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「教会の麗しさと偽りと」

2026 6/08
メッセージを読む
2026年6月7日2026年6月8日

6月7日メッセージ
小平牧生牧師
「教会の麗しさと偽りと」
(聖霊に導かれて④)
使徒の働き4章32節~5章11節

 教会の歴史を見ると、外からの迫害や試練に対して、教会はむしろ信仰によって一致し、それらを乗り越えてきました。しかし、教会の真の危機は、往々にして外からではなく、自らの内側にある罪との闘いの中に生じます。『使徒の働き』4章32節以降には、聖霊に満たされた初代教会が「心と思いを一つにし」、だれ一人として自分の財産を自分のものと言わず、互いに分かち合った結果、「一人も乏しい者がいなかった」という、神の愛の交わりの理想的な姿が記されています。そこには、バルナバに代表されるような純粋な信仰と愛に基づく献身があふれていました。しかしその一方で、聖霊の力強い働きが前進するただ中にも、人間の根深い罪の問題が潜んでいたことが、5章に記されている「アナニアとサッピラ」の事件によって明らかにされています。彼らの罪の本質は、単に財産の一部を手元に残していたことではありません。神学的に見れば、それは聖霊を欺き、人によく見られたいという自己顕示欲と虚栄心のために、あたかもすべてを献げたかのように装ったことでした。サタンに心を奪われたこの偽りは、聖霊によって建て上げられた教会の神聖な一致を内側から破壊する、高慢の罪だったのです。

 私たちの生きている現代の日本の政治や社会情勢を見ると、明らかに偽りがあるにもかかわらず、それが隠蔽され、あるいは容認されてまかり通っているような状況が多々見受けられます。私たちは、そのような「虚偽が横行する時代の感覚」に慣れてしまうのではなく、真実の神を信じる者として、どこまでも誠実に生きなければならないと思わされます。一方で、アナニアとサッピラの言動は、私たちにとって決して他人事ではありません。「人によく思われたい」「自分の体裁を取り繕いたい」という思いは、だれの心の中にも潜む弱さだからです。それだけに、聖書に記されている彼らの結末は、私たちにはあまりにも厳しいものに感じられるかもしれません。聖霊が注がれ、福音宣教が力強く前進し、愛に満ちた教会が誕生したという麗しい記録のただ中で、ルカはなぜ、あえてこのような衝撃的な出来事を書き残したのでしょうか。今朝は、この箇所から示されている神の御心について、三つのポイントに絞って学びたいと思います。

目次

① 光とともに闇の部分があることを心に留めよう

 『使徒の働き』4章32節には、「信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、すべてを共有していた」と記されており、その結果として「彼らの中には、一人も乏しい者がいなかった」という驚くべき現実がもたらされました。当時のキリスト信仰の共同体では、信徒たちが自発的に資産を売り、その代金を使徒たちの足元に持ち寄って、必要に応じて分かち合うという実践がなされていました。これは、決して制度的な義務や強制によるものではありません。イエス・キリストの十字架と復活によってもたらされた救いの喜び、そして五旬節に注がれた聖霊による一致の結果として生まれた、神の愛の具体的な結実でした。ここには、聖霊に導かれた教会が放つ光の姿が鮮やかに現れています。しかしその一方で、5章に入ると一転して「アナニアとサッピラ」の事件が起き、人間の内なる罪という深刻な闇の姿が突きつけられます。彼らの罪の本質は、単に「財産の一部を隠し持っていたこと」ではなく、「あたかもすべてを献げたかのように装い、神と教会を欺いたこと」にありました。ペテロが「なぜ、サタンに心を奪われ、聖霊を欺いたのか」と厳しく問いかけたように、彼らの動機を支配していたのは、人によく見られたいという虚栄心と自己顕示欲でした。神学的に見れば、この事件は、聖霊の光に満ちた教会の神聖な交わり(コイノニア)の中に、サタンの誘惑を通じた「偽り」という罪の闇が入り込んだ瞬間を描いているのです。これらの対照的な姿は、キリスト者となった私たちの内にも、なお「光と闇の部分」が共存し、激しい葛藤があることを象徴的に示しています。

 教会の歴史を振り返ると、初代教会に見られるような「光の姿」を理想として追い求めながらも、さまざまな現実的矛盾に直面し、挫折や失敗を繰り返してきた歩みがあることに気づきます。もちろん、キリスト者になったからといって、自動的に無私の愛を実践できるわけではありません。自分の所有物を「自分のもの」と考えるのは人間として自然な感覚であり、資産が豊かになることを「祝福」と捉える価値観も一般的です。時には、かつて神に献げたものでさえ、「あれはもともと自分のものだったのに」と惜しむ思いがよぎることさえあります。こうした所有欲や執着は、キリスト者か否かに関わらず、すべての人間が抱える根深い性質と言えるでしょう。また、援助団体や支援組織の働きを見ても分かるように、生活困窮や災害といった社会問題への取り組み、人道支援は決してキリスト者だけが行うものではありません。キリストを信じていなくても、貧しい人々や困難の中にある人々のために、自らの財産を惜しみなく差し出す慈善家は世界中に存在します。さらに私たちには、戦争や飢餓、大規模災害といった「遠くにある大きな困難」には支援の必要性を感じ、協力しやすい傾向があります。しかし一方で、最も身近なところにある助け合い、特に教会内部の現実的な経済的課題となると、途端に難しさを覚えるのが現実ではないでしょうか。数年前のコロナ禍においても、実際に仕事を失った兄弟姉妹を前にし、教会の相互扶助の必要性を痛感しながらも、十分な支援を行えなかったという葛藤を、私たちは今も記憶しています。しかし、誕生したばかりの初代教会では、この「身近な者同士の現実的な助け合い」が驚くほど自然に、しかも徹底して実践されていました。

 ここで極めて重要なのは、この分かち合いが「人々を教会へ導くための手段」として行われたのではなかったという点です。また、「外部の人々を助けることで教会の評価を高めよう」としたのでもありません。彼らの相互扶助は、まず教会共同体の内側に向けられたものでした。33節には、使徒たちが主イエスの復活を力強く証しし、信徒たちの上に大きな恵みが注がれていたことが記されています。その結果として、愛と一致に満ちた彼らの共同体の姿は、周囲の人々に対しても大きな証しとなっていったのです。

“さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを 自分のものと言わず、すべてを共有していた。…彼らの中には、一人も乏しい者がいな かった。” 4:32-

 しかし、そのような麗しい教会の姿でありながら、5章に入ると極めて厳しく、衝撃的な出来事が起こります。アナニアとサッピラという一組の夫婦が、自らの虚栄心のために献げ物の代金をごまかしたのです。ペテロの言葉によれば、彼らの行為は単に人間を騙したのではなく、「聖霊を欺き」「主の御霊を試みる」という深刻な罪でした。神の即座の裁きによって二人が息絶えた結果、5章11節にあるように、「教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた」と記されています。興味深いのは、この恐ろしい事件の直後に起きた、周囲の人々の反応です。続く13節・14節を見ると、周囲の「ほかの人々は、だれ一人としてあえてこの交わりに加わろうとしなかった」という現実が記されています。しかし同時に、人々は彼らを深く「尊敬」していました。そして驚くべきことに、主を信じる者は、男も女もますます増えて、教会の群れに加わっていったのです。つまり、神への厳粛な恐れを目の当たりにし、教会に加わることを躊躇する現実はありましたが、そのような状況にあっても、周囲の人々は信徒たちの姿を見て尊敬を寄せ、主を信じて教会の群れに加わる者がますます増えていったのです(14節)。

 もちろん、この驚くべき魂の救いと教会の成長は、人間的な策略によるものではなく、ひとえに聖霊なる神の主権的な御業です。しかし同時に、そこで問われているのは、私たちキリスト者の在り方(存在の証し)にほかなりません。私たちはしばしば、世の人々に喜ばれ、受け入れられやすい環境を整えることで教会に加わってもらおうとし、それこそが効果的な伝道であると考えがちです。しかし神学的に見れば、そのような姿勢は、むしろ世の人々の霊的洞察力を軽んじていると言わざるを得ません。人々が教会に本当に求めているのは、世間にある表面的な演出や人間的慰めではなく、「ここには本当に生ける神がおられる」という真実の光だからです。伝道の本質とは、人々に媚びたり、迎合したりすることではありません。私たちがキリスト者としての生き方、すなわち、神への畏れと互いへの誠実な愛を明確に示すことこそが重要なのです。そのような姿を見ても、人々がすぐに教会の群れに加わろうとしない場合もあるでしょう。しかし、そのただ中で、聖霊なる神が人々の心を静かに捉え、真の悔い改めと救いへと導いてくださるのです。伝道とは、決して人間的なハードルを下げ、福音を「安い恵み」へと変えてしまうことではありません。むしろ、私たちが世の風潮に流されることなく、キリストの真実を妥協なく生き抜くとき、教会は神の栄光を放つ器となり、聖霊なる神の働きによって、救われる人々が神の御手によって絶えず加えられていくのです。

“ところが、アナニアという人は、妻のサッピラとともに土地を売り、妻も承知のうえで、 代金の一部を自分のために取っておき、一部だけを持って来て、使徒たちの足もとに置 いた。…ペテロは彼女に言った。「あなたがたは地所をこの値段で売ったのか。私に言い なさい。」彼女は「はい、その値段です」と言った。” 5:1-2,8

② 何が問題なのかをよく考えよう

 使徒の働き5章は、冒頭に「ところが…」という逆接の接続詞をもって始まっています。この接続詞は、直前の4章で描かれていた光に満ちた現実と、これから起こる闇の現実が、真っ向から相反するものであることを示しています。つまり4章の結びでは、信徒たちが自発的に資産を売り、その代金を使徒たちのもとへ持ち寄り、必要に応じて共同体の中で分かち合うという、誰も強いられることのない無償の愛の実践(コイノニア)がなされていました。その結果として「一人も乏しい者がいなかった」という、聖霊の支配による麗しい御国の共同体が地上に現出していたのです。その究極の模範が、自らの畑を売って全額を献げた「慰めの子」バルナバの姿でした。ところが5章に入ると、この聖霊による無償の愛の実践であったはずの行為が、人間の「肉の視点」によって捉え直された瞬間、神を欺く深刻な罪へと繋がっていく恐ろしい事実が露呈します。アナニアとサッピラ夫婦が目にしたのは、バルナバのような無私の献身が共同体から深く尊敬され、称賛されている姿でした。アナニアとサッピラの内心や意図について、ルカは詳細には記していません。しかし、ペテロの言葉から推測するなら、彼らはバルナバたちが放った「光の行為」を外側だけ模倣しようとしたものの、その内実は聖霊の愛に動かされたものではありませんでした。むしろ、「土地を売った代金の一部を密かに手元に残しておきながら、その一部だけを持って来て、さも全額であるかのように使徒たちの足もとに置いた」という、極めて人間的で計算高い虚栄心に支配されていたのです。

 神学的に見れば、まさにここに罪の本質があります。問題は、献げた金額が「一部か全部か」という多寡ではありません。彼らが神を欺こうとした、その偽りの動機こそが本質的な罪だったのです。
ここで「欺く」と訳されているギリシア語は、「偽る」「だます」「嘘をつく」という意味を持っています。教会は聖霊によって生み出された共同体であり、聖霊は人々を結び合わせ、愛を与え、一致を生み出してくださるお方です。そして、教会のただ中に聖霊なる神として臨在しておられるのは、真実と誠実に満ちたお方です。ゆえに、神と人との関係にも誠実さが求められます。たとえば夫婦の関係を考えてみましょう。夫婦は互いに愛し合う関係ですが、その愛の中に偽りがあれば、それは相手を欺くことになります。なぜなら、夫婦とは本来、互いの誠実を前提とした関係だからです。同じように、私たちは神によって愛され、また神を愛する関係へと招かれています。神は決して私たちを欺かず、常に真実をもって向き合ってくださいます。それゆえ、私たちが神に対して偽りをもって応答するなら、それは神を欺こうとすることに他なりません。アナニアとサッピラが責められたのも、この点にあります。彼らは神を信じる者であり、神が誠実に関わってくださっていることを知っていました。それにもかかわらず、神の前で偽りを語ったのです。本来なら、神が誠実をもって彼らに関わってくださったように、彼らもまた誠実をもって応答すべきでした。神は私たちを誠実な関係へと招いておられます。だからこそ、その関係の中に偽りや欺きが入り込むことを悲しまれるのです。

 ペテロが「それは売らなくてもあなたのものであり、売った後でもあなたの自由になったのではないか」と指摘したように、初代教会における財産の売却や献金は、制度的な義務でも強制でもありませんでした。土地を売るかどうか、代金をいくら献げるか、それらはすべて、個人の自由意志と所有権に委ねられていたのです。当然、彼らには「献げない」という選択肢もありました。また、彼らの献げ物によって人々を教会に加えさせるという「伝道的目的」が課されていたわけでもありません。それにもかかわらず、彼らは自らの意思で「献げ物」という神聖な信仰行為を選びながら、それを「人によく見られたい」という自己顕示と体裁のための不誠実な手段へと歪めてしまいました。彼らの罪とは、自由と権利が完全に守られている恵みの中で、サタンに心を奪われ、目に見えない聖霊を軽視し、神を欺こうとした高慢と偽善にほかなりません。ルカは、この「ところが」という接続詞の一言に、聖霊の働きに逆行しようとする人間の根深い罪の現実を凝縮させているのです。

“すると、ペテロは言った。「アナニア。なぜあなたはサタンに心を奪われて聖霊を欺き、 地所の代金の一部を自分のために取っておいたのか。売らないでおけば、あなたのもの であり、売った後でも、あなたの自由になったではないか。どうして、このようなこと を企んだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」” 5:3-4

“思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。” ガラテヤ6:7

③ 罪の問題から目を背けないでいよう

 聖霊なる神に導かれて生きるということは、私たちの内から「闇(罪の性質)」が完全に消え去ることを意味するのではありません。むしろ、自分の内に厳然として存在する闇を率直に認め、その弱さを抱えたまま神の光の中に歩むということです。だからこそ、私たちは自らの闇から決して目を背けてはならないのです。誕生したばかりの初代教会は、この事実を極めて重く受け止めていました。5節には「アナニアはペテロの言葉を聞くと倒れて息絶え、その出来事を聞いたすべての人々に大きな恐れが生じた」とあり、さらに11節でも重ねて「教会全体と、この出来事を聞いたすべての人々に大きな恐れが生じた」と記されています。ここで注目すべきは、書き手であるルカが「教会(エクレシア)」という単語を、この5章11節において『使徒の働き』の中で初めて用いているという事実です。ルカが記した前作の『ルカの福音書』には、この言葉は一度も登場しません。その「教会」という聖なる言葉が、他でもないアナニアとサッピラの事件の結びにおいて初めて厳かに宣言されたのです。これは、この悲劇的な事件が、教会にとって切り離すことのできない、本質的なアイデンティティに関わる出来事であることを示しています。これからどれほど宣教の働きが前進し、世界へ広がっていったとしても、教会は「神を欺くこと」に対して無関心・無感覚になってはならない。神に対して常に「誠実」でなければ、教会はもはや神の教会としては存在し得ないのだという事実を、ルカはこの言葉の配置によって強く伝えているのです。

 この出来事の根底を考えるとき、当時の共同体は信仰的にも教会としての交わりにおいても、まだ生まれたばかりの未熟な部分を残していたのだと思います。彼らの神を欺く行動は確かに重大な罪ですが、ここで私たちが心に留めたいのは、私たち自身にも全く同じ闇や未熟さがあるという現実です。だからこそ、日々の教会の交わりの中で、自分自身の闇の存在に互いが気づかされるような「真実な交わり」が与えられているなら、私たちはその現実に目を向け、決定的な失敗や破綻から守られることができるのです。自分を完全な者として偽るのをやめ、未熟さや闇の部分を隠さずに素直に認め合って、共に主にあって成長していくことのできる「小さな交わり(セルグループや祈り会など)」を、私たちは何よりも大切にしたいのです。さらにペテロは、この事件の背後に働く霊的な現実として「サタン」という言葉を用いています。福音書を振り返っても、主イエスが最も厳しく叱責されたのは、神を信じない罪びとたちよりも、神を信じていると公言しながらその内実が伴わない「偽善者」たちでした。神の前で自らが罪人であることを認めているうちは問題ありません。しかし、自分を実際以上に正しい者のように見せようとするとき、それは神を欺く罪へと直結します。どんなに小さな偽りであっても、サタンはその虚栄心の隙間に巧妙に付け込んでくるのです。教会に素晴らしい神の恵みがあるからこそ、それを人間的なプライドや体裁のために利用しようとするとき、私たちの内に致命的な隙が生まれます。私たちは、そのような弱さから互いを守るために、率直に告白し、祈り合う交わりを必要としているのです。

 このことは、私たちの「献金(献げること)」の姿勢にもそのまま当てはまります。富への執着を持つ人間にあって、献げる気持ちの中に「惜しむ心」がよぎることは、ある意味で当然の現実です。もし、皆さんが神の御業のため、あるいは多くの必要を抱える人々のために、心からの感謝をもって惜しみなく献げることができるなら、ぜひその感謝のままに献げてください。たとえご自身の財産であっても、それは神から委ねられた良き管理者としての預かり物だからです。もっとも、もしその心に「惜しむ心」があるならば、その心の現実を偽ることなく、自分が本当に「喜んで献げることができる範囲」で献げれば良いのです。惜しむ心があるのに、あたかも「惜しむ心など一切ない、聖なる信仰者」であるかのように振る舞う必要はありませんし、決してそうしてはなりません。それこそが、アナニアとサッピラが陥った偽善の罠だからです。もし自らの内に惜しむ心や執着心を見出したなら、神の前に「主よ、私はこれほどまでに惜しんでしまう貧しい者です」と、ありのままを正直に告白すれば良いのです。主はその真実な告白を責めることはされません。私たちが最も警戒すべきは、不完全な自分を隠そうとする「偽り」の結果として、神を欺く者になってしまうことです。

 神は、私たちの内にある光の部分(聖霊による自発的な愛)を喜んでくださると同時に、私たちの内にある闇の部分(肉の弱さ)をも全て見通した上で、なお愛してくださっています。それゆえに、私たちは聖霊なる神を畏れ尊び、自らをへりくだらせ、互いに罪を告白し、祈り合いながら、この真実な教会の歩みを共に進めていこうではありませんか。

“このことばを聞くと、アナニアは倒れて息が絶えた。これを聞いたすべての人たちに、 大きな恐れが生じた。” 5

“そして、教会全体とこのことを聞いたすべての人たちに、大きな恐れが生じた。”11

“あなたがたは地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでし ょうか。…”マタイ5:13

Author: Paulsletter

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