4月26日メッセージ
小平牧生牧師
「国と力と栄えは、とこしえにあなたのもの」
マタイの福音書6章9~15節
注:「後代に発見された写本」に関して、筆者が若干の補足を加えています。
「主の祈り」は、「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり。アーメン」という頌栄(しょうえい)をもって締めくくられます。しかし、この頌栄は『ルカによる福音書』には見られず、『マタイによる福音書』の最古の写本にも含まれていません。文献上、これが初めて確認されるのは、後代に発見された使徒教父による原始キリスト教の重要文書群(使徒教父文書)の一つである『ディダケー(十二使徒の教え)』の写本においてです。これらの文書は正典には収められていないものの、1世紀末から2世紀初頭にかけての教会生活を鮮明に伝える貴重な史料です。そこに頌栄が含まれているという事実は、「主の祈り」が単なる個人の私的祈祷にとどまらず、きわめて早い段階から共同体の公的礼拝において用いられていたことを示唆しています。したがって、この頌栄は単なる形式的付加ではなく、礼拝における「不可欠な完成」として理解されるのが神学的通説です。すなわち、主イエスの教え(主の祈り本体)と教会の信仰告白とが結び合わされた、祈りの必然的帰結といえるでしょう。言い換えれば、イエス・キリストから「こう祈りなさい」と祈りを託された弟子たちと原始教会は、礼拝の中でこの祈りをささげる際、ごく自然に、そして必然的にこの頌栄へと導かれていったと理解することができます。
① 祈りが神への賛美となるために
「主の祈り」を一節ずつ辿ってきました。この祈りは、「天にまします我らの父よ」という親密な呼びかけに始まり、最後は神への至高の賛美である「頌栄」をもって締めくくられます。この構成は、「主の祈り」が単なる個人の願いの羅列ではなく、祈る者の視座が「自己中心」という低い視点から「神中心」という高い視点へと転換していくことを教えています。確かに、私たちの日常を振り返ると、切実な必要や困難に直面する時、祈りの関心はどうしても「自分の願いがいかに叶えられるか」という一点に集中しがちです。そのとき、視線は神に向けられているようでいて、実際には「自らの問題の解決」のみに向けられているに過ぎないことがあります。しかし、主イエスが教えられたこの祈りをささげるとき、私たちは一つの大きな事実に気づかされます。それは、私たちが願う以前に、神が日ごとの糧を与え、キリストの十字架において負い目を赦し、絶えず悪の誘惑から守り続けてくださっているという「神の恵み」です。
祈りの結びにある「国と力と栄光とは、限りなく汝のものなればなり」という告白は、単なる形式的な締めくくりではありません。それは、この世界の全主権が神の御手にあることを認め、私たちの人生がその大いなる御手の中に包まれていることを確信する信仰の到達点です。祈りを通して、私たちの視線が「自分の欠乏」から「神の満たし」へと引き上げられるとき、そこには主への真実な賛美が湧き上がり、状況を超えた深い平安が与えられるのです。
「主の祈り」を締めくくる「頌栄」の言葉は、歴代誌上29章11節にあるダビデの祈りと極めて高い親和性を持っています。これはダビデが全会衆の前で、生涯の終わりにささげた信仰の告白です。彼は息子ソロモンへの王位継承と神殿建設という大きな使命を託すにあたり、すべての成し遂げられたことが自分の力によるのではなく、「神の圧倒的な主権」によるものであることを公に認めました。ダビデは、音楽と詩を愛し、神を賛美する豊かな賜物を与えられた人物でした。しかし聖書は、彼の輝かしい功績だけでなく、その深刻な罪をも隠すことなく記しています。彼は戦いのただ中、また権力の頂点にあって、部下の妻を奪うという姦淫と、その結果としての殺人という重大な罪に陥りました。ここで重要な神学的視点は、ダビデが「速やかに悔い改める人」であったという点です。預言者ナタンにより罪を指摘されたとき、彼は王としての立場やプライドに固執することなく、自らの罪を認め、深く悲しみ、神の前にへりくだりました。その悔い改めは単なる後悔ではなく、神との関係の回復を求める真実な応答でした。神がダビデを「わたしの心にかなう者」と呼ばれたのは、彼が罪を犯さない無垢な人間だったからではありません。むしろ、自らの弱さと罪深さを認め、絶えず神の憐れみに立ち返る謙遜さを持っていた点に、その本質があります。
このダビデの祈りは、単なる修辞的に優れた詩ではありません。それは、自らの罪と失敗、そして神による赦しと回復を実際に経験した者がたどり着いた真実の告白です。同様に、イエスから祈りを教えられた弟子たちもまた、その後の歩みの中で「主の祈り」を単なる形式的な祈りではなく、神への賛美と信頼の告白へと深めていったと考えられます。教会が頌栄をもって祈りを締めくくるようになったのは、その信仰の成熟の表れとも言えるでしょう。それゆえ私たちもまた、日々の祈りを自分の願いだけで終わらせるのではなく、最終的にすべてを神に委ね、その栄光をたたえる「頌栄」へと導かれていきたいと願います。そしてダビデがそうであったように、私たちもまた、自らの功績ではなく、神の恵みに対する深い感謝と賛美によって満たされるものでありたいのです。
“ダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った。「私たちの父イスラエルの神、主よ。あなたがとこしえからとこしえまで、ほめたたえられますように。主よ、偉大さ、力、輝き、栄光、威厳は、あなたのものです。天にあるものも地にあるものもすべて。主よ、王国もあなたのものです。あなたは、すべてのものの上に、かしらとしてあがめられるべき方です。富と誉れは御前から出ます。あなたはすべてのものを支配しておられます。あなたの御手には勢いと力があり、あなたの御手によって、すべてのものが偉大にされ、力づけられるのです。私たちの神よ。今、私たちはあなたに感謝し、あなたの栄えに満ちた御名をほめたたえます。…”1歴代誌29:10-
② 祈りが完全に成就する時を待ちつつ
「主の祈り」は、いくつかの讃美歌としても歌い継がれてきました。私たちが慣れ親しんでいる讃美歌においても、この頌栄の部分は、私たちの心を高め、神へと向けさせる重要な言葉となっています。「国」とは神の支配(主権)を意味し、「力」とは神の国を打ち立て、それを保ち治める神の全能を指します。そして「栄え」とは、神にふさわしい誉れと栄光を表しています。すなわち、「国と力と栄え」を完全に備えておられる神こそが、まことに賛美に値するお方であり、私たちは祈りの最後において、そのすべてが神に属することを告白し、神に委ねるのです。祈る私たちは、全世界を治めておられる神に対して、「日ごとの糧をお与えください」といった、小さな願いしかささげることのできない存在です。しかし、その小さな祈りであっても、「国と力と栄え」のすべてを持っておられる神に確かに聞かれているのです。その意味で、私たちの祈りは単に個々の願いが聞き入れられることにとどまらず、私たちの生も死も含めたすべてを受け止めてくださる神に対する、全き信頼の表明なのです。祈りの一つひとつの言葉以上に、「誰に祈っているのか」という確かさを改めて確認させるもの、それがこの最後の頌栄の言葉です。
私たちが生きているこの世界では、「国と力と栄え」を自らのものとしようとし、そのために支配の領域を広げようとして、争いや戦争が絶えず繰り広げられています。しかしそれは、国家や社会のレベルに限らず、私たち一人ひとりの内面においても同様に起こっていることです。私たちは、自分の領域が侵されそうになるとそれを守ろうとし、また自分は弱いと言いながらも、どこかで自分の力に頼ろうとします。「栄光」という言葉は自分には縁遠いもののように感じるかもしれませんが、その一方で、人から評価されないと失望し、心を落としてしまうのです。そのような私たちが自分自身を真に守る道は、神に対して「国と力と栄え」は誰のものでもなく、ただとこしえに神に属するものであると祈り告白することにあります。この「頌栄」は、私たちの自己中心的な思いから解き放ち、すべてを神に委ねて生きる自由へと導く祈りなのです。
“天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。”6:9-10
ヨハネの黙示録の著者である使徒ヨハネは、使徒の中で最も長く生き、主の証人として「生かされた」人物です。本書が執筆された紀元1世紀末、教会はドミティアヌス帝によるローマ帝国の激しい迫害の中にありました。かつての同労者たちが次々と殉教の死を遂げる中、ヨハネ自身も福音のゆえにエーゲ海の孤島パトモス島へ流刑とされていました。地上の状況は、一見すると悪の勢力が勝利し、神の民が敗北しているかのような絶望に満ちていました。しかし、そのような状況にあって、ヨハネは聖霊に導かれ、開かれた天へと引き上げられます。彼が見たのは、地上の苦難をはるかに凌駕する「天における神の統治と礼拝」の壮大な幻でした。この黙示録の光景は、主イエスが教えられた「主の祈り」の完全な成就であると理解できます。「御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」という祈りが、幻の中で現実のものとして示されているのです。御座にいるのは、「屠られた姿のままの子羊」(イエス・キリスト)です。これは、十字架の死という一見敗北したかのように見える出来事が、サタンや罪の勢力に対する決定的な勝利であったという、逆説的な神の救済計画の完成を意味しています。「屠られた子羊は、力、富、知恵、勢い、誉れ、栄光、および賛美を受けるにふさわしい方である」という宣言は、地上の皇帝崇拝を真っ向から否定し、真の支配者が誰であるかを明らかにする告白でもあります。天上の礼拝のクライマックスにおいて、キリストの栄光と全被造物の賛美が頂点に達します。ヨハネがこの幻を記録し、アジアの七つの教会に書き送った目的は、単なる未来予測ではありません。それは、迫害のただ中で死の影に脅かされていたキリスト者たちに、「キリストはすでに勝利された方である」という究極の真理を示すためでした。私たちの救いは、この勝利の子羊の御手に完全に委ねられています。黙示録は、キリスト者たちが現実の苦難に圧倒されることなく、神の救いの完成を信仰と忍耐をもって待ち望むように力強く励ます、「希望の書」なのです。
私たちは21世紀という、まさに「終末」と呼ぶにふさわしい激動の時代に生かされています。ヨハネの黙示録に記された預言的象徴は、現代の凄惨な出来事と重なり、しばしば人々の不安を煽り、心を騒がせます。しかし、私たちがまず理解すべきは、黙示録が描く「苦難」は歴史の中で繰り返されてきた現実であり、特定の時代を恐怖に陥れるためのものではないということです。世俗的な終末論は、世界の終わりを破滅や空無への帰結と捉えます。しかし、聖書が提示する終末論は、神による創造の「完成論」です。黙示録の記述は、混沌とした世界を神が見捨てられたのではなく、むしろ神が歴史の主権者として、すべてを新しい次元へと導いておられることを示しています。神がヨハネに幻を見せられた目的は、絶望の強調ではなく、「神の勝利」という揺るぎない結論を提示し、私たちに生きる希望を与えることにあります。神が生きて働いておられることが見えにくい現代だからこそ、私たちは御言葉が示す「完成のビジョン」を注視する必要があります。どんなに困難な状況にあっても、最終的には神が勝利を収め、「新しい天と新しい地」が実現します。私たちはそこを人生のゴールとし、希望をもって歩むのです。かつての聖徒たちが「主の祈り」を神への頌栄(賛美)で締めくくったように、私たちもまた、日々の祈りを勝利の告白で結びます。「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」このフレーズは、英語では “…and the glory are yours now and for ever.” と訳されるように、神の統治が「将来のいつか」始まるのではなく、「今、この瞬間も」継続していることを宣言しています。私たちが信じ待ち望んでいるのは、単なる遠い未来の出来事ではありません。神の救いの御業は、キリストの十字架と復活によって「すでに」開始されており、終末に向かって「いまだ」完成へと進められているプロセスなのです。私たちは終末という不安定な時代に翻弄される必要はありません。むしろ、今ここにある神の支配(神の国)を確信し、将来完成される栄光を「今」の力として生きるのです。
“また私は見た。そして御座と生き物と長老たちの周りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の数万倍、千の数千倍であった。彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」すると、四つの生き物は「アーメン」と言い、長老たちはひれ伏して礼拝した。”黙示録5:11-
③ 神の真実(アーメン)に信頼して
「アーメン」とは、単なる祈りの結びの言葉ではありません。「アーメン」とは、「まことに」「真実に」という意味です。イエス・キリストを通して神のすべての約束が成就するのですから、本来「アーメン」を語ることができるのはイエス・キリストだけであると言えます。私たちが祈りや賛美の最後に「アーメン」と唱和するのは、その祈りが真心からのものであることを表し、「そのとおりです」と同意を示すためです。しかし、さらに大切なことは、「アーメン」と語るとき、それは私たちの祈りにどれほど思いがこもっているか以上に、「神は真実である」という告白であるということです。聖書には、「アーメン」が祈りや賛美の結びとして用いられている箇所や、共同体が同意をもって応答する場面が数多く記されています。祈りの確かさは、私たちの信仰の熱心さや深さ、あるいは言葉の巧みさにあるのではありません。その確かさは、神ご自身にあるのです。
私たちは「イエス・キリストの名によって」と祈ります。それは、私たちが祈ることのできる唯一の根拠が「イエス・キリストの名」にあることを意味しています。すなわち、イエス・キリストこそが神と私たちの唯一の仲保者であり、神と私たちとの間に立って和解をもたらし、とりなしてくださるお方だからです。この「イエス・キリストの名によって」祈るとき、私たちの祈りは神に届けられます。私たちの祈りは、ときに自己中心的で、間違った願いを求めることもあるでしょう。しかし、それでもなお、イエス・キリストの名によって祈るとき、私たちの祈りは神に受け入れられるのです。「神の御心が成されますように」、それこそが祈りの答えであると、私たちは告白しつつ「主の祈り」を祈ることができるのです。
私たちの祈りが、さらに神に近づく豊かなものとされることを願います。
“国と力と栄えとは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。”
Author: Paulsletter
