6月14日メッセージ
小平牧生牧師
「大事なことを大事にするために」
(聖霊に導かれて⑤)
使徒の働き6章1節~17節
私たちには、三人の「先生」が与えられています。
最初の先生は、私たちに多くのことを教えてくれます。しかし、その先生の授業料は少し高めです。先生の名前は「経験」といいます。私たちは失敗や挫折、あるいは成功や喜びといった、さまざまな経験を通して多くを学びます。ただ、その学びには時として大きな代償が伴います。取り返しのつかない失敗をしたり、深い傷を負ったりして、初めて気づくこともあるからです。
二番目の先生も、人生の大切な原則を教えてくれます。しかも、この先生の授業料は無料です。しかし残念なことに、多くの人はこの先生から学ぼうとしません。その先生の名前は「聖書の御言葉」です。私たちはしばしば、御言葉から素直に学ぶよりも、自ら高い授業料を払って経験から学ぼうとしてしまいます。神はそんな私たちのために、大いなる恵みとして聖書を与えてくださいました。使徒パウロはテモテに対して、「聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます」と語っています。聖書は単なる人生訓や道徳の書ではありません。私たちを救い主イエス・キリストへと導き、救いに至る知恵を与える「神の言葉」なのです。さらにパウロは、「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です」とも教えています。御言葉は私たちに真理を教え、誤りを示し、正しい道へと立ち返らせ、神に喜ばれる生き方を訓練してくれます。私たちが経験だけに頼るのではなく、まず御言葉に耳を傾けるとき、無用な失敗を避け、神の知恵によって歩むことができるのです。
そして三番目の先生は、「歴史」という先生です。この先生の授業料は、すでに先人たちが支払ってくれています。歴史とは、かつての人々が多くの試練や失敗、そして神の恵みと導きを経験しながら残してくれた学びの記録です。私たちは彼らの歩みを通して、今を生きる多くの知恵を得ることができます。聖書に記されている歴史も同様です。特にルカが記した『使徒の働き』は、神の御言葉であると同時に、初代教会の歴史を生き生きと伝える書物です。そこには聖霊に導かれた教会の前進だけでなく、彼らが直面した課題や葛藤も率直に記されています。神はそれらの出来事を通して、後の時代を生きる私たちに大切な教訓を与えてくださっているのです。私たちは、大先輩である初代教会の信徒たちの歩みから、多くのことを学べます。彼らの成功だけでなく、困難や失敗、そしてそこに注がれた神の恵みからも教えられます。その意味で、『使徒の働き』は「御言葉」という先生であると同時に、「歴史」という先生でもあるのです。
これら三人の先生、特に「御言葉」と「歴史」に深く学ぶことで、私たちは日々の「経験」をより豊かな神の恵みへと変えていくことができるのではないでしょうか。今朝の聖書箇所にも、初代教会に起こった一つの問題が記されています。この問題の背景には、当時の教会には実にさまざまな境遇や背景を持つ人々が集められていたという事情がありました。教会は、人間的な価値観や文化的な共通性によって形成された集団ではなく、神がキリストにあって召し集められた共同体です。そのため、年齢や性別、社会的立場、文化や言語の違いを超えた多様な人々が一つの群れとして加えられていました。多様な人々が共に生きるところには、当然ながらさまざまな課題や問題も生じます。しかし聖書は、そのような問題の存在そのものを教会の失敗として描いているのではありません。むしろ神は、そのような問題の中にも働かれ、ご自身の教会を導き、成長させていかれることを示しておられます。私たちはこの出来事を通して、現代の教会と私たち自身の信仰生活に対する神の教えを学ぶことができるのです。
当時のエルサレム教会には、「ヘレニスト」と「ヘブライスト」と呼ばれる人々がいました。ヘレニストとは、主としてギリシア語を用い、ギリシア文化の影響を受けたユダヤ人キリスト者です。その多くは地中海世界に離散していたユダヤ人(ディアスポラ)の出身であり、何らかの理由でエルサレムに戻って教会に加わっていました。一方、ヘブライストとは、パレスチナ地方で育ち、主としてアラム語やヘブライ語を用いるユダヤ人キリスト者でした。つまり、彼らは同じユダヤ人であり、同じ救い主イエス・キリストを信じる者同士でしたが、言語や文化的背景が異なっていたのです。ルカによれば、そのような中で、日々の食物の分配をめぐり「ヘレニストのやもめたちがなおざりにされている」という不満が生じました。当時、やもめ(寡婦)は社会的に極めて弱い立場にあり、教会は彼女たちの生活を支える重要な役割を担っていました。そのため、この問題は単なる事務的な手違いにとどまらず、共同体の愛と一致に関わる重大な課題となったのです。もっとも、この背景には単なる分配の不備だけでなく、文化的・言語的な隔たりも影響していたと考えられます。互いに異なる背景を持つ人々の間では、誤解や不信感が生じやすかったからです。また、この後のステパノの記述を見ると、彼らの間には文化的な違いだけでなく、信仰理解や実践の面での緊張関係もあったように見受けられます。しかし、ルカがここで強調しているのは、そうした違いや問題そのものではありません。むしろ、教会のリーダーたちがこのような課題から目を背けず、真摯に向き合おうとした姿勢です。彼らは、神を愛し隣人を愛することの実践として、周囲の弱者や困っている人を放置せず、共に歩み、恵みを分かち合おうとしました。それこそが、多様な人々を一つの教会として結び合わせようとする神の導きであり、教会が持つべき大切な特質なのです。
教会史によると、キリスト教は激しい迫害の時代を経て、313年のローマ帝国による公認へと至りました。初めは弱小な宗教的グループにすぎなかったキリスト教が、なぜ約300年で帝国全体にまで広まったのか。これは多くの歴史家たちの関心事であり、これまでさまざまな観点から分析されてきました。その最大の理由として共通して挙げられるのが、キリスト者たちが社会の中で「弱者への愛」を具体的に実践したという事実です。福音宣教は、単に「イエスは救い主であり、信じる者は救われる」と言葉だけで伝えられたのではありません。弱者を自分のように愛するという具体的な行動が伴っていたことこそが、教会拡大の決定的な鍵であったのです。例えば、古代ローマでは、疫病や災害によって多くの命が失われましたが、そのような中で教会や信徒たちは、被災者や社会的弱者となった人々を支援し続けました。その助け合いの原点は『使徒の働き』にも詳しく記されています。創造主なる神への信仰に立つ彼らは、幼い命や胎児の命をも尊いものとして大切にしました。当時のローマ社会は貧富の差が激しく、困窮を理由に生まれたばかりの赤ちゃんを捨てる「嬰児遺棄」が合法とされており、実際にそうした遺棄場所の遺跡も発掘されています。しかし、信徒たちは捨てられた子どもたちを拾い、自分の子として育てたのです。また、教会はやもめ(寡婦)の問題にも真剣に向き合いました。当時のローマ帝国では女性の地位が低く、その価値はしばしば「後継ぎとなる男性を産むこと」に限定されていたため、夫を亡くした女性は無価値な存在と見なされがちでした。このような人間の尊厳が軽視されていた社会に対して、パウロはガラテヤの教会へ宛てた手紙の中で、キリストにある新しい共同体の画期的な価値観を明確に示しました。「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(ガラテヤ3章28節)
このような初代教会の姿から、私たちは現代の教会と自分自身の信仰生活に対する大切な教訓を学ぶことができます。今日は、その中から三つの点に注目して見ていきたいと思います。
① 問題が起こったときは、大切なことを確認するチャンス
使徒の働き6章2節で、リーダーたちは信徒たちを呼び集めて、「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは好ましくありません」と語りました。そして彼らは、自分たちは「祈りと、みことばの奉仕に専念します」(同4節)と宣言したのです。ここで注目すべきことは、使徒たちがまず食卓の配給問題の解決策から話し始めたのではないということです。彼らはまず、教会にとって何が最も重要であるのかを確認しました。それは「祈り」と「みことばの奉仕」でした。教会が教会であるための土台は、人間的な組織運営や福祉活動ではなく、神との交わりと神のことばにあるからです。もちろん、やもめ(寡婦)への配慮や弱い立場にある人々への奉仕は極めて重要です。聖書は繰り返し、貧しい人や弱い人を顧みることの大切さを教えています。しかし使徒たちは、その働きを重んじながらも、だからといって神のことばの奉仕を軽んじてはならないと考えました。目の前の問題への対応に追われるあまり、教会の本来の使命を見失ってしまうなら、それは問題の解決ではなく、むしろ教会の存在理由そのものを曖昧にしてしまうからです。使徒たちは、教会が何を最優先すべきかを明確に示しました。教会のリーダーには、その時々の課題に対応するだけでなく、教会の使命と価値観をぶれることなく示し続ける責任があります。そして信徒たちもまた、その使命を共有しながら共に歩むことが求められているのです。
そこで使徒たちは、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」の中から七人を選ぶように提案しました。その中にはステパノやピリポをはじめとする人々がいました。彼らは単に事務処理能力のある人として選ばれたのではありません。聖霊に満たされ、神の知恵によって歩む信仰者として選ばれたのです。教会の奉仕は単なる業務ではなく、霊的な働きであることがここに示されています。さらに興味深いことに、ルカはこの後、七人が食卓の配給問題をどのように解決したのかについてはほとんど記していません。私たちが期待するなら、その改善策や運営方法について詳しく書かれていてもよさそうです。しかしルカの関心はそこにはありませんでした。むしろルカは、その後のステパノの力強い証しと殉教、そしてピリポの福音宣教へと筆を進めています。つまり、七人は単なる「配給係」ではなかったのです。彼らは聖霊に用いられた福音の奉仕者でした。このことから分かるのは、使徒6章の中心テーマは単なる組織改革や問題解決ではないということです。神は教会の問題を用いて、新しい奉仕者を起こし、福音宣教をさらに前進させておられたのです。教会の真の目的は問題を抱えない組織になることではなく、キリストの福音を証しする共同体として建て上げられていくことにあります。だからこそ使徒たちは、まず祈りと御言葉を最優先し、その上で必要な奉仕の体制を整えたのでした。
“そこで、十二人は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません。…私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。” 2,4
② 食卓の奉仕とみことばの奉仕に優劣や聖俗はない
3節では、食卓の奉仕を担う七人の奉仕者が選ばれました。使徒たちは、教会の中から「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たち」を選ぶように求めています。ここで「奉仕」と訳されている言葉は、ギリシア語で「ディアコニア」といい、「仕える働き」を意味します。また、「仕える者」は「ディアコノス」と呼ばれます。後の教会では、この言葉が「執事」という職名の語源となりました。その意味で、この七人は後の執事職の原型となる奉仕者たちであったと考えられます。ここで注目したいのは、使徒たちが食卓の奉仕を軽んじていないということです。使徒は「私たちは祈りと御言葉の奉仕に専念する」と語りましたが、それは食卓の奉仕が重要でないという意味ではありません。むしろ、食卓の奉仕もまた教会にとって欠かすことのできない大切な務めであったからこそ、その働きを担うために特別な奉仕者を立てたのです。実際、使徒たちは奉仕者を選ぶ際に、単に事務能力のある人や実務に長けた人を求めたのではありませんでした。彼らに求められたのは、「御霊と知恵に満ちた、評判の良い人」であることでした。これは食卓の奉仕もまた、単なる事務的な仕事ではなく、神の前にささげられる霊的な奉仕であることを示しています。教会においては、御言葉を語る奉仕も、人々に仕える奉仕も、ともにキリストに仕える働きです。役割や責任には違いがありますが、神の前における尊さに優劣はありません。なぜなら、そのすべてが神を愛し、隣人を愛するという主の戒めに基づいているからです。
ここで登場する七人の奉仕者の中には、この後の『使徒の働き』において重要な役割を果たす人物たちが含まれています。まずステパノは、「信仰と聖霊に満ちた人」(5節)として紹介され、その後、力強く福音を証しし、教会最初の殉教者となりました。彼の説教は使徒の働き7章に詳しく記されており、福音を大胆に語っています。そして彼は、自らを石打ちにする人々のために祈りながら、その生涯を主にささげました。またピリポは、迫害によって散らされた後、サマリヤで福音を宣べ伝え、多くの人々がキリストを信じるために用いられました。さらに主の導きによってエチオピアの宦官に福音を伝え、その人をバプテスマへと導いています。ピリポの働きは、福音がエルサレムを越えて広がっていく重要な転換点となりました。さらに七人の中には、「アンティオキア出身の改宗者ニコラオ」も含まれていました。彼は異邦人でありながらユダヤ教に改宗し、その後キリストを信じた人物です。このことは、初代教会がすでに民族的・文化的な壁を越えて広がり始めていたことを示しています。七人全員の名前がギリシア名であることも、今回の問題に対して教会が知恵をもって対応したことをうかがわせます。特に不満を訴えていたヘレニストたちの中から奉仕者が選ばれたことによって、教会は信頼と一致の回復を図ったのでしょう。
ここで重要なのは、使徒たちが「祈りと御言葉の奉仕」を担い、七人が「食卓の奉仕」を担ったという役割分担が、単なる上下関係や身分の違いを意味しているのではないということです。使徒たちは、御言葉の奉仕を後回しにしてはならないと語りました。しかし同時に、やもめたちへの配慮や共同体の必要を軽視したわけでもありませんでした。もし食卓の奉仕が重要でなければ、新たな奉仕者を立てる必要はなかったでしょう。むしろ彼らは、どちらの働きも教会にとって不可欠であることを認識していたのです。ここに教会の大切な原則を見ることができます。教会にはさまざまな賜物と務めがあります。御言葉を語る働き、祈りに仕える働き、人々を助ける働き、必要を満たす働き、それぞれに違った役割があります。しかし、そのすべてはキリストのからだを建て上げるために与えられた奉仕です。
“そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵に満ちた、評判の良い人たちを七人選びなさい。その人たちにこの務め(=食卓の奉仕)を任せることにして…” 3
“この提案を一同はみな喜んで受け入れた。そして彼らは、信仰と聖霊に満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、ティモン、パルメナ、そしてアンティオキアの改宗者ニコラオを選び、この人たちを使徒たちの前に立たせた。使徒たちは祈って、彼らの上に手を置いた。” 5-6
③ 与えられた奉仕に専念する
教会の中での奉仕は、「自分はこのことだけをしておけばよい」というものではありません。私たちは何よりも、主の教会に仕えているという意識を持つことが大切です。同時に、神は一人ひとりに異なる務めや賜物を与えておられ、それぞれが与えられた召しに忠実に仕えることも求めておられます。食卓の奉仕者が任命されたこの出来事は、教会が誕生して間もない時期の出来事として記されています。しかし、その中に示されている原則は、後の教会にも受け継がれていきました。使徒パウロは、諸教会に宛てた手紙の中で、教会を「キリストのからだ」と表現しています。そして次のように語っています。
“キリストによって、からだ全体は、あらゆる節々を支えとして組み合わされ、つなぎ合わされ、それぞれの部分がその分に応じて働くことにより成長して、愛のうちに建てられることになります。” エペソ4:16
教会のかしらはキリストです。そしてキリストご自身が、ご自分の教会にさまざまな賜物と務めを与えてくださいました。ある人には御言葉を教える働きが与えられ、ある人には人々を励ます働きが与えられ、またある人には仕え、支え、助ける働きが与えられています。一つひとつの器官は、私たち一人ひとりのことです。私たちは皆、神から与えられた務めを担っています。しかし、それぞれに与えられている役割も、賜物も、経験も、置かれている環境も異なります。そのため、できることもあれば、今はできないこともあります。だからこそ大切なのは、皆が同じ働きをすることではありません。教会は画一的な組織ではなく、多様な賜物を持つ人々によって成り立つキリストのからだです。それぞれが神から与えられた務めを果たし、互いに支え合うことによって、教会全体が健やかに成長していくのです。
聖書は、一つのからだに多くの部分があるように、教会にも多様な奉仕があることを教えています。目ですべての働きをすることはできませんし、手が足の代わりになることもできません。聖霊は、ご自身の主権によって、私たち一人ひとりに異なる賜物を分け与え、からだの各部分として配置されました。したがって、それぞれが与えられた役割を果たすことによって初めて、からだ全体は健全に機能するのです。教会の働きとは、決して優劣を競い合うものではなく、互いに補い合うものです。ここにおいて、御言葉の奉仕が軽んじられてもなりませんし、愛の実践としての社会的な奉仕が軽視されてもなりません。使徒たちによる「祈りと御言葉の奉仕」と、七人の奉仕者による「食卓の奉仕」の姿は、まさにこの調和を示しています。「愛をもって真理を語る」ことと、その真理を「具体的な愛の行動」として表すこと、その両方がそろって初めて、教会はキリストのからだとして健やかに成長していくのです。使徒たちと七人の奉仕者たちの姿は、教会がそれぞれに与えられた賜物と召しに従って秩序正しく仕え合うとき、神の国への働きが豊かに前進していくことを証ししています。そして、その成長をもたらしてくださるのは、私たち自身の努力や組織の優秀さではなく、教会のかしらであるキリストに他なりません。からだ全体は、かしらであるキリストから供給される力によって支えられ、愛のうちに建て上げられていくのです。
時代や直面する課題は異なりますが、私たちもまた、自らに与えられた務めを喜びをもって果たしたいと願います。教会の本質的な使命と優先すべきことを見失うことなく、御言葉と祈りを大切にしながら、互いに支え合い、仕え合う群れでありたいと願います。また、教会にはさまざまな賜物や背景を持つ人々が集められています。その多様性は、ときに違いや緊張を生み出すこともありますが、私たちは人間的な一致ではなく、聖霊によって与えられた一致を熱心に保つ者でありたいと願います。初代教会が困難の中にあっても主の導きによって前進したように、私たちもキリストを中心として歩み続けたいと願います。そして私たちは、この地上において完成された教会ではなく、主の再臨と神の国の完成を待ち望みながら歩む旅路の途上にある共同体です。だからこそ、互いの弱さを覚えつつも忍耐をもって支え合い、主に与えられた務めに忠実であり続けたいと願います。何よりも、教会を建て上げてくださるのは私たちではなく、教会のかしらである主イエス・キリストご自身です。主は今もご自身の教会を守り、導き、成長させておられます。その恵みに信頼しつつ、私たちもそれぞれに与えられた賜物と召しに従って仕え、神の栄光が現される教会として共に歩んでいきたいと願います。
“私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。” 4
Author: Paulsletter
