10月5日メッセージ
吉田正明執事
「アブラハムの信仰と疑い」
創世記15章5-6節
ローマ人への手紙4章1-3節
私は幼い頃から、「地獄へだけは行きたくない」と強く思っていました。そのため「永遠のいのち」に関心を抱き、中学生のときに教会へ導かれるようになりました。キリスト教信仰とは、イエス・キリストによる罪からの救いであり、その救いの条件として、罪に対する悔い改めとイエス・キリストへの信仰告白が必要であると教えられてきました。教会には集っていましたが、罪の意識が十分にないまま洗礼を受けたと記憶しています。そのため、「本当に自分は救われているのだろうか、それとも救われていないのだろうか」という疑念を抱えながら信仰生活を送っていました。私のこれまでの人生は、ある意味でずっと「救いの確かさ」の答えを求め続けてきた歩みだったといっても過言ではありません。
定年を迎え、仕事をリタイアしたタイミングで、関西聖書神学校やお茶の水聖書学院の神学コースを受講するようになりました。そのカリキュラムの中で、ある教会の牧師の証しを伺う機会がありました。その牧師は、ジョン・ウェスレーの流れを汲むホーリネス系の教会で牧会をされていた先生でした。その証しの中で、その先生は、キリスト教に自分の人生をかける決断をした当初についてこう語っておられました。自分の罪を深く自覚し、罪に苦しみ、その罪から救われたいと願ってイエス・キリストを信じる決断をしたのではなかったというのです。信仰への決断は、「自分が罪人である」という明確な自覚に基づくものではなく、「罪の赦し」という宗教的な経験についても、当時の自分には恣意的で自己中心的な思い込みにすぎないと感じていたほどでした。そのため、救いの確信がないまま、イエス・キリストを信じる決断をしたのだと、正直に振り返っておられました。つまり、その先生は、自分のキリスト者としてのアイデンティティに疑問を抱いていたのです。長年にわたって牧会を続けてこられましたが、やがてある重要な現実に気づかされたといいます。教会を訪ねて来る人々の多くは、病気や心の痛みなど、さまざまな悩みや問題意識を抱えて教会の門をたたきます。しかし、その多くは、自分が罪人であるという認識や罪に対する問題意識をもたず、目の前の問題解決だけを求めて来ているというのです。
近年では、自らの罪を認め、悔い改めを促すという従来型の福音宣教のスタイルや役割が、限界に達しているとの指摘もあります。伝統的なキリスト教国であるヨーロッパやアメリカにおいても、キリスト教信仰の衰退の一因として、「罪」や「贖罪」といった概念が、現代の人々の生活や実感から乖離していることが挙げられるという分析レポートが発表されています。こうした問題意識を背景に、私はお茶の水聖書学院の卒業論文のテーマとして、「罪と救いにおける西方教会と東方教会の違い」を取り上げることにしました。
① キリスト者としてのアイデンティティ
キリスト教における「罪」とは、刑罰法規に定められた犯罪行為を指すものではなく、単なる道徳的違反や倫理的過ちを意味するものでもありません。それは、神の聖なる基準に達していないという、人間の根源的な状態を指しています。すなわち、神との親密な関係が断絶している「霊的な死」の状態を意味するのです。聖書においては、創世記3章の「アダムとエバの堕落」や、パウロによるローマ人への手紙5章12節などが、いわゆる「原罪」問題の聖書的根拠とされています。パウロは、アダムの罪が律法以前の人類全体に影響を与えたことを示し、アダムを「律法以前の代表者」として位置づけています。そして、アダムの不従順が死と罪の広がりをもたらしたと述べることで、人類が生まれながらにして持つ罪深い状態、すなわち「原罪」について語っているのです。
「原罪」には主に二つの理解があります。その一つは、紀元2世紀末から3世紀初頭に活躍した教父テルトゥリアヌスによって神学的に整理された思想であり、後の原罪理解の基礎となるものです。彼は人間の霊魂の起源について「霊魂伝遺説」を主張しました。すなわち、「人間の魂は神によって個別に創造されるのではなく、親の魂から子の魂へと伝えられる」という考え方です。この立場によれば、魂は親から子へと受け継がれ、アダムの堕落した性質(堕落した魂や性向)も世代を通じて伝達されるとされます。こうして、原罪的状態が人類に及ぶ仕組みが提示されたのです。その後、テルトゥリアヌスの「霊魂伝遺説」はアウグスティヌスに受け継がれました。アウグスティヌスはこの説を無批判に受け入れたわけではありませんが、多くの著作において「霊魂伝遺説」を有力な説明として採用しています。同時に彼は、パウロ的な「アダムの代表性」理解も強調しました。すなわち、アダムの背信が子孫に「責任」として帰せられ、アダムの「有罪性」そのものが次世代に及ぶという考え方です。アウグスティヌスによるこの理解は西方教会に強い影響を与え、原罪論、すなわち「罪の有罪性と堕落の継承」は西方神学において定着することとなりました。
もう一つは、東方教会における原罪理解です。東方教会では、「アダムの有罪性を子が個人的に負う」とは考えず、「責任の伝達」よりも、堕落した状態、すなわち死や被造世界の腐敗の継承に重点を置いています。つまり、子はアダムの個人的な違反(有罪性)を法的に背負うわけではありませんが、アダムの堕落の結果としての死、苦しみ、被造世界の歪みは受け継ぐとされます。ここでは、「罪責」と「堕落の結果」が明確に区別されているのです。この理解に基づき、ギリシャ正教では、人間を「悪を犯しやすく、善を行いにくく、他者を傷つけやすく、与えた傷は癒しにくい。さらに、他者への猜疑心が強まり、信頼関係を築くことが難しくなる」といった霊的・道徳的傾向をもつ存在として神学的に理解しています。したがって、ギリシャ正教(東方教会)における原罪理解は、西方教会の「罪の赦し」中心の枠組みとは大きく異なります。ギリシャ正教において救いとは、単に「法廷で罪が赦される」ことではなく、「キリストとの共有・同一化(交わり)」によって実現されるものです。罪によって失われた神との交わりは、キリストの受肉によって再び可能となりました。すなわち、キリストの受肉・十字架の死・復活は、神のいのちを人間に注ぎ込むことによって、神と人間との関係を回復する出来事として理解されているのです。
いずれの立場においても、人は自力で神との関係を回復することができないという、根源的かつ絶望的な状況に直面しています。この絶望こそが、外部からの救済の必要性を痛切に認識させるのです。この外部からの救済は、イエス・キリストの十字架と復活を通して、神が人間に提供されるものです。それは、罪からの解放であり、神の裁きからの救済であり、あるいは、神との関係の完全な回復を意味します。つまり、人は自らの行いによってではなく、イエス・キリストを信じる信仰によってのみ、神の前に「義(正しい)」と認められるのです(信仰義認)。この義認こそが、キリスト者としての揺るぎない地位と新しい関係を確立する根拠となります。キリスト者とは、自らの功績や完全さによってではなく、神の恵みによって一方的に「義とされた者」「神の子とされた者」なのです。
“こういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして、すべての人が罪を犯したので、死がすべての人に広がったのと同様にー”ローマ5:12
② 疑いは信仰の敵か、それとも信仰の一部か
「信仰の父」とも呼ばれるアブラハムは、旧約聖書の創世記12章から25章にかけて登場する、救いの歴史の出発点となった人物です。彼は神を信じ、その信仰によって「義と認められた」と記されています(創世記15:6)。聖書における「義と認められる」という表現は、神との関係が罪によって断絶された状態から回復され、神に正しい者として扱われることを意味します。この「義認」は、人間の行いによるのではなく、神の約束を信じるという信仰によって与えられる、聖書における救いの核心的な教えの一つです。アブラハム以前にも、神と深い関係を持って生きた人物が登場します。エノクは「神と共に歩んだ」と記され、死を経験することなく天に移されました。ノアは「正しい人、その時代にあって完全な人」と称され、神の命令に従って箱舟を造り、家族を救い、同様に「神と共に歩んだ」と記されています。それにもかかわらず、アブラハムが特別に「信仰の父」と呼ばれるのは、彼の信仰が神との「契約」の土台となり、神の民イスラエル、そしてすべての信じる者たちの信仰の原型となったためです。新約聖書のガラテヤ人への手紙では、アブラハムこそがすべての信仰者の父であると明確に位置づけられています。アブラハムが義と認められたのは、創世記15章において、彼に子がいなかったにもかかわらず、「あなたの子孫は天の星のように数多くなる」という、常識を超えた神の約束を素直に信じたことによるものです(創世記15:6)。その後の創世記22章では、神がアブラハムに「あなたの愛するひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげなさい」と命じられます。アブラハムは、この約束の子をささげるという究極の試練に直面し、これにも従いますが、この出来事は創世記15章の後に展開されるものです。しかし、アブラハムの人生を振り返ると、「信仰の父」と呼ばれる人物でありながら、道徳的・倫理的に完全とは言えない場面も多く見受けられます。たとえば、命の危険を感じて妻サラ(サライ)を妹と偽ったことや、神の約束を待ちきれずに妻の女奴隷ハガルとの間にイシュマエルをもうけたことなどは、彼の不完全さを示しています。つまり、アブラハムの信仰には、神への疑いが混在していたのです。「信仰」とは、一言で説明するのが難しい概念ですが、ここでは「信仰」と「疑い」の関係について、改めて考察してみたいと思います。
「幸福論」で知られるアラン(フランス出身の哲学者、本名はエミール・オーギュスト・シャルティエ、1868–1951)は、独自の哲学的視点からさまざまな概念や価値観を定義しています(『アラン定義集』)。その定義集の中で、アランは「疑い」について次のように定義しています。
「疑い」とは、ある人の教え、勧告、さらに一般に真摯さにかかわる一種の懐疑である。ただ慎重であるにすぎない不信もあるが、本当の信頼は盲信ではない。本当の信頼はしばしば他人が言っていることを盲信しないことであり、疑うことによって、われわれはもっと良い判断を持つようになるのである。(アラン定義集)
アランは「疑い」について、単なる否定的な態度ではなく、相手の教えや勧め、さらにはその誠実さに対する理性的で積極的な懐疑心であると明確に定義しています。彼にとって「疑い」とは、他者の主張や誠実さを無条件に受け入れることを拒み、一度立ち止まってその内容や意図を吟味し、より確かな判断へと導くための知的な営みなのです。アランの主張によれば、「疑い」は単なる慎重さや信じない姿勢といった「真理の否定」ではなく、「真理を探究する」ための積極的な姿勢にほかなりません。言い換えれば、「疑い」は思考の「停止」ではなく、まさに「始まり」を意味するのです。さらにアランは、批判的に考えずに信じること(妄信)と「本当の信頼」とを明確に区別しています。「妄信」は一見「信仰が厚い」ように見えるかもしれませんが、彼にとって「妄信」とは思考の放棄であり、真理への不誠実な態度です。対照的に、真の「信頼」とは、相手の言葉や意図を理解し、自分の理性によって吟味したうえで納得して受け入れる、主体的で責任ある判断を伴うものだと説きます。このようにアランは、「疑い」を真理を拒絶するための態度ではなく、より確かな判断に至るための知的・道徳的プロセスとして積極的に位置づけています。彼にとって「疑い」とは、真理への誠実な愛のあらわれであり、思考を生み出す出発点なのです。
信仰という行為は、疑念との絶え間ない対話である。 (J.A.T.ロビンソン主教)
J.A.T.ロビンソン(John A.T. Robinson)主教の言葉には、信仰の本質や人間の内面に対する深い洞察が込められています。多くの人は「信仰とは疑わずに信じること」だと考えがちですが、ロビンソンはこの考えを否定します。彼の言葉は、信仰が疑念や不確かさと無縁なものではないことを示しています。信仰とは、神と人との人格的な関係に基づくものであり、その関係の中で対話が生まれます。疑念もまた、その対話の一部として受け入れられるのです。したがって、信仰とは「疑いのない確信」ではなく、「疑いを抱きつつも神を信頼する行為」なのです。
③ 成長し成熟するクリスチャンとは
アブラハムは、神から素晴らしい将来を約束されていたにもかかわらず、自らの判断で誤った行動をとりました。もちろん、その行動は神との関係を断とうとするものではなく、神の約束を成就させようとする善意からのものでした。しかし結果的に、彼は女奴隷ハガルとの間にイシュマエルをもうけ、神の計画を複雑にしてしまったのです。私たちもまた、知らず知らずのうちにアブラハムと同じ過ちを犯しているかもしれません。私たちは成長し、成熟したキリスト者になることを目指していますが、そもそも「成熟したキリスト者」とはどのような人を指すのでしょうか。地上の価値観では、自分の判断で自由に行動できる人が「成熟している」と見なされがちです。しかし、アブラハムの姿を通して見ると、それとは異なる視点が浮かび上がります。むしろ、成熟したキリスト者とは、自らの無力さを認め、神のみを信頼し続ける人ではないでしょうか。言い換えれば、イエス・キリストの姿を目標として生きることこそが、キリスト者としての成長の本質なのです。とはいえ、私たちがイエス・キリストの完全な域に達することはできません。
ホノルルキリスト教会の関真士牧師は著書の中で、「成長の過程で大切なのは、イエス・キリストを目指し、このお方から目を離さず、人格的な交わりを続けることである」と記しています。つまり、イエス・キリストを中心に据え、考え、判断し、悩みながらも前進することこそ、私たちが進むべき道なのです。
また、アメリカの神学者ダラス・ウィラードは著書『心の刷新を求めて』の中で、キリストに似た者へと変えられるプロセスについて語っています。イエスの弟子となることは、救いを得るための行いではなく、キリストのようになることを意味します。そしてその変化の力は、聖霊によって、神の恵みによってもたらされるのです。私たちは聖霊の働きが及びやすいように、キリストのように考え、感じ、行動することが求められています。それが、霊的成長につながるのです。
マタイ25章14節には、有名な「タラントのたとえ」が記されています。主人は旅に出る前に、しもべたちに自らの財産を預けました。この主人とはイエス・キリストを指し、「旅に出る」とはキリストの昇天から再臨までの期間を象徴しています。その間、しもべたちは主人の財産を忠実に管理するよう託され、再臨のときにその働きが評価されるのです。ここで注目すべきは、評価の厳しさではなく、25章19節にある「かなり時がたってから清算をした」という点です。すなわち、主人が戻って清算を行うまでには、一定の時間的猶予が与えられているということです。アブラハムの例を見ても、神に義と認められてからイサクを捧げるよう命じられるまでには長い年月が経過しています。彼にも、信仰を深めるための時間が与えられていたのです。私たちも、イエス・キリストの再臨のときには信仰の清算が求められますが、それまでの間に、与えられた信仰を育み、整える時間が与えられています。
信仰を持っていても、自己中心的な歩みを完全に止めることは容易ではなく、つい自分勝手な行動をしてしまうものです。だからこそ、私たちは自らの慣習や固定観念に固執せず、人の知恵に頼るのではなく、神の知恵に従って生涯を歩むべきです。イエス・キリストは地上での使命を全うされたとき、「完了した」と宣言されました。私たちもまた、自らに託された使命を果たし、「完了した」と言える人生を送りたいと願っています。与えられた信仰の種を育て、成長させ、成熟を目指して歩むこと、それこそが、私たちが共に目指すべき人生の姿ではないでしょうか。
“天の御国は、旅に出るにあたり、自分のしもべたちを呼んで財産を預ける人のようです。” マタイ25:14
“さて、かなり時がたってから、しもべたちの主人が帰って来て彼らと清算をした。”マタイ25:19
“イエスは酸いぶどう酒を受けると、「完了した」と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。” ヨハネ19:30
Author: Paulsletter
