5月4日メッセージ
崎原盛親牧師
「教会に必要なもの」
ヨハネの福音書13章1~20節
新約聖書には、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書が収められています。このうち、ヨハネによる福音書を除く三つの福音書は、共通する記述が多く、類似した視点から描かれているため、これらは総称して「共観福音書」と呼ばれています。共観福音書では、主にイエス・キリストの降誕、奇跡、たとえ話、神の国に関する教え、そして受難の出来事が記されています。一方、ヨハネによる福音書には、他の福音書に見られる多くの記事が省略されており、著者特有の言い回しや記述方法が多く見られる点が特徴です。そのため、ヨハネによる福音書は、他の福音書に対する補足や神学的な解釈を意図して書かれたと考えられています。また、ヨハネによる福音書の著者については、本書の中で「イエスの弟子」と記されていますが、他の福音書と同様に、具体的な人物名は明示されていません。伝承では「ヨハネ」とされているものの、それが使徒ヨハネを指すのか、あるいは別の人物なのかについては、古くから議論が続いています。さらに、執筆年代についても、ヨハネによる福音書は共観福音書よりも後に書かれたと考えられており、福音書の中で最も遅い時期に成立したとされています。
① ヨハネによる福音書は最後の福音書です
なぜ『ヨハネによる福音書』が他の福音書よりも遅い時期に書かれたのかについて、考察してみたいと思います。ペンテコステの聖霊降臨の後、福音は世界中へと広がり、教会も急速に拡大していったことが『使徒の働き』に記されています。特に、パウロの宣教活動によって開拓伝道が進められ、小アジア、ギリシャ、ローマといった地中海世界へとキリスト教は広がっていきました。迫害を受けながらも、福音の浸透と教会の形成は着実に進展し、都市部を中心に、家庭集会や小規模な教会が次々と誕生していったのです。
そのような中で、共観福音書が執筆され、信徒たちの間で読まれるようになりました。共観福音書と『ヨハネによる福音書』の執筆のあいだには、およそ30〜40年の時間的な隔たりがありますが、その間に初期キリスト教は大きな発展と変化を遂げました。共観福音書が書かれた時代には、イエスと直接関わった人々や初代教会の指導者たちがまだ生きており、彼らの証言や体験は信仰の形成に大きな影響を与えていました。これらの記憶や証言は信徒の間で語り継がれ、キリスト者の共同体における信仰の土台となっていきました。イエス・キリストの十字架の死と復活が「何を意味するのか」という理解が深まる中で、教勢はさらに拡大していきました。もちろん、それは喜ばしいことではありますが、ヨハネにとっては、地域ごとの教会が抱える課題や信仰理解に、ある種の違和感や懸念を覚えていたのではないかと思われます。ヨハネが感じた違和感とは、現代の教会にも通じる問題です。教会の実績や成長、働きの規模や影響力に格差が生まれ、本来のイエス・キリストの教えから逸脱していると感じるようになったのではないでしょうか。
そこでヨハネは、「より本質的な真理を伝えなければならない」との思いを抱き、他の福音書では語られていない、あるいは誤解されている点を補足しようと考えたのです。こうして、共観福音書に対する神学的補足とも言える書物として、『ヨハネによる福音書』を記したのではないかと考えられます。このような背景を踏まえて『ヨハネによる福音書』を読むと、従来とは異なる視点を持って理解することができるでしょう。とくにその象徴的な記述のひとつが、本書第13章に見られます。
② その愛を残すことなく示された
13章1節(新改訳聖書2017版)には、「世にいるご自分の者たちを愛されたイエスは、彼らを最後まで愛された」と記されています。これに対し、一つ前の新改訳聖書では「世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」と訳されており、新共同訳聖書では「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と表現されています。この場面は、イエス・キリストが十字架刑に処せられる前日の出来事を描写したものです。もはやご自分の死が目前に迫り、時間が限られていることをイエスは悟っておられました。そのような状況で、イエスは弟子たちに対して、できる限りのことをしたいと願っておられた、とヨハネは記しています。
この直後に描かれるのが、イエスによる「洗足」の場面です。他の福音書には洗足の描写はなく、代わりに食事の際にパンと杯を取り、聖餐式の起源となる言葉が記されています。つまり、ヨハネは、当時の教会ですでに広く行われていた聖餐式についてではなく、同じ場面でイエスが実際に弟子たちの足を洗ったという行為に注目し、それを記録しました。ヨハネは、読者にこの洗足の出来事を紹介することで、その意味の大切さを伝えようとしたのです。
ヨハネはこれまでの章でも、さまざまな言葉を用いて救い主イエス・キリストについて語ってきましたが、13章以降では、「愛」や「愛する」といった言葉がより頻繁に用いられるようになります。もちろん、最後の晩餐の席でイエスが語られた「これはわたしのからだである」「これはわたしの血である」という言葉は、十字架の死と贖いを記念するキリスト信仰の根幹をなす、非常に重要な教えです。しかし、ヨハネがここで本当に伝えたかったのは、単なる儀式や、当時の教会が求めていた勢力の拡大ではありません。むしろ、イエス・キリストが最後の瞬間まで貫かれた「愛」の行為、すなわち「洗足」に込められたその真の意味こそが強調されているのです。ヨハネは、この深い愛を読者が改めて思い起こし、その意味を心に刻むことを願って、この場面を記したのではないでしょうか。
他の福音書を見ると、この期に及んでもなお、弟子たちは「この中で誰が一番偉いのか」と論じ合っていたことが記されています。彼らは、これまでの3年半にわたり多くのことを学び、経験を積んできました。その中で、自分こそがリーダー的存在であり、イエスに最も愛され、誰よりも才能があると自負する気持ちや、他の弟子たちと競い合う心があったに違いありません。しかし、イエスはそのような弟子たちの心の内をすべて知った上で、手ぬぐいを取り、上着を脱ぎ、彼ら一人ひとりの足を等しく洗い始められたのです。この行為は、誰一人として差別することなく、最後の最後まで弟子たちを余すところなく愛されたことを示しています。私たちもまた、他の人よりも多く働き、能力があり、評価されていると思うことがあるかもしれません。しかし、イエス・キリストの目線からすれば、働きや能力、評価に関係なく、一人ひとりが等しく、心から愛されているのです。そのイエスの思いが、この「洗足」という行為に象徴されているのではないでしょうか。
当時の「パレスチナ」の道路はまったく舗装されておらず、非常に埃っぽかったようです。乾季には粉塵が舞い、雨季には泥でぬかるむ状態でした。人々は一般的にサンダルを履いていたため、足元が汚れるのは当然のことでした。そのため、家の戸口には水瓶が備えられ、通常は召使いが水差しと手ぬぐいを持って控えており、来客があると足を洗うのが習わしでした。しかし、この場面では召使いはおらず、本来であれば弟子の一人がその役目を果たすべきだったと考えられます。ところが、「この中で誰がいちばん偉いか」と競い合っていた弟子たちは、誰一人として自ら足を洗おうとはしませんでした。しかし、天の御国の価値観は、この世のそれとは異なります。宴の主は、中央に座って客を迎えるのではなく、戸口に立って客を待ち構え、自ら進んで足を洗う―それが真の主の姿なのです。ヨハネは、この姿こそが教会のあるべき姿であると伝えようとしているのです。すなわち、謙遜に他者の足を洗うこと、仕える姿勢こそが、教会の本質なのです。
このイエス・キリストの姿勢は、放蕩息子を迎える父の姿とも重なります。財産を使い果たし、無残な姿で帰ってきた息子を、父は走り寄って抱きしめ、口づけして迎え入れました。その父の姿と、弟子たちの足を洗ったイエスの姿は同じ愛に基づいており、そしてそれが教会のあるべき姿でもあるのです。ヨハネが訴えているのは、力のある者や実績を残した者、特別に愛された者だけが愛されるのではないということです。すべての人が、主の前では等しく愛されている。そのことを、私たちはこの「洗足」の出来事から改めて学ぶべきではないでしょうか。
ヨハネによる福音書13章4節にある「上着を脱ぐ」という表現は、同書10章11節の「いのちを捨てます」と同じギリシア語の動詞が使われており、これは単なる「上着を脱ぐ」という動作を越えた象徴的な意味を持っています。すなわち、「上着を脱ぐ」という行為は、イエス・キリストがご自身の命を捨てられること、すなわち十字架の死を予表するものと理解することができます。イエスの十字架のわざは、私たちの行いや努力による報いではなく、神の一方的な愛とあわれみによる贈り物なのです。
ペテロは、主イエスが自分の足を洗おうとされたことに驚き、それを拒もうとしましたが、それは「洗足」の持つ霊的な意味をまだ理解していなかったからです。イエスが「もしわたしがあなたを洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もない」と語られたように、この洗足は単に肉体の汚れを清める行為ではなく、「罪の赦し」を象徴する霊的な清めを意味しています。さらに7節でイエスが言われた「今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります」という言葉は、洗足の行為が持つ深い意味―謙遜と愛、そして自己犠牲―が、イエスの十字架の死と復活を経て、弟子たちに初めて真に理解されるようになることを示唆しているのです。
イエス・キリストを裏切ることになるイスカリオテ・ユダも、この場面に同席していました。彼もまた、他の弟子たちと同じようにイエスから足を洗っていただき、最後の最後まで愛された一人として描かれています。イエスの思いは、「あなたはそのままで十分であり、私の愛を受け取りなさい」というものでした。しかしユダは、イエスがその罪を赦そうとしておられたにもかかわらず、その愛を受け取ることはありませんでした。そして彼は、その場を後にして席を立つのです。
③ 愛を受け入れ愛に生きる
13節以降でイエスは、ご自身が弟子たちにとって「主」であり「先生」であることを明確に示されます。そして、そのような立場にあるご自身が、「洗足」というへりくだりと愛の模範を示されたのだから、弟子たちもまた「互いに足を洗い合うべきである」と命じられるのです。この「足を洗う」行為は、単なる儀式や道徳的な行いではなく、「謙遜」と「仕える姿勢」、そして「無条件の愛」を象徴しています。イエスは、弟子たちがこの洗足の出来事を思い起こすことによって、自分たちが神に深く愛されていることを自覚し、その愛の中に生き続けてほしいと願っておられるのです。つまり、神の愛を受け入れ、その愛に生きることこそが、キリスト者としてのあるべき姿なのです。
最後に、私がこの教会での経験を通して教えられたことをお話しして締めくくりたいと思います。
阪神・淡路大震災から、今年で30年が経ちました。あの出来事は、当時神学生だった私にとって決して忘れることのできない体験です。震災を通して、私は一人の少女と出会いました。先日、天に召されたSちゃんです。彼女とは、ボランティア活動の一環として避難所を訪れた際に出会いました。震災でお母さんを亡くし、幼い弟や妹の面倒を見ながら懸命に生活していた彼女には、実は震災以前から家庭に深い問題があったようでした。そんな彼女との関係は、まず「やってよいこと・悪いこと」「言ってよいこと・悪いこと」といった基本的なルール作りから始まりました。信頼関係を少しずつ築きながら、彼女が守るべき枠組みを共に作っていったのです。
やがて、ようやくそのルールも定着し、彼女との間にも信頼が育ち始めたころ、私自身、心身ともに疲労を感じ、一時的に実家へ帰省することになりました。一週間後、西宮に戻ってみると、多くのボランティアの方々が教会に寝泊まりしており、せっかく築いてきたルールは崩れてしまっていました。私が一生懸命に取り組んできたものが無に帰してしまったようで、どうしようもなく悔しく、悲しい気持ちに襲われました。思わず牧生先生に相談というより、愚痴をこぼしたことを今でも覚えています。そのとき、牧生先生は私にこう言いました。
「崎原君、神が私たちに願っているのは、彼女が立派な大人になることではなく、まず彼女を愛することではないだろうか。」その言葉を聞いたとき、私はハッとしました。神は、私の行動の「成果」を求めておられるのではなく、私が私なりにできることをもって、彼女を愛することを望んでおられるのだと気づかされたのです。神が彼女との出会いを与えてくださったのは、私が「神のように」完全に愛するためではなく、私「なりに」愛することを通して、神の愛に生きることを学ぶためだったのだと。この気づきは、彼女との関係にとどまらず、今も私の牧会生活や信仰生活の中心にあります。他人と比べる必要も、競う必要もありません。神の愛を受け取りながら、自分にできることを誠実に行い、その中で人との関係を築いていく―それこそが、あのとき神から教えられたことでした。そしてその教えは、今も私の信仰の基盤として生き続けています。Sちゃんとの別れは寂しいものですが、彼女との出会いによって私は大切なことを学ぶことができました。
ヨハネによる福音書13章16節には、「しもべは主人にまさるものではなく、遣わされた者は遣わした者にまさるものではありません」と記されています。私たちは、主であるイエス・キリストとまったく同じように愛することはできないかもしれません。しかしイエスは、それをご存じのうえで、なお私たちに、ご自身の模範にならって愛しなさいと語られました。弟子たちはこの後、皆イエスを裏切ります。ペテロも三度「知らない」と否定しました。しかし、イエス・キリストはそれをすべてご存じのうえで、それでも最後の最後まで弟子たちを愛し抜かれたのです。私たちにも、できること・できないことがありますが、それでも神は、私たちを100%愛してくださっているのです。
ヨハネは「ボアネルゲ(雷の子)」という別名を与えられるほど、感情的で気性が荒く、好戦的な人物だったと伝えられています。しかし、そんな彼が後年、「愛の人」と呼ばれるようになりました。そのヨハネが、他の福音書が記された約30年後にこの『ヨハネによる福音書』を執筆し、より本質的な福音の真理、すなわち教会の土台となる「神の愛」を力強く証ししたのです。それは、教会にとっても、私たちの信仰生活にとっても、最も必要なものであり、何ものにも代えがたい大切な真理です。すなわち、「神が私たちを100%愛してくださっている」という、この愛こそが中心なのです。今一度、この「神の愛」を深く受け止め、この愛に生かされながら歩んでいきたいと願います。
Author: Paulsletter