5月31日メッセージ
小平牧生牧師
「聖霊によって誕生した教会の姿」
(聖霊に導かれて③)
使徒の働き2章37~47節
使徒の働き2章は、約束されていた聖霊が降臨し、エルサレムで一つの場所に集まり祈っていた弟子たちの上に起こった超自然的な出来事の描写から始まります。これは単なる驚くべき現象ではなく、預言者ヨエルを通して語られた「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(ヨエル2:28-32)という預言の成就であり、神の救済計画における新しい時代の幕開けを意味するものでした。旧約時代において、聖霊は王や祭司、預言者など特定の人々に与えられていました。しかし今や、イエス・キリストを信じるすべての人に聖霊が注がれる時代が到来したのです。
これを受けてペテロは、聖霊に満たされ、旧約聖書の預言がイエス・キリストにおいて成就したことを解き明かしました。彼は、イエスの十字架の死と復活、昇天、そして神の右の座に着かれた事実を示し、このイエスこそ神の主権をもつ「主」であり、「キリスト(救い主)」として立てられたお方であると大胆に証ししたのです。14節でルカは、「ペテロは十一人とともに立ち、声を張り上げて」と記しています。これは単に彼が大声で語ったということではなく、約束された聖霊の力によって押し出され、確信をもって福音を宣べ伝える使徒の姿を端的に表しています。このペテロの説教を聞いた人々は、聖霊の働きによって「心を刺され」、自らの罪と不信仰を深く自覚しました。そして、「私たちはどうしたらよいのでしょうか」と切実に問いかけたのです(2:37)。これに対してペテロは、罪から神へと立ち返る根本的な方向転換である「悔い改め」と、イエス・キリストを信じる者としてのしるしである「バプテスマ(洗礼)」を受けるよう勧めました。その結果、この招きに応じた人々は、罪の赦しと聖霊という神の恵みの賜物を受け、新しい契約の民の共同体、すなわち「キリストの体なる教会」へと加えられました。ここに、聖霊によって誕生した最初のエルサレム教会の姿が描かれています。それは同時に、終末に完成する神の国が歴史の中に具体的に現れ始めた、目に見える前進の姿でもあったのです。
「教会(エクレシア)」という語は、福音書ではマタイの福音書に二度(16:18、18:17)登場しますが、使徒の働きでは5章11節で初めて用いられています。しかし、その名称がまだ用いられていなかったからといって、教会が存在していなかったわけではありません。むしろ使徒の働き2章において、復活して天に昇られた主イエスが約束どおり聖霊を注がれたことにより、「キリストの体」であり、「神の家族」であり、「新しい契約の民」である教会が歴史の中に誕生しました。それは、民族や社会的身分の隔てを超え、キリストにあって一つとされた新しい神の民の共同体でした。では、聖霊によって新しく創造されたこの共同体の交わりは、どのような姿をしていたのでしょうか。今朝は、この御言葉から、聖霊によって誕生した教会(エクレシア)の姿について共に見てまいりたいと思います。
① 神のことばが教えられ、祈りが大切にされている
『使徒の働き』2章41節から42節には、「ペテロのことばを受け入れた者はバプテスマを受け、その日、三千人ほどが弟子に加えられた」とあり、続けて彼らが「使徒たちの教えを堅く守り、交わりをなし、パンを裂き、祈りをしていた」ことが記されています。当時、新約聖書はまだ執筆されておらず、当然ながら編纂もされていませんでした。それゆえ、イエス・キリストが語られた神の国の教えや福音、そして十字架の死と復活の出来事は、使徒たちの口を通して公に語り伝えられなければならなかったのです。だからこそ、1章でイスカリオテのユダの後任として使徒を補充する際、その条件として「イエスが公の活動を始められた時から昇天の日に至るまで、常に寝食を共にした者」であり、何よりも「イエスの復活の目撃証人」であることが求められました。使徒とは、イエスの言動を目撃し、その復活のリアリティを命がけで語り伝える資格を持った者たちだったのです。イエスを信じてバプテスマを受け、聖霊の賜物を与えられた最初のキリスト者たちは、この使徒たちから語られる教えを神の権威ある御言葉として受け止め、深く重んじました。
ここで注目すべきは、「聖霊を受ける」ということの神学的な意味です。聖霊の働きは、単に使徒たちの教えを客観的な知識として理解させるだけにとどまりません。聖霊は、語られた御言葉を聴く者の魂に届かせ、それを「生きた神の真理」として悟らせるのです。この初代教会の姿は、現代の私たちにとっても極めて重要な教訓を含んでいます。今の私たちには一冊の書物として「聖書」が与えられていますが、聖書を読み、頭の知識として理解し、納得するだけでは不十分です。今も昔も変わらず、文字として記された神の御言葉を通して、その奥底にある真理を解き明かし、私たちの心に命の光を照らしてくださるのは、聖霊なる神にほかなりません。聖霊なる神の導きによらなければ、私たちは単に御言葉の知識を自分の中に蓄積するだけに終わり、その御言葉によって全人格が変えられることも、信仰の内に生きる力となることもありません。私たちは常に聖霊の助けを祈り求めながら、へりくだった心で聖書を読み、御言葉に聴き従うことが大切なのです。
2章43節には、使徒たちによって「多くの不思議としるし」が行われ、人々のうちに恐れ、すなわち神への畏敬の念が生じたことが記されています。これらの超自然的な御業は、聖霊なる神が初代教会の礎として立てられた使徒たちに与えられた権威を公に示し、彼らの宣べ伝えるキリストの福音が真実であることを証しするためのものでした。私たちが生きる現代の教会生活において、このような「不思議」や「しるし」を日常的に目にすることは多くありません。しかし、それは聖霊の働きが弱まったり、失われたりしたことを意味するのではありません。聖霊は今も昔も変わることなく、生きて力強く働いておられます。
新約聖書が完成し、広く普及している今日において、聖霊は主として「記された御言葉」を通して働かれます。聖霊は私たちの心を照らし、御言葉を読む者の内に働いて、神についての真理を悟らせ、信仰を育み、キリストに似た者へと造り変えてくださるのです。一方で、現代の世界宣教の最前線に目を向けると、いまだ自分たちの言語で聖書を持たない民族や、十分な文字文化を持たない人々が暮らす地域も少なくありません。こうした「まだ聖書の言葉が十分に届いていない」宣教の現場においては、今日でも聖霊による目に見える「不思議」や「しるし」が報告されています。神は、そのような状況にある人々に最もふさわしい方法によってご自身を現されます。時には幻や癒やしを通して、また時には御言葉の理解を助ける特別な導きを通して、イエス・キリストによる救いの真実を力強く証ししておられるのです。ですから、私たちは現代的な理性の枠組みだけで「不思議としるし」の可能性を否定する必要はありません。神はご自身の主権のもとで、必要に応じて、人間の理解を超えた御業を行われるお方だからです。私たちは、自由に聖書を読むことのできる恵みを感謝するとともに、知識を得ることだけで満足してはなりません。今も生きて働かれる聖霊に信頼し、その助けと導きを求めながら御言葉に聞き続けることが大切です。聖霊によって絶えず造り変えられつつ、神との生きた交わりを深めていくことこそ、現代の私たちに求められている姿勢なのです。
“彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをし ていた。” 41-42
② 愛し合い、互いの必要を分かち合っている
2章42節にあるとおり、初代教会の聖徒たちは「交わり(コイノニア)」を何よりも大切にしました。この「コイノニア」という言葉は、形容詞の「コイノス(共通の、共有された、皆のもの)」に由来しており、そこから「互いに深く分かち合う」という意味に用いられるようになりました。したがって、聖書が語るこの交わりは、単なる人間的な親睦や人間関係ではありません。それは、御父また御子イエス・キリストとの垂直的な交わりに根ざした、聖霊による「霊的共同体」だったのです(Ⅰヨハネ1:3)。その結果として、彼らは必要を抱える兄弟姉妹のために、自発的に自らの財産や所有物を分かち合い、互いの重荷を担い合いました。これは地上の強制的な共有制度などではなく、聖霊によって内から湧き出た愛の実践であり、神の国の価値観が具体的な生活の中に目に見える形で現れた、コイノニアの本質なのです。
現代の私たちに目を移すと、集められた一人ひとりの間には、育ちや性格、社会的立場など、異なる点を数え上げればきりがありません。キリスト教界全体を見渡しても、それぞれの教派が受け継いできた教理や伝統、礼拝のスタイルには多様な違いがあります。しかし、たとえどのような差異があろうとも、私たちには何よりも、唯一の父なる神、唯一の救い主イエス・キリスト、そして私たちを一つに結ぶ聖霊なる神という、完璧な三位一体の交わりそのものである神への信仰が共通して与えられています。この共通の土台によって、私たちはすでに「一つとされている」のであり、この一致こそを私たちは何よりも大切に守らなければなりません。人間には、しばしば他者との違いを強調し、「私たちが受け継いだ伝統は、あなたたちのものとは違う」と境界線を引くことで、自らのアイデンティティを確認しようとする傾向があります。しかし、聖霊によって私たちに与えられている真の姿とは、キリストの体として「一つにされている」という現実です。これこそが、同じ神、永遠のいのち、御言葉を「共有する」ということの真意です。繰り返しますが、私たちの交わりの源泉は、御父また御子イエス・キリストとの神聖な交わりにあります。だからこそ、古くから教会が告白してきた使徒信条において、私たちは「聖徒の交わりを信じる」と告白するのです。これは、三位一体の神を信じることと並ぶ信仰の根幹であり、そこには人間の境界線を超えた、聖霊による圧倒的な霊的一致と交わりがあることを覚えなければなりません。初代教会を通して私たちが今日注目すべき決定的な事実は、彼らが聖霊によって「一つにされている」という目に見えない霊的現実が、彼らの実際の生き方や具体的な行動、すなわち生活の全領域において、誰もが否定できない確かな形となって社会に現れていた(可視化されていた)という点なのです。
2章44節から45節には、「信者となった者たちはみな一緒にいて、一切の物を共有にし、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた」と記されています。ここには、教会の本質に関わる深い霊的な意味合いが隠されています。教会の歴史を振り返ると、修道会など、当時のような一切の物を共有し、必要に応じて分配する徹底した共同生活の生き方や取り組みを実践してきた人々がいます。しかしその一方で、すべてのキリスト者が画一的にこの形式に従わなければならなかったわけではありません。キリストを信じる者とされたからといって、私有財産を完全に処分して分配することが律法的に強制されているわけではないのです。実際、続く46節には「家ごとに集まってパンを裂き」とあり、彼らがそれぞれの家を所有し、個人の生活基盤を保持していたことが分かります。ここで決定的に大切なのは、制度としての財産を所有することを否定するのではなく、「自分の所有物はすべて、自分だけのものではない」という内面的なパラダイムシフトです。キリストの愛に触れた者は、必要があるならいつでも、自らの意思で惜しみなく分かち合うことができる生き方へと変えられます。
キリスト教信仰において、子どもが親の所有物ではなく、神から授かり、委ねられた聖なる預かり物であるのと同様に、私たちに与えられているすべての物質や富もまた、神から一時的に託されているものにすぎません。これこそが、聖書が教える「スチュワードシップ(神から預かったすべての恵みを管理活用する生き方)」の本質です。私たちが「所有者」ではなく「管理者」であるならば、委ねられている富は、真の主人が望まれるとき、また必要を抱える人が目の前に現れたときに、いつでも喜んで分かち合うことができるはずなのです。さらにこの「分かち合い」は、目に見える財産だけにとどまりません。神から与えられた才能、時間、経験、エネルギーのすべてが、自己満足のためではなく、互いを建て上げ、分かち合うために与えられています。そして不思議なことに、それらは自分の内に囲い込むときではなく、他者のために分かち合うときにこそ、神の祝福の中でさらに豊かに用いられ、増し加えられていくのです。
18世記の宣教者ジョン・ウェスレーは、キリスト者の金銭管理について「できる限り稼ぎ、できる限り蓄え(節約し)、できる限り与えなさい」と言いました。正当な手段でしっかりと利益を上げ、無駄遣いを排して堅実に蓄え、そして神と隣人のために惜しみなく分かち合う。この健全で寛大な生き方こそ、聖霊によるコイノニア(交わり)の具体的な結実です。物質に対する執着は人間の本能であり、それを超えて「惜しみなく分かち合う」という自由な生き方は、肉の力では不可能です。それゆえに、これこそが聖霊なる神の超自然的な働きによる、神の国の価値観の実証にほかならないのです。
“信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。” 44-45
“私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。”1ヨハネ1:3
③ ともに集まり、そしてそれぞれの生活の場で礼拝がささげられている
2章46節には、「そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家ごとにパンを裂き、喜びと真心の心をもって食事を共にし、神を賛美していた」と記されています。聖霊降臨直後の初代教会における礼拝の際立った特徴は、信者たちがキリストを信じた後もなお、依然として旧約以来の伝統である「宮」に集まり、祈りと礼拝を捧げ続けていた点にあります。ここでいう「宮」とは、エルサレム神殿のことです。実際に『使徒の働き』を読み進めると、使徒たちが祈りの時間に神殿へと上り(3:1)、神殿の境内で御言葉を教え(5:21、42)、信者たちが神殿の「ソロモンの回廊」に一堂に集まる(5:12)という記述が繰り返し登場します。救済史的な視点から見れば、彼らが神殿に集い続けたのは、イエス・キリストによる救いがユダヤ教信仰の否定ではなく、その約束の「成就」であったという確信があったからです。ただし彼らは、もはや神殿の犠牲を捧げるためではなく、今や贖いとなられたキリストを公に証しするために集まっていたのです。また当時は、現代のようなキリスト教独自の礼拝堂(教会堂)という建築物はまだ存在していませんでした。教会堂が歴史の中に現れるのはかなり後の時代のことです。そのため信者たちは、神殿の広大な境内に集まって大いなる主を礼拝し、同時に、それぞれの「個人の家」を拠点として緊密な集会を行っていたのです。このように、初代教会は毎日、心を一つにして「宮」に集まると同時に、「家」でもパンを裂いていました。ここには、現代の礼拝論にも通じる見事な二面性が見出せます。宮に集まる礼拝を、神の偉大さと超越性を仰ぎ見る「フォーマル(公的・儀式的)」なものとするならば、家での礼拝は、主との親密さと臨在をより近くに感じ、その恵みを豊かに味わうことのできる、「インフォーマル(私的・共同体的)」な礼拝でした。特に家々で行われた「パンを裂くこと」と「食事の共有」は、現代の聖餐式と愛餐の原点です。それは単なる空腹を満たすための懇親会ではなく、復活の主が聖霊を介して自分たちの食卓のただ中に臨在してくださっていることを、圧倒的な「喜びと真心」をもって祝い、感謝を捧げる、まさに生活に根ざした自由な礼拝の姿でした。この大いなる「宮」での公の礼拝と、親密な「家」での交わりが美しく調和し、両立していたことこそが、聖霊に満たされた教会の最初期の、そして最も本質的な姿だったのです。
聖霊に満たされるとは、特定の形式や型に縛られることではありません。むしろ聖霊は、それぞれの時代や状況の中で、神の民を導き、福音にふさわしい歩みへと導いてくださるお方です。ですから、礼拝の形式や集まり方そのものは、時代や文化に応じてある程度柔軟であってよいのです。しかしその一方で、初代教会が大切にした「使徒たちの教え」「交わり」「パン裂き」「祈り」という礼拝と共同体の本質は、決して失われてはなりません。使徒たちは、神殿においても家々においても、喜びと真心をもって神を礼拝しました。ここで語られる「喜び」は単なる感情的な高揚ではなく、罪の赦しと救いの確信から生まれる、聖霊によって与えられる霊的な喜びです。そして「真心」とは、偽りや見せかけのない、神に対する誠実な心を意味しています。教会に関わるあらゆる営みは、この聖霊による喜びと真心から生まれるものでなければなりません。共に集まり、交わり、礼拝をささげ、食卓を囲み、互いに仕え合うことは、単なる人間的な活動ではなく、聖霊によって結ばれた神の家族としての営みなのです。主イエスは、「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と命じられました。その愛への応答として、私たちも喜びと真心をもって神を礼拝し、神の栄光を現していきたいと思います。初代教会は神殿に集まるときも、家々に集まるときも、変わることなく神を礼拝していました。大切なのは場所や建物ではありません。神殿であれ家であれ、あるいは現代の教会堂であれ、聖霊によって結ばれた神の民が、キリストを中心として集い、神を礼拝するところに教会があるのです。私たちもまた、与えられたそれぞれの場において、喜びと真心をもって主を礼拝し続けていきたいと思います。
“そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事 をともにし、” 46
④ 彼らのありのままの姿が、福音をあかししている
2章47節には、これまで描かれてきた初代教会の歩みの結実が記されています。ここでまず注目したいのは、彼らが「すべての民に好意を持たれていた」という事実です。これは、教会が世の人々に気に入られるために耳障りのよいメッセージを語ったり、人々に迎合するような活動を行ったりしていたという意味ではありません。弟子たちが宣べ伝えたのは、人間の罪を鋭く指摘し、悔い改めを求める「イエス・キリストの十字架と復活」の福音でした。もちろん、このメッセージをすべての人が喜んで受け入れたわけではありません。しかし人々は、彼らの信仰に同意できなかったとしても、その清らかな生き方や互いに愛し合う姿に深い敬意と好意を抱かずにはいられなかったのです。その後、福音宣教が進み教会が拡大するにつれて、福音への激しい反発や国家・宗教権力による迫害が起こるようになります。それでも地域社会の一般の人々からは、教会はなお好意的な目で見られていました。ここに、世の光としての教会の霊的な魅力を見ることができます。さらに聖書は、人々から好意を持たれた結果として教会が成長したとも、人間的な伝道の工夫によって人が増えたとも語っていません。人々をこの聖霊による交わりへと導き入れたのは、「主ご自身」であり、「主は日々、救われる人々を仲間に加えてくださった」のです。ここには、救いと教会の成長における徹底した神の主権が示されています。教会とは、人間の力や知恵によって人を集める場所ではなく、主がご自身の御心によって人々を召し集めてくださる神聖な共同体(エクレシア)です。だからこそ私たちは、主によってこの群れへと導かれた一人ひとりを、大きな喜びと真心をもって迎え入れたいと思います。その一人ひとりが、主の恵みによって加えられた大切な存在だからです。
これまで、初代教会の四つの特質についてお話ししてきました。しかし何よりも重要なのは、この「順序」です。まず、神のことば(使徒の教え)に堅く立ち、祈りを重んじるという「神との垂直的な関係」の土台が据えられます。そこからおのずと、互いの重荷を担い合う「真実な交わり(コイノニア)」に生きる群れが形成され、宮でも家でも喜びに満ちた礼拝がささげられるようになります。そして、その内なる恵みと喜びがあふれ出るとき、教会はありのままの姿で、外に向かって力強く福音を証しする存在へと押し出されていくのです。この神の秩序に従うとき、主は必ずご自身の宣教の御業を前進させてくださいます。二千年前のエルサレムに現れたこの聖書の原則が、21世紀の日本において、そして私たちの教会においても、聖霊なる神によって新たに実現されることを願います。私たちもまた、その御業のためにへりくだり、心を合わせて祈り求めていこうではありませんか。
“神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。” 47
Author: Paulsletter
