だけにしまっておくのではなく、家庭へ、職場へ、地域社会へと携えていく時、その宝に触れた人々の中から、「私が求めていた希望はここにあった」と告白する人々が起こされることを、主の御業として心から期待したいと思います。

 続いて、6〜7節を見てみましょう。

 「光が闇の中から輝き出よと言われた神は、私たちの心を照らし、キリストの御顔にある神の栄光を知る知識を輝かせてくださったのです。私たちはこの宝を土の器の中に入れているのです。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかにされるためです」(Ⅱコリント4:6・7節)

 創世記1章で「光あれ」と宣言された神が、今も私たちの心を照らしてくださいます。私たちは、八方塞がりで、目に見える希望を見いだせないような時であっても、「主よ、どうか私たちの心を照らしてください」と祈ることができます。すると神は、私たちの内に福音の希望を新たにしてくださり、必要な知恵や導き、そして聖霊による喜びを与えながら、前へ進む力を備えてくださいます。その時、私たちはまだ見えていない未来に対しても、「主がこの町に、この国に、新しい御業を始めてくださる」と、期待をもって祈ることができるのです。そして、神がその祈りに応えて導いてくださった歩みを通して、人々は、「これは人間の知恵や力によって成し遂げられたものではない。神がしてくださったことだ」と、神の栄光を認めるようになります。これこそ、私たちが土の器の中に託されている宝です。土の器である私たちは、決して強くも完全でもありません。しかし、その弱い器の中に、キリストの福音という、決して失われることのない尊い宝を与えていただいています。だからこそ、栄光は私たちではなく、神に帰されるのです。「この測り知れない力は神のものであって、私たちから出たものではない」と、人々が認めるようになるためです。神は尽きることのない恵みの主です。私たちが闇の深さを覚える時こそ、「主よ、光を照らしてください」と祈り続けたいと思います。そして、家庭のこと、教会のこと、地域社会の課題に対しても、自分の力だけに頼るのではなく、神が与えてくださる希望と導きを求めてまいりましょう。「光あれ」と語られた神は、今もなお私たちの心を照らし、その光を私たちという土の器を通して、この町へ、この社会へと輝かせてくださるお方なのです。

 コリント人への手紙第二4章15節には、次のように記されています。

「すべてのことは、あなたがたのためであり、恵みがますます多くの人々に及んで感謝が満ちあふれ、神の栄光が現れるようになるためです」(Ⅱコリント4:15)

 使徒パウロがこの大いなる希望の言葉を語った背景には、彼自身が味わった、まさに「死」に直面するような激しい苦難と宣教の労苦がありました。私たちは、できることなら困難や苦しみを避け、平穏に歩みたいと願うものです。ですから、聖書が別の箇所で語る「喜びなさい。喜び躍りなさい」という力強い御言葉さえも、現実の試練のただ中に置かれ、心身ともにすり減っている時には、すぐには受け入れ難く、自分を責める言葉のように感じてしまうことがあるかもしれません。しかし、自分の力ではどうすることもできない限界に直面した時こそ、私たちは本当の希望を主に求めるようになります。そして、そのような試練の中で主から注がれた恵みは、決して自分一人のためだけにとどまるものではありません。神は、その恵みを私たちを通して、同じように悩み、苦しみ、希望を失いかけている人々へと届けてくださるのです。その結果、多くの人々の心に新たな感謝が生まれ、その感謝を通して神の栄光が現されていきます。ですから、今、私たちが通っている試練の中にも、主が共にいて働いてくださることを信じようではありませんか。そして、この歩みを通してさらに多くの人々に恵みが分かち合われ、神の栄光があふれ流れていくことを期待しながら、確かな希望をもって共に歩んでまいりましょう。

 それでは、本日の中心聖句である16節に目を向けましょう。

「ですから私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新しくされています。」(皆様がお使いの聖書では、「落胆しません」「失望しません」と訳されているかもしれません。)

 パウロはここで、「勇気を失わない」理由を語っています。それは、自分自身の強さや、置かれている環境に希望を見いだしているからではありません。神ご自身が、日々、私たちの内なる人を新しくしてくださるという約束に立っているからです。私たちもまた、周囲の状況だけを見つめているなら、落胆し、希望を失ってしまうことがあります。目に見える現実だけを基準にするなら、将来に対して不安や恐れを抱くこともあるでしょう。しかし、私たちは目に見えるものだけに支配されて生きる者ではありません。天地を創造され、「光あれ」と語られた神が、今もなお私たちの心を照らし、内側から新しくしてくださることを信じています。だからこそ、私たちは勇気を失いません。目の前の現実だけを見るのではなく、目に見えない神の約束に目を向けながら、希望をもって歩み続けることができるのです。

 さらに、8〜10節で、パウロは自らの歩みを次のように語っています。

 「私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れていますが、行き詰まることはありません。迫害されていますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それはイエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです」(Ⅱコリント4:8-10)

 皆様もご存じのとおり、パウロがこの言葉を記した紀元1世紀の時代背景には、キリスト者の命さえ奪われかねない激しい迫害がありました。私は今年1月、数回目となるローマ訪問の機会に恵まれました。その際、特別なご配慮をいただき、サン・ピエトロ大聖堂の地下を見学することができました。そこには美しく整えられた空間がある一方で、日の光さえ届かない暗闇の中にあっても信仰を守り抜いた初代クリスチャンたちの歩みを思い起こさせる場所も残されていました。その場に立つと、彼らが置かれていた厳しい状況が胸に迫り、信仰を貫くことの重さを改めて考えさせられました。また、コロッセウムにも足を運びました。建物そのものは圧倒的な規模と壮大さを誇っていますが、その地下には複雑な構造の空間が広がっています。そこでは剣闘士たちや猛獣が待機し、昇降装置によって闘技場へと送り出されていました。クリスチャンたちもまた、そのような場所で処刑へと向かわされたことがあったと伝えられています。剣闘士同士の戦いだけでなく、ライオンなどの猛獣との戦いを強いられるという、想像を絶する光景がそこで繰り広げられていたのです。このような歴史の現場に立つとき、パウロが語った信仰の言葉は、決して平穏な環境の中で生まれたものではなかったことを改めて思わされます。それは、迫害のただ中にあっても命を懸けて信仰を守り、キリストを証しし続けた初代教会の兄弟姉妹たちの歩みの中で語られた言葉でした。彼らが置かれていた状況は、私たちには想像もできないほど厳しいものでした。しかし、それでも彼らは希望を失いませんでした。パウロが語るように、「四方八方から苦しめられても、窮することはない。迫害されても、見捨てられることはない。倒されても、滅びることはない」と信じ、イエスのいのちが自分たちのうちに現されることを確信しながら歩み続けたのです。私たちが取るべき姿勢も、二千年前と変わることはありません。外なる人が衰え、困難な状況に置かれる時こそ、内なる人を日々新しくしてくださる主に目を向けたいと思います。そして、自分自身の力によって輝こうとするのではなく、聖霊によって与えられるキリストの光を受け、その光を通して、この社会に希望を届ける者として歩み続けたいと思います。

 最後に、「目に見えないもの」の大切さについて、ご一緒に心に留めたいと思います。

 「私たちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです」(Ⅱコリント4:18)

 パウロはここで、私たちの視線を「目に見えるもの」から「目に見えないもの」へと向けるよう勧めています。目に見えるものは、時とともに移り変わっていきます。私たちの健康も、財産も、地位も、置かれている環境も、決して変わらないものではありません。しかし、神の約束は決して変わることがありません。神の愛も、神の救いも、神のご計画も、永遠に揺らぐことはありません。ヘブル書6章には、神が約束されたことを必ず成し遂げられる真実なお方であり、ご自分を求める者に報いてくださるお方であることが記されています。だからこそ私たちは、目の前の現実だけに心を奪われるのではなく、決して変わることのない神の約束に目を向け、その御言葉を堅く握りしめて歩んでまいりたいと思います。その時、私たちの内なる人は日々新しくされ、土の器である私たちを通してキリストの光が輝き、そこに神の栄光が現されていくのです。

 私が外務省に勤務していた頃、二年間、スペインのパンプローナという町に滞在していました。そこはカトリックの伝統が非常に強い地域で、福音派の教会は決して多くありませんでした。「このような環境の中でも、信仰生活を守って歩んでいけるだろうか」と不安を覚えながら祈っていたある日、公園を歩いていると、路傍伝道が行われていました。その出会いを通して一つの教会へ導かれ、そこで二年間、奉仕させていただく恵みにあずかりました。その教会は、行政が運営を断念した麻薬更生施設を引き継ぎ、決して十分とは言えない経済状況の中で、その働きを続けていました。そのため、そこには薬物依存からの回復を目指している方々や、HIV感染症を抱える方々、そしてそのご家族が数多く集っていました。そこで、私と同世代のパコという兄弟(現在は牧師となっています)と、信仰について語り合ったことがあります。その時、彼は聖書を手にしながら、私にこう言いました。「ミチ、お前はこの御言葉を試したことがあるか。これは本当によく効くぞ(薬物のことでありません)。」私は、その言葉を今でも忘れることができません。彼にとって御言葉は、単なる知識や教えではありませんでした。苦しみの中で何度も御言葉により頼み、その真実を自ら体験してきた、人生を支え、慰め、癒やしてくださる神の恵みそのものだったのです。皆様にも、そのように人生の歩みを支え、力づけてくれた御言葉があるのではないでしょうか。そして、同じような苦しみや悩みの中にいる方へ、その御言葉を手渡す時、私たちは「この御言葉を信じてみてください。本当に力があります」と、確信をもって語ることができます。目に見えない神の約束は、信じる者の人生の中で確かな力となり、人を内側から新しく造り変えてくださいます。その恵みを自ら味わい、一つひとつの証しを積み重ねながら、希望を必要としている人々へ、命を与える御言葉を届けてまいりたいと思います。

 第一コリント13章13節には、このように記されています。

 「こういうわけで、いつまでも残るものは、信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛です」(Ⅰコリント13:13)

 これは、本日のテーマである「いつまでも続くもの」と深く響き合う御言葉です。私たちは、目には見えないけれども永遠に価値あるもの、すなわち信仰と希望と愛に目を留め続けたいと思います。そして、その恵みを自ら味わい、さらに周囲の人々へと分かち合う者でありたいと願います。

 また、続く17節には、このようにあります。

 「今の時の軽い艱難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」

 この御言葉は、大きな慰めであると同時に、深く心に刻むべき言葉でもあります。私たちは、目の前の苦しみや試練に直面すると、「なぜ自分が、このような経験をしなければならないのだろう」と思い悩むことがあります。そのただ中にいる時、その苦しみを「軽い艱難」と受け止めることは、決して容易ではありません。しかし、主は私たちの人生を永遠という視点からご覧になります。私たちには理解できない苦しみであっても、主はそれを御手の中に置き、やがて「測り知れない、重い永遠の栄光」へと結びつけてくださるお方です。私自身の歩みを振り返っても、そのことを何度も教えられてきました。

 1998年に外務省を退職し、献身の道を歩み始めた頃、それまでの多忙な生活とは一変し、自分の役割や存在意義を見いだせない日々が続きました。何もしていないように感じる自分を認めたくなくて、無理に忙しいふりをしていた時期もありました。ある日、妻から「時間があるなら娘を公園へ連れて行ってあげて」と言われました。しかし私は、「若い男性が平日の昼間から子どもを連れて公園にいる姿を、周囲はどう見るだろう」と、世間の目ばかりを気にしていました。それまで歩んできた社会的な立場を失い、自分だけが社会の流れから取り残されたような閉塞感を、およそ一年間味わいました。しかし、後になって振り返ると、その経験は決して無駄ではありませんでした。2000年に教会附属のフリースクール(チャイルドスクール)が始まった時、その時期に味わった苦しみが、大きな意味を持つようになりました。学校へ行くことができず苦しんでいる子どもたちや、外へ出たいと願いながらも一歩を踏み出せない若者たちの思い、成長したいのに前へ進めない苦しさを、自分自身の経験を通して少しでも理解することができたのです。あの時には意味が分からなかった経験が、後になって神の働きのための土台とされ、人に寄り添うための大切な備えとなっていました。

 私たち一人ひとりの人生にも、それぞれ課題や悩みがあります。しかし、主はその一つひとつを決して無駄にはなさいません。今は意味が分からない試練であっても、主はそれをご自身のご計画の中で用い、永遠の栄光へと導いてくださいます。ですから私たちは、互いに励まし合いながら、「この歩みの中にも主のご計画がある」と信じ、希望を告白し合ってまいりましょう。そして、それぞれの人生を通して神の栄光が現されることを期待しながら、主とともに歩んでまいりたいと思います。

Author: Paulsletter

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