10月12日メッセージ
小平牧生牧師
「ひたすら愛に生きる」
(キリストの弟子の生き方④)
マタイの福音書5章27~30節
律法について論じるとき、私たちは、その解釈や意味よりも、まず「それを実際に守ることができるかどうか」という点に目が向いてしまいます。特に、今朝のテーマである「姦淫してはならない」に関しては、なおさらそのように感じます。最初から「守るのは難しいだろう」と思ってしまうのです。それほど、「姦淫してはならない」などの律法を忠実に守ることは、私たちにとって困難な課題だと感じるのです。
律法について、私は二つのことが言えると思います。第一に、人は皆、それぞれ自分なりの律法を持っているということです。すなわち、自分なりの規則や規範を持って生きているということです。「自分にはそのようなものはない」と言う人ほど、かえって厄介です。そうした人は、他人の言葉に耳を貸さず、自分でも気づかないうちに、自らの内にある独自の律法に固執していることが少なくありません。言い換えれば、人は皆、何らかの律法を必要としており、それに従って生きているのです。第二に、これは一見、第一の点と矛盾するように思えるかもしれませんが、現代は「律法のない時代」とも言われます。自由や多様性は確かに尊い価値ですが、その一方で、社会的な規則や道徳的規範としての律法が軽視される傾向が強まっているのも事実です。たとえば、「姦淫してはならない」「殺してはならない」「盗んではならない」といった基本的な戒めでさえ、状況や個人の判断によって相対化され、もはや絶対的な基準として機能しなくなっている場面が見受けられます。その結果として、戦争は絶えず、犯罪も根絶されることがありません。私たちが生きる現代は、まさに「律法のない時代」と言えるでしょう。つまり、「人には律法が必要である」ということと、「現代は律法のない時代である」ということは、表面的には矛盾しているようでいて、実際には深く結びついています。神の戒めが与えられていても、人々は神の御心よりも、自分の感情や状況を基準にして、「できるか・できないか」「したいか・したくないか」で判断してしまいます。そしてそれは、個人レベルにとどまらず、国家レベルにおいても同様です。その結果として、社会にはさまざまな混乱や問題が生じているのです。
私はこれまで、「十戒」や「山上の説教」をテーマに取り上げて語る機会が多くありました。むしろ、意識的に、積極的に取り上げるようにしています。なぜなら、このような時代にあってこそ、神が与えてくださった律法の本来の目的、すなわち、私たちが神に造られた者として、真に幸いに生きるための道しるべとしての意味を、しっかりと受け止めることが何よりも大切だと感じているからです。イエス・キリストは、「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだ、と思ってはなりません。廃棄するためではなく成就するために来たのです」と述べられた言葉の本旨は、モーセを通して与えられた律法や預言者の教えを、時代遅れのものとして破棄したり、軽視したりするために来たのではなく、むしろ、それらが本来目指していた真の精神と目的、すなわち、神の愛と御心を完全に実現するために来られたのであり、そのことを改めてここで語られているのです。私たちは、そのことをしっかりと受け止めたいと思うのです。
今朝の聖書箇所では、「姦淫してはならない」という律法が引用されていいます。
以下のボックス内の記述は、筆者の補足部分です。
「姦淫する」という動詞は、聖書において主に二つの異なるヘブライ語に由来する語が用いられています。一つは זָנָה(zānāh)、もう一つは נָאַף(nā’ap)です。まず、zānāh は本来「淫行をする」「不貞を働く」という意味を持ち、性的な不品行を広く含む語です。未婚者による私通や売春的行為、さらには道徳的・霊的な不貞全般を指す場合にも用いられます。特に旧約聖書においては、イスラエルが他の神々を拝んだり、異邦の宗教的習慣をヤハウェ礼拝に取り入れたりする行為が「霊的な姦淫」として非難される文脈で頻繁に登場します。たとえば、イスラエルの偶像礼拝が妻の不貞になぞらえられており(ホセア2章・3章)、また、イスラエルとユダが偶像を拝み、外国と契約を結ぶ行為が「姦淫」として描かれています(エレミヤ書3章・エゼキエル書16章・23章)。これらの比喩は、ヤハウェとの契約に対する不忠を「夫婦関係の裏切り」に重ねるものであり、zānāh は信仰上の不貞、すなわち霊的姦淫を意味する重要な語となっています。一方、nā’ap はより限定的な意味を持ち、既婚者が配偶者以外と性的関係を持つ有夫姦(姦通)を指します。十戒の第七戒「姦淫してはならない」(出エジプト記20章14節・申命記5章18節)で用いられているのもこの nā’ap です。この戒めは婚姻関係を守るための基本的な倫理規定であり、イスラエル社会において姦通は重罪とされ、刑罰の対象となっていました。新約聖書においては、言語がヘブライ語からギリシア語に変わりますが、同様の区別が見られます。「姦淫」を意味するギリシア語の動詞には、既婚者の姦通を指すものと、性的な罪全般を表すものがあり、後者には未婚者の不品行や売春、偶像礼拝と結びついた性的乱行なども含まれます。このように、「姦淫する」という語は、旧約においては zānāh(霊的・性的な不貞全般)と nā’ap(婚姻関係の破壊)という二つの側面を持ち、新約においても同様の意味合いで用いられています。いずれの場合も、「姦淫」は神との契約、あるいは人間の婚姻契約に対する重大な裏切りとして、極めて深刻な罪とされているのです。
「姦淫する」という言葉は、今ではほとんど使われなくなり、私たちには馴染みの薄い言葉となりました。かつて戦前の日本には「姦通罪」という犯罪が存在していましたが、その構成要件は男性にとって都合のよいものであったため、戦後の刑法改正によって刑事罰としての姦通罪は廃止されました。近年では、同じような意味合いで「不倫」という言葉が一般的に使われるようになっています。このように性的な問題が横行している社会においては、私たちキリスト者、特に若い世代にとって、生きづらく、悩ましい課題となっているかもしれません。そのような状況の中で、「姦淫してはならない」という律法を私たちはどのように受け止めるべきなのでしょうか。特に、「〜してはならない」という戒めに対しては、「どこまでなら許されるのか」という考え方に陥ってしまいがちです。何が良くて、何がいけないのかという「線引き」の問題に関心が向いてしまい、神が与えられたこの律法の本来の意味や目的に目を向けなくなってしまうことがあります。そこで今朝は、この戒めが意味する真の意義と、神がこの律法を通して示そうとしておられる目的について、共に考えていきたいと思います。
① お互いの人格を尊ぶために
「姦淫」という言葉は、既婚者が配偶者以外と性的関係を持つことを意味します。ですので、まずは聖書が示している結婚の意味について確認しておきたいと思います。
創世記1章の最後、天地創造の第六日の出来事について、聖書は次のように記しています。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった。」ところが、続く創世記2章に入ると、神はアダム一人が造られた状況について、「人が独りでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう」と言われました。ここで神によって造られたのが、アダムのあばら骨から取られた、妻となるエバです。神がこの状況を「良くない」とされたのは、人間が本来「神のかたち」として、単独で存在するのではなく、人格的な交わりの中で生きる存在として創造されたからです。人間は肉体と精神を持ちますが、何よりも重要なのは、神の息、すなわち「いのちの息」としての神の霊が吹き込まれた存在であるということです。神から離れた状態は霊的な死とされますが、この霊的な命の回復は、後にイエス・キリストによって可能となりました。つまり、霊・肉体・精神が統合的に結びついた存在こそが、聖書が示す人間(人格)なのです。人間が人格的な交わりの中で生きるように造られたということは、神との関係だけでなく、他の人間との関係においても、互いに「ふさわしい助け手」として相補い、支え合うことが求められていることを意味します。
この後、聖書は結婚の原則を次のように示します。「それゆえ、男はその父と母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となる。」結婚とは、神によって定められた「契約的な一体関係」であり、そこには肉体的な一体だけでなく、霊的・精神的な一致も含まれる、神聖な結びつきがあります。つまり、結婚とは人間の文化や制度によるものではなく、創造の秩序に根ざした、神が定められた深い意味を持つ結びつきであることを、聖書は明確に示しているのです。前述のとおり、結婚は神によって定められた「契約的な一体関係」であり、霊・肉体・精神が統合的に結びついた、人格的な交わりの最高の形です。これに対して、「姦淫(不倫)」という行為は、神が定められたこの聖なる関係を破壊するものです。それは、霊・肉体・精神が一体となった関係の中にありながら、その一致を裏切り、霊的・精神的なつながりから肉体的な行為だけを切り離すことを意味します。その結果、結婚の契約は破られ、人間の尊厳が深く損なわれてしまうのです。
有名人の不倫報道の中で、「自分の愛に正直に生きたかった」というコメントを耳にすることがあります。しかし、ここで言われている「正直」とは、一つの婚姻関係を破壊し、周囲に怒りや悲しみを与えながら、自分自身の感情や欲望を満たそうとするものであり、実際には「自分の律法」に正直であるにすぎません。それは、聖書が示す人格的な交わりの姿ではないのです。ですから、「姦淫してはならない」という律法は、単に厳しく堅苦しい戒めではなく、神が人間をどれほど尊い存在として見ておられるかを示すものです。つまり、「姦淫してはならない」という戒めには、人間が「神のかたち」として与えられた人格的尊厳を損なうようなことをしてはならない、という深い意味が込められているのです。つまり、この戒めは、人が自分自身や配偶者、家族を、神によって尊く造られた存在として尊重し、創造の秩序である結婚の契約を守るための、愛に基づいた神の保護なのです。
“また、神である主は言われた。「人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう。」…それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。そのとき、人とその妻はふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった。”創世記2:18-24
② 互いの愛に生きるために
「姦淫してはならない」という律法は、私たちを不自由にするためのものではなく、「神のかたち」として造られた私たちが、尊く豊かに生きるための道しるべです。マタイによる福音書5章27節には、「情欲を抱いて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯した」と記されています。この御言葉に、多くの人は非現実的なもののように感じ、戸惑うことがあるでしょう。しかし、誤解してはいけないのは、イエスはここで、私たちが異性に対して情欲を抱くことそのものを否定しているのではないという点です。性的な欲求は、神が創造の初めから人間に与えられた大切な賜物です。「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と言われた通り、アダムとエバの間に性的な欲求があったからこそ、二人の間に子が授かり、子孫は繁栄していったのです。しかし、人間が神から離れて堕落した後、結婚していない相手に性欲を向けて満たす行為が罪として生まれました。ここで戒められている「姦淫」とは、婚姻関係にない者との性的関係を指します。そして、マタイ5章27節の「だれでも」という言葉は、既婚者に当てはまるものです。情欲を抱く対象は、自分の妻以外の女性であることを示しています。神から与えられた性的欲求そのものは、夫と妻の間での喜びや楽しみとして存在し、否定されるものではありません。問題となるのは、妻以外の女性に情欲を抱くことであり、たとえ実際に肉体関係がなくても、心の中で姦淫を犯したといえるのです。つまり、自分の妻以外に情欲を抱くことは、自分の欲望のために他者を対象化する行為であり、人間の人格的尊厳を傷つけるものであることを、私たちは知る必要があります。ですから、イエスの教えは、「姦淫してはならない」という律法の歴史的背景を理解するだけでなく、その解釈を自分の欲望を正当化するために捻じ曲げることの愚かさに目を向けさせ、神の真の愛に生きる道へと導くためのものです。私たちは、情欲に負けてしまう自分を素直に認め、イエスが語ろうとしている真意に耳を傾けるべきです。戒めの解釈を歪め、自分を正当化して不倫に走ったとしても、それは「愛」と称しながら相手を自分の欲望の道具にしているに過ぎず、真の愛からは程遠い行為なのです。私たちは、神の真の愛を与えられており、その愛を求めて生きる人生を与えられていることを、共に心に刻みたいのです。
“『姦淫してはならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。情欲を抱いて女を見る者はだれでも、心の中ですでに姦淫を犯したのです。”マタイ5:27-28
“「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。隣人のものを欲してはならない」という戒め、またほかのどんな戒めであっても、それらは、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」ということばに要約されるからです。”ローマ13:9
③ 大切なものを大切にするために
イエス・キリストは、マタイによる福音書5章29〜30節において、極めて厳しくも愛に満ちた比喩を用い、罪の誘惑を根源から断ち切る必要性を強調されました。ここで「右の目」は主に「見る」ことを象徴しており、視覚を通して情欲をかき立てる誘惑、またそれを引き起こす認識や知覚の働きを表しています。一方、「右の手」は「行う」ことを象徴し、罪を実際の行為へと移す行動の源を示しています。聖書において「右側」は力や重要性を象徴する最も価値ある部分とされることが多く(例:神の右の座)、この比喩には、最も大切なものは何かという重大な意味が込められています。つまり、イエスがここで求めておられるのは、文字通り自分の体を傷つけることではありません。むしろ、罪の機会や動機となるものがあるなら、それを徹底的に断ち切るという、内面的な決断と行動の厳粛さを求めておられるのです。イエスがこのような徹底的な決断を要求されるのは、永遠の救いのためです。たとえ身体の一部が滅びたとしても、全身がゲヘナ(地獄)に投げ込まれるよりは、はるかに益があると教えられています。これは、地上におけるいかなる犠牲や損失(目や手という身体の最も重要な部分を失うこと)よりも、魂の永遠の救いがはるかに重要であるという、究極的な優先順位を示すものです。目や手は、罪の機会や動機を生み出し、人を道徳的な破滅へと導き、最終的には信仰から離れさせる原因となりえます。だからこそ、イエスはその根源を断ち切るよう、厳しく教えられたのです。
“もし右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに投げ込まれないほうがよいのです。もし右の手があなたをつまずかせるなら、切って捨てなさい。からだの一部を失っても、全身がゲヘナに落ちないほうがよいのです。”マタイ5:29-30
パウロは、律法について言及するときに、「律法は愛によって全うされる」と語っています。これは、特に『ローマ人への手紙』において、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほか、どんな戒めがあっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉の中に要約されています。同様に、『ガラテヤ人への手紙』では、律法からの解放とキリスト者の自由について語っています。
私はクリスチャンホームに生まれ育ちましたが、若いころはキリスト者としての生き方が非常に不自由に感じられました。特に異性に対する関心が強まる年頃には、それが罪なのか恥ずかしいことなのかもわからないまま、そのような思いを隠して生きていたのです。「あれをしてはいけない、これもしてはいけない」と律法に縛られているような窮屈さを感じ、自分自身の欲望に従って自由に生きたいと思っていました。しかし、学生時代、家庭から解放されることを求めて東京に出たものの、実際には罪に負ける日々が続き、本当の自由とは程遠い生活を送っていました。そんな中で、十字架にあらわされた神の愛を知ったとき、私の価値観は根本から変わったのです。まさに、これは、パウロが語っていたことと完全に一致しています。私は、律法という重荷から解放され、自由へと召された者であることを知りました。しかし、その自由は肉的な欲望を満たすためのものではなく、愛によって互いに仕え合うために与えられたものです。自由とは、仕えることも、仕えないことも選べる状態を意味します。清く生きることも、そうでない生き方を選ぶことも可能です。けれども、私たちが自由に召されたということは、律法の束縛や罪の支配からの解放を、好き勝手に生きることを許すためではなく、愛と仕えをもって生きる使命として神が与えてくださったということなのです。
私のビジョンは、ちょっとカッコつけた言い方をすれば、一人の人を生涯かけて愛するということです。それは、今日のテーマに関連することであり、すべての人にとって大切なテーマです。私たちは、「あれをしてはいけない」「これをしてはいけない」という律法の形で教え込まれ、それが染みついていました。しかし、実は、神から与えられた愛と自由によって、「してはいけない」といった戒めよりも、遥かに超越した愛し、仕えるという生き方ができるということなのであり、これを味わい、証していくことが必要であると思うのです。私たちに与えられた自由というのは、自分の好き勝手にしてもよいという、「肉の働く機会」としての欲望のままに生きる自由ではありません。パウロが教えたように、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えることが大切なのです。この自由は、神から愛された者として、隣人を自分自身のように愛する自由です。キリスト者の成熟というのは、そのような愛の経験をしながら生きることなのです。
残念ながら、一般の社会では、結婚生活が、年を取れば取るほど成熟していくかというとそうではなく、むしろ、成熟する例はまれなのです。年を経ても本当に素晴らしい結婚生活を送っている夫婦は少ないのが現実です。子育てが終わると結婚生活にも終止符を打ったような生き方をする人がいます。それが、本当の愛でも自由でもないのです。キリスト者は、律法を守る重荷から解放されています。私たちのなすべきことは、すべてイエス・キリストが十字架の上で成し遂げてくださったのです。私たちの生きている世界は、「姦淫くらい、不倫くらい構わないじゃないか」という価値観かもしれませんが、私たちは、神から愛されている者として、「からだを清く保ち、神に喜ばれる聖い生きた供え物として献げる」ことができるのです。私たちは、夫婦がキリストが教会を愛されたように互いに愛し合い、神の家族である教会も愛し合うことができるのです。誰からも強いられるからではなく、喜びをもって、自由をもって、互いに愛し合う自由が与えられているのです。この愛と奉仕に生きる者こそ、真にキリストにある自由を生きているのです。
“兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。”ガラテヤ5:13-14
Author: Paulsletter
