5月24日メッセージ
小平牧生牧師
「聖霊による人生の始まり」
(聖霊に導かれて②)
使徒の働き2章1~13節
本日は、「ペンテコステ」を記念する礼拝です。「ペンテコステ」は、キリスト教において聖霊降臨を記念する日として広く知られていますが、その起源は旧約聖書の律法にまで深く根ざしています。「ペンテコステ」とは、ギリシャ語で「第50日目の祭り」を意味する言葉です。この語は、かつての口語訳聖書では『使徒行伝』20章16節においてのみ「ペンテコステ」と音写され、他の箇所では「五旬節」と訳されていました。現在の新改訳聖書(2017)では、それらの箇所も含めてすべて「五旬節」と訳されています。
五旬節は、イスラエルの三大祭り(「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」)の一つです。『レビ記』23章15~16節によれば、過越の祭りの期間中にある安息日の翌日、すなわち「初穂の束を揺り動かしてささげる日」から数えて50日目に祝われるため、「七週の祭り」とも呼ばれました。『申命記』16章9節には、「立った穀物に鎌を入れ始める時から七週間を数えなさい」と定められており、大麦の収穫の始まり(初穂の祭り)から数えて、ちょうど小麦の収穫期にあたる50日目にこの祭りが捧げられたのです。
もともと五旬節は、初物の収穫を感謝する農耕祭でした。しかし、その後のユダヤ教の伝統(伝承およびラビ神学)においては、この日を「イスラエルの民がエジプトを脱出した後、シナイ山で神から十戒(律法)を授かった日」として記憶するようになりました。すなわち、過越の羊の血によって「肉体的な奴隷」から解放された民が、50日目にシナイ山で「神の民として生きるための律法(契約)」を与えられたのです。そして、この契約を通して、イスラエルは神の民としての共同体を形成していきました。
このように聖書の流れをたどると、五旬節は「旧約における収穫の初物と律法の授与」から、「新約における聖霊降臨と教会の誕生」へと至る、見事な神学的連続性を持っていることが分かります。新約聖書『使徒の働き』2章では、まさにこの五旬節の日に、エルサレムに集まっていたイエスの弟子たちに聖霊が臨まれました。それは、主イエス・キリストの復活から50日目、そして昇天から10日目の出来事でした。旧約聖書において預言されていたとおり、またイエス・キリストご自身が約束されたとおり、聖霊が信じる者たちの心に直接注がれたのです。これにより、旧約の預言者たちが指し示していた「新しい契約」が成就し、聖霊の時代が始まりました。そして、キリストによる救いの初穂として福音宣教が開始され、主の教会が誕生し、今日に至っています。このペンテコステの日に何が起こったのか、その次第をルカは次のように語っています。
“すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全 体に響き渡った。また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。” 2-3
ここに記されているのは、旧約時代に神がご自身の臨在を現された数々の場面を彷彿とさせる、新しい時代の到来を告げる圧倒的な出来事です。激しい風が吹いてきたような響きが起こり、炎のような舌が分かれて現れる―その光景が描かれています。ここで「風」は、聖書において聖霊なる神を象徴するものであり、「炎」もまた、モーセが目撃した「燃える柴」の出来事に代表されるように、神の聖なる臨在を示す伝統的な表現です。そして「舌」は、詩篇などにおいてもしばしば「言葉」や「告白」そのものを象徴するものとして用いられています。ここに、「炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。……みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした」と記されているのは、人間の常識を超えた超自然的な出来事でした。実際、その場に居合わせ、エルサレムに集まっていた人々は、「驚きあきれ」「驚き怪しみ」「驚き惑って」、「いったいこれはどうしたことか」と口々に語ったことが聖書に記録されています。しかし興味深いことに、他国のことばを語り始めた弟子たち自身が、この不思議な現象にパニックを起こしたり、驚き惑ったりしたという描写はありません。その後に続くペテロの大説教(14節以降)を見ると、弟子たちはこの出来事が、復活された主イエスが彼らに約束されていたことの成就であり、神のご計画の時に従って起こった出来事であることを深く理解していたことが分かります。ペテロの説明によれば、これは旧約の預言者ヨエルが「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ」(ヨエル書2章28〜32節)と預言していた神の救済計画の実現でした。また、イエスが十字架にかかられる前に、「地上を去る代わりに、もう一人の助け主、真理の御霊を遣わす」と約束された、その「聖霊なる神」のご臨在そのものであったのです。かつて恐れにとらわれ、部屋に閉じこもっていた弟子たちが動揺しなかったのは、約束の聖霊に満たされたことによって、神の御心を霊的に悟り、福音を大胆に語る力を与えられていたからなのです。
今朝、共に心に留めたい大切なことが二つあります。一つは、この時に始まった出来事は、今もなお続いているということです。私たちは、まさにこの新しい聖霊の時代に生かされているのです。もう一つは、ペンテコステは「教会の始まり」と言われますが、それは結果として現れた出来事にすぎないということです。より本質的なのは、弟子たちが聖霊によって新しく生かされ、聖霊に導かれて歩む者とされたことでした。今朝は、このペンテコステの出来事を通して、聖霊なる神がどのようなお方であるのかを、共に確認していきたいと思います。
① 私たちを新しく生かす聖霊なる神
イエス・キリストの十字架の死と復活、そしてこれらに続くペンテコステでの聖霊降臨の出来事は、私たちに何を教えているのでしょうか。それは、私たちが霊的に新しく生まれ、聖霊によって生きる者とされたということです。すなわち、聖霊なる神が、私たちの内に住まわれるようになった(聖霊の内住)ということです。私たちはよく「救われる」という言葉を使います。救いと聞くと、まずは「罪が赦されること」、そして「永遠のいのちが与えられること」を思い浮かべますが、それだけにとどまりません。イエス・キリストが与えてくださった真の救いとは、私たちが「新しく生まれる」ということです。つまり、それは霊的な新しい誕生(新生)を意味します。霊において新しく生まれ、内に住んでくださる聖霊に導かれて生きる、輝かしい新生活が私たちに始まったのです。
天地創造のとき、人間は神から「いのちの息」を吹き込まれ、生きる者になったと聖書(創世記2章7節)に記されています。これは単なる肉体的な生命の始まりを意味するのではありません。人間は肉体と心(魂)、そして霊を持つ「神のかたち」として造られ、神の霊と交わり、神の霊によって生きる者とされたのです。ところが、人間は神に背き、罪を犯したことで、神との交わりが断絶し、霊的に死んだ者となってしまいました。肉体的には生きて活動していても、その内面は罪に支配され、霊的には死んだ状態にあると聖書は指摘しています。神という生命の源から切り離されたために、人間は自分の人生を心から喜ぶことができず、互いに愛し合うことも、神から委ねられた世界を正しく治めることもできなくなりました。このような深い歪みと苦しみの中で、人間は歩むようになったのです。しかし神は、救い主としてイエス・キリストを私たちに遣わしてくださいました。その十字架の死と復活により、私たちの罪を完全に赦し、永遠のいのちを与え、さらには聖霊によって「新しく生きる者」へと造り変えてくださったのです。
“神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そ れで人は生きるものとなった。” 創世記2:7
このことは、かつて預言者エゼキエルを通して神が語られた約束の成就でもあります。「新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。……わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする」(エゼキエル書36章26〜27節)つまり、救い主によってもたらされる救いとは、人間の心の奥底に新しい神の霊が注がれ、霊的な面において根本的に新しく生まれ変わることだと、旧約の時代からあらかじめ約束されていたのです。私たちは今、こうして生きています。外見的には肉体が見えるだけであり、肉体的に生きていることは肉眼で確認できます。けれども、人間が「新しく生まれる」ということは、このような肉体的な次元の話ではありません。むしろ、神を信頼し、互いに愛し合い、愛される喜びを分かち合い、生かされていることに感謝する、そのような姿こそが、「神のかたち」として造られた人間の、本来の本質的な姿なのです。私たちがかつてそれらを感じられなかったのは、霊的に死んでいたからにほかなりません。私たちは、神の霊によって生かされて初めて真に生きる、霊的な存在です。「霊的な人」と言うと、何か神秘的な力や、特別な奇跡の賜物を与えられた人のように誤解されがちですが、そうではありません。聖書が言う「霊的」とは、肉体も心も、そして霊もそのすべてが神の調和の中に置かれ、神のいのちによって豊かに生かされている状態を指すのです。
イエス・キリストは、ユダヤ人議会の議員であり高名な教師でもあったニコデモに対して、「人は新しく生まれなければ、神の国を見ることができない」と語られました。ニコデモは驚き、「大人の人間がどうして生まれ変われるのか。もう一度母の胎内に入ることなどできようか」と問い返しました。しかしイエスは、「肉によって生まれたものは肉であり、御霊によって生まれたものは霊である」と答え、水と御霊による刷新の必要性を説かれました。肉体を持って生まれた私たちは、誰もがこの「霊的な生まれ変わり」を必要としています。そしてキリストは、十字架と復活、そしてペンテコステの聖霊によって、このニコデモへの約束を、今や私たち一人ひとりの上に現実のものとしてくださったのです。
「新しく生まれる」というのは、私たちが死んで天国に行ってから起こることではありません。今、この地上に生きながらにして、霊的に新しく生まれ変わる(新生する)ということなのです。キリスト者になるとは、単に「イエス・キリストの十字架の死と復活を信じれば、死後に天国へ行ける」といった、頭の中の教理や知識の同意だけを意味するのではありません。キリスト信仰の最も重要なリアリティは、私たちがイエス・キリストを信じることによって、今まさに「霊的に生きる者」とされ、神の国の命に預かって歩み出すことにあります。これこそが、キリスト者として生きるということです。それは、罪によって機能不全に陥っていた私たちの「体」と「心」と「霊」のすべてが、神の調和の中で本来の輝きを取り戻し、真の人間として生きる者とされることにほかなりません。私たちがここで心に留めるべき大切な真理があります。それは、ペンテコステにおいて聖霊なる神が弟子たちに「宣教の力を与え、教会を生み出された」という偉大な外的な働きよりも前に、まず聖霊なる神が「弟子たちの内に入って住んでくださった(聖霊の内住)」ということです。聖霊は彼らを内側から霊的に新しく生まれさせ、神と親しく交わり、神と共に歩む者へと造り変えられました。教会の誕生も宣教の働きも、この「内なる命の刷新」という泉から溢れ出てきた結果なのです。そしてこの働きは、二千年前の弟子たちだけのものではありません。今日も変わりなく、聖霊なる神は私たちを神殿としてその内に住み、私たちと共に歩んでくださっています。聖霊はいつでも、私たちの目を主イエス・キリストへと向かわせ、主を礼拝する至上の喜びを与え、今日も私たちを霊的に生かし続けておられるのです。
“あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を与える。…わたしの霊をあなたがたのうちに授けて、わたしの掟に従って歩み、わたしの定めを守り行うようにする。”エゼキエル36:26-
“イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに言います。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」…肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。” ヨハネ3:3-
② 救い主イエス・キリストを証しする聖霊なる神
このペンテコステの出来事を目の当たりにした人々の反応は、『使徒の働き』2章5節から8節に記されている通りです。当時エルサレムには、天下のあらゆる国から集まった、敬虔なユダヤ人たちが滞在していました。当時、ユダヤ人は地中海世界の広範囲に散らばって暮らしていました。具体的には、9節以降に様々な国名や地域が登場しますが、この人たちは、いわゆる散らされた「ディアスポラ」のユダヤ人たちです。彼らはそれぞれの国や地域で生まれ、その文化の中で育ったため、話す言葉もヘブル語(あるいはアラム語)より、当時の地中海世界の公用語であった「コイネー・ギリシア語」や、各地の現地語を主に日常語として使用していました。それでも、彼らは遠く離れた地にあっても、三大祭りの季節になると、巡礼者としてエルサレムに礼拝へと集まってきたのです。
そんな彼らの反応は、「驚きあきれ(6節)」、「驚き怪しんで(7節)」、そして「驚き惑って(12節)」というものでした。この驚きの原因は、激しい風の響きや炎のような舌の現象もさることながら、何よりも「ガリラヤ人である弟子たちが、彼らの生まれ故郷のことば(母国語)で語り出したこと」にありました。つまり彼らは、ペンテコステの日に、世界各地の言語で神の大いなるみわざが語られ、それを自分たちの耳で聞いたことに、魂を揺さぶられるほどの衝撃を受けたのです。その場にいたのは、パルティア、メディア、エラム、メソポタミア、ユダヤ、カッパドキア、ポントとアジア、フルギヤとパンフィリア、エジプト、クレネに近いリビヤ地方の人々、またローマからの滞在者たちであり、その中にはユダヤ教への改宗者たちも含まれていました。ここには、東方の内陸世界から地中海沿岸の海洋世界に至るまで、まさに当時の「世界の縮図」とも言うべき人々が集められていたことが分かります。ルカはこの地名の列挙を通して、福音が特定の民族や地域に限定されるものではなく、すべての民に向けられた神の救いであることを、すでに象徴的に描き出しているのです。
聖書学者たちが指摘するように、ルカがここで挙げている諸国や地域のリストは、単なる地理的説明ではありません。そこには、創世記10章に記されているセム・ハム・ヤペテの子孫、すなわち「ノアの洪水後の民族表」を背景とした神学的意図が込められていると考えられています。創世記10章では、洪水後の人類が全地に広がっていく様子が描かれます。しかし、その直後の創世記11章「バベルの塔」では、人間が神に逆らい、自らの名を上げようとした結果、神によって言葉が混乱させられ、人類は全地に散らされました。そこでは、罪によって「ことば」が分断の象徴となり、人間同士の交わりが断ち切られてしまったのです。ところがペンテコステにおいて、聖霊なる神は、まさにその分断された諸民族のただ中に再び働かれました。重要なのは、言語の違いそのものが取り除かれたのではなく、異なる言語のまま、各々が「神の大いなるみわざ」(福音)を理解できたという点です。つまり聖霊は、民族や文化の違いを消し去るのではなく、それらを超えて福音による一致を生み出されたのです。これは、キリストにあって諸民族が一つの民として招かれるという、新しい神の民の誕生を示しています。ゆえに、この出来事は単なる一時的な奇跡体験ではありませんでした。それは、主イエスが語られた「あなたがたは、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります」(使徒1章8節)という世界宣教のビジョンが、この場において凝縮された形で現れ始めていたことを示しています。ペンテコステは、教会の誕生日であると同時に、諸民族に向けた神の救済計画が、聖霊によって力強く動き出した記念すべき日でもあったのです。
今日、遠く離れた極東の地である私たち日本にまで福音が及んでいるのも、このペンテコステの日に示された聖霊の宣教ビジョンが、二千年の歴史を通じて実を結んだ結果にほかなりません。私たちが今、キリストを信じているのは、決して偶然ではありません。たまたま誰かが日本にキリストを伝えたからではなく、神の壮大な救いの計画によってもたらされたものです。ペンテコステの日から始まった宣教の歴史の中で、教会は様々な迫害や困難の道のりを通ってきましたが、「地の果てにまで、すべての人々に福音を伝えなければならない」という聖霊のビジョンを受け取った人々が、次々と世界中へ出かけて行ったからこそ、日本にも福音が届けられたのです。かつて日本にやってきた宣教師たちも、自分の母国での宣教活動をすべて終え、もうやることがなくなったから日本を伝道先に選んだわけではありません。彼らの母国でも、まだまだ福音を必要とする人々や課題が山積みであったにもかかわらず、彼らは聖霊に駆り立てられ、その主権的なビジョンに従って、次なる「地の果て」を目指して福音を携えて旅立ちました。その尊い自己犠牲と従順の連鎖によって、私たちのところにも福音が伝えられたのです。
私たちが生きる現代という時代は、必ずしもキリスト教や宣教活動が歓迎され、順調に進んでいく時代ではないかもしれません。むしろ、世の世俗化や様々な障壁によって、宣教活動が極めて困難な時代と言えるでしょう。しかし、私たちが今、真に意識しなければならないのは、「自分たちの都合の良い方法でどう伝えるか」ということではありません。あのエルサレムから始まった福音宣教のバトンを、未だ「地の果て」に取り残されている人々、そして今なお自国の言葉で聖書を読むことすらできない「聖書未翻訳言語の民」を含むすべての人々に、どのように繋いでいくかという責任なのです。聖霊は今も、私たちにその使命を語りかけておられます。私たちは、自分たちが受け取った圧倒的な恵みを決して自分たちだけのものとして留めておくことなく、聖霊の導きと助けをいただきながら、この福音宣教の偉大な使命を、私たちの世代において全うしていくことが大切なのです。
“彼らは驚き、不思議に思って言った。「見なさい。話しているこの人たちはみな、ガリラヤの人ではないか。それなのに、私たちそれぞれが生まれた国のことばで話を聞くとは、いったいどうしたことか。私たちは、パルティア人、メディア人…” 7-
“聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります。” 使徒1:8
③ 一人ひとりそしてすべての人に臨む聖霊なる神
このペンテコステの日に臨まれた聖霊は、私たちを霊的に新しく生かし、イエス・キリストの証人として福音宣教へと押し出し、さらには「一人ひとり」から「すべての人」へと及んでいく聖霊なる神であることを、私たちは深く覚えたいと思います。
このペンテコステの日には、激しい風の響きや炎のような舌など、目に見え、耳に聞こえる形で超自然的な出来事が起こりました。しかし、私たちが決して見逃してはならない最も重要な現象(徴し)は、聖霊なる神がそこにいた「一人ひとりの上に」とどまられたということです(3節)。なぜ、聖霊はこのような目に見える「炎のような舌」という形をとって現れたのでしょうか。それは、聖霊なる神がそこに集う人々全体に漠然と臨んだのではなく、「一人ひとりの上」に、人格的に臨まれたことをはっきりと視覚的に教えるためです。これこそが、新約時代の決定的な特徴です。旧約の時代において、神の霊は特定の部族や、王、預言者、祭司といった選ばれた特別な指導者たちに対して、特定の使命を果たすために一時的に臨むものでした。しかし、ここに「一人ひとりの上に聖霊がとどまり、皆が聖霊に満たされ、他国の言葉で話し始めた」とある通り、新約の聖霊は信じる者すべてに等しく注がれます。その後のペテロの大説教(17節)でも、これが預言者ヨエルによって語られた約束の成就であることが宣言されています。「終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。あなたがたの息子や娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ」(ヨエル書2章28〜29節 / 使徒2章17〜18節)ここで預言されているように、もはや選ばれた血筋や階級、性別や年齢、社会的な身分は関係ありません。主を信じるすべての従順な者に、もれなく、一人ひとりに聖霊なる神が臨み、内住してくださる。これこそが、ペンテコステによって始まった「新しい聖霊の時代」の大いなる特徴なのです。この真理は、のちに宗教改革の時代にも再び力強く再発見され、確認されたことでした。それまで一部の聖職者だけが神の代理人であるとされていたのに対し、ルターをはじめとする改革者たちは、聖霊を注がれたすべてのキリスト者が神の前に等しく祭司であるという「万人祭司」の信仰を聖書から説き起こしました。私たちは今、この恵みの時代に生きています。聖霊なる神は、私たちをひとまとめの群衆としてではなく、一人の固有な存在として愛し、その内に宿ってくださっています。男も女も、大人も子どもも、強者も弱者も、学問のある人もそうでない人も、すべてのキリスト者に、何一つ区別されることなく聖霊なる神は臨まれています。私たちはどこかで、キリストを信じる者たちの間に「霊的な優劣や階層」があるかのように錯覚してしまうことがありますが、決してそうではありません。「一人ひとり」という固有の存在から出発し、主を信じる「すべての人」の上に、聖霊なる神は等しく臨んで働かれるのです。
今、私たちにとって大きな問題は、私たちの内に聖霊なる神が確かに住んでおられるにもかかわらず、日々の生活の中でその事実をまったく意識せずに生きている、という点にあります。ともすれば、その存在を無視して歩んでいることさえあるかもしれません。私たちが「救われている」ということは、単に「イエス・キリストを信じたから、いつか死んだら天国に行ける」という、将来の保証だけの話ではありません。真の救いとは、イエス・キリストを信じた私たちの内に、いまや「聖霊なる神が人格的に住んでおられる」という圧倒的な現実そのものです。だからこそ、この地上でそのご臨在をどれだけ意識し、御霊に聞き従って生きているかどうかが、私たちの信仰生活において決定的に重要なのです。これは、旧約聖書がはるか昔から預言し、主イエス・キリストが自ら命を懸けて約束されたことでした。新約聖書は、私たちに向かって何度もこのように問いかけ、繰り返し教えています。
“また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。” 3-4あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まわれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないということです” コリント人への手紙第一 6章19節
私たちは、自分自身の力で生きているのではありません。天地万物を造られた神の霊が、この不完全な私たちの内に住み、ここを聖なる「神の宮」としてくださったのです。この驚くべき特権を、私たちはもう一度、強く深く思い起こし、聖霊なる神が共におられることを常に意識して歩むべきです。
聖書が言うように、私たちは傷つきやすく、脆い「土の器」にすぎないかもしれません。しかし、器の不完全さは問題ではないのです。なぜなら、かつて救い主が至高の栄光を捨てて、あの貧しい「飼い葉おけ」にお生まれになったのと同じように、聖霊なる神はあえて私たちの弱さの内にとどまり、最高の助け手となってくださったからです。聖霊は私たちに主イエス・キリストを示し、御言葉の真理を明らかにし、私たちの心を感謝と賛美へと向かわせ、神に届く祈りを与えてくださいます。これらすべてが、私たちの内なる聖霊の尊い働きであることを覚えたいと思うのです。
もし私たちが、内に住まわれる聖霊の導きに心を開かないまま賛美し、祈るなら、それは単なる人間的な努力や肉の力にすぎなくなってしまいます。私たちを真の祈りへと向かわせ、魂からの賛美を捧げさせてくださるのは、私たちの内に住まわれる聖霊なる神にほかなりません。聖霊の働きとは、何か一部の人のための特別な奇跡だけを指すのではないのです。私たちの日常の内にあって、日々の祈り、賛美、そして主の証しへと静かに、しかし力強く導いてくださることこそが、聖霊の真の働きです。だからこそ、私たちはこの聖霊なる神を常に意識し、大いに崇める必要があります。聖霊なる神は、単なる非人格的な「影響力」や「エネルギー」ではなく、豊かな感情を持たれた「人格の神」です。それゆえに、私たちの歩みによって喜ばれることもあれば、悲しまれることもあります。使徒パウロが「神の聖霊を悲しませてはいけません」と諭したように、私たちは自分の内に折々語りかけられる御霊の声を無視することによって聖霊を悲しませることも、逆に御霊に従順に従うことによって喜ばせることもできるのです。私たちは、何よりも聖霊なる神を喜ばせる者でありたいと願わされます。
私たちが互いに愛し合おうとするとき、私たちの人間的な愛には限界がありますが、そこに聖霊なる神が力を与えてくださるとき、そこには「愛の奇跡」が起こります。人間の力では到底不可能な、真の「和解と平和」をも与えてくださるでしょう。どれほど弱い者であっても、聖霊は私たちをキリストの生ける証人として豊かに用いてくださいます。自分の力ではなく、聖霊なる神が私たちの内ではたらいてくださるのです。このような、すべての信じる者が御霊によって生かされ、動かされる「聖霊の時代」の大いなる幕開けこそが、あのペンテコステの日だったのです。
“また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。” 3-4
Author: Paulsletter
