3月30日メッセージ
吉田正明 執事
「復活信仰とは」
ヨハネの福音書11章17~27節
ヨハネの福音書11章に記されているラザロの復活の物語は、人の死後について深く考えさせられる出来事です。この出来事は、イエスがユダヤでの伝道の後半、エルサレムの宗教指導者たちの迫害を避け、ヨルダン川の東へ活動の拠点を移していたときに起こりました。その最中、ベタニアに住むラザロの病気の知らせが届きます。ラザロは、ベタニアのマリアとその姉マルタの弟です。聖書には、イエスが「マルタとその姉妹、そしてラザロを愛しておられた」と記されており、イエスとこの家族との間に深い交わりがあったことがうかがえます。
しかし、イエスがベタニアに到着したときには、ラザロはすでに亡くなり、墓に葬られて四日が経っていました。当時のユダヤでは、死後三日間は魂が遺体のそばに留まると考えられていました。そのため、四日が経過したラザロは、完全に死んだものと見なされていたのです。それにもかかわらず、イエスは「わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きる」と語られました。この言葉にはどのような意味があるのでしょうか。確かに、ラザロは生き返りました。しかし、それは私たちが生きるこの世界に一時的に戻ったにすぎません。それなのに、なぜイエスはラザロを蘇らせたのでしょうか。
私たちは、死後に永遠のいのちを与えられ、新天新地において復活した姿で生きるという約束が与えられています。しかし、それは遠い未来に実現するものです。では、ただその日を待つだけでよいのでしょうか。もし、私たちの救いを「過去・現在・未来」の視点で捉えるならば、「救われた」という過去の経験と「将来の希望」だけではなく、「現在進行形の救い」がどのように未来へとつながっているのかを考えることも重要ではないでしょうか。
① 神は生きている者が信じることを求めておられる
この物語を簡単に振り返ると、マリアとその姉マルタの弟ラザロは重い病にかかり、瀕死の状態にありました。そこで姉妹は、イエスのもとに使いを送りました。当時すでに、イエスがナインのやもめの息子や会堂管理者ヤイロの娘を生き返らせたこと、また、長血を患う女性を癒した奇跡などが広まっていました。そのため、姉妹もイエスの奇跡を期待し、弟の重篤な状況を知らせたのでしょう。当然、このような状況であれば、イエスは何を差し置いてもすぐに駆けつけるべきだったように思えます。しかし、イエスはあえて二日間その場に留まり、出発を遅らせました。その結果、イエスが到着したときには、ラザロはすでに墓に葬られ、四日が経過していたのです。
そのとき、マルタはイエスの到着の遅れを嘆くように、「主よ、もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と訴えました。するとイエスは、「あなたの弟はよみがえります」と答えました。これに対し、マルタは「終わりの日の復活のときによみがえります」と答え、終末に起こると信じられていた「死者の復活」のことを指して理解していたのです。しかし、イエスはさらに続けて言われました。「わたしはよみがえりであり、いのちです。わたしを信じる者は、たとえ死んでも生きるのです。」つまり、イエスは単に死者を復活させる力を持っているのではなく、「復活そのもの」「いのちそのもの」 であることを宣言されたのです。そして、イエスを信じる者は永遠の命を持ち、死が最終的な終わりではないことを示されました。イエスがこのときマルタに問いかけたのは、復活信仰が単なる未来の約束ではなく、今この時にも実現していることを強調するためでした。そして、彼女がその信仰を今持っているかどうかを確認し、もし持っていなければ、その決断を迫っていたのだと思われます。
“わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていて わたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。” ヨハネ11:25-26
“私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。” ヨハネ11:27
神は人間を「神のかたち」として、霊的存在として創造されました。つまり、人間の霊は神の霊と繋がる存在として造られたのです。しかし、「一人の人」によって罪が世界に入り、罪によって死がもたらされ、こうして死がすべての人に及びました。この「一人の人」とはアダムのことです。創世記に記されているように、アダムが神の命令に背き、善悪の知識の木の実を食べたとき、人類に罪が入りました。この罪は単なる個人的な過ちではなく、人類全体に影響を及ぼす「原罪」となったのです。「罪」とは、単に道徳的な誤りではなく、神との関係が断絶し、霊的な命を失った状態を指します。霊的な死とは、神から分離されていることを意味します。神との繋がりを失った人は、霊的に枯渇し、最終的には永遠の滅びへと至るのです。肉体に空気や水、栄養が必要なように、私たちの内なる霊にも神の霊による命の供給が必要です。しかし、神から切り離された状態では、それを受け取ることができず、人は霊的に死んでいるのです。
“死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。それを聞く者は生きます。” ヨハネ5:25
② 「死に至る病」がある
キェルケゴールはデンマークの哲学者・思想家であり、一般に実存主義の先駆けとされています。彼はルター派の熱心な信仰者であり、キリスト教神学に実存主義的な手法を取り入れたキリスト教実存主義の立場をとっていました。キェルケゴールによって著された『死に至る病』という書物があります。本書の冒頭にある「死さえも『死に至る病』ではない」という言葉は、ヨハネによる福音書11章4節からの引用です。
本書の核心的な主張は、「死に至る病」とは肉体的な死ではなく、霊的な死(すなわち絶望)であるということです。キェルケゴールは、絶望を単なる心理的な状態ではなく、人間の自己存在に深く関わるものとして捉えています。すなわち、死後の世界に希望がないのであれば、死ぬことによっても希望がもたらされることはなく、そのような生き方こそが絶望であると述べています。つまり、神から離れ、神との正しい関係が崩れてしまうこと、言い換えれば、罪に陥ることこそが絶望であると表現したのです。
また、キェルケゴールは、神との関係を持たないことや、神の意志から逸脱することがどれほど「罪」(すなわち「絶望」)であるかを強調しています。そして、「絶望」にはさまざまな形があるものの、その最も深刻な形態は「神なしで自己を確立しようとすること」であると説きました。本書は、「絶望」からの救済は「神との関係を回復し、信仰によって生きること」によって可能となると主張し、読者を信仰へと導くことを目的として書かれたとされています。
“この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。” ヨハネ11:4
“人間的に言えば死が一切の最後であり、生命がある限りで、希望があるに過ぎないが、キリスト教的な理解では、死は決して一切の最後ではなく死もやはり永遠の命という一切の中の一つの小さな出来事にすぎず、死さえも「死に至る病」ではない。・・・絶望が「死に至る病」であり、絶望とは、精神における、自己(自分自身)における病である。そして「絶望は罪」である。” キェルケゴール 『死に至る病』より
フランス第二帝政時代に生まれた哲学者アラン(本名:エミール=オーギュスト・シャルティエ)は、1925年に『幸福論』を著しました。その中の「定義集」において、彼は「地獄」を「運命論を信じること」と定義しています。つまり、運命に支配されていると考え、自由な意志や自己の選択の力を否定することこそが、人間にとっての地獄であるとするのです。アランの思想では、幸福は自己の態度や考え方によって決まるものであり、運命論に囚われることは不幸の原因になるとされています。彼は、運命に従うのではなく、主体的に生きることの重要性を強調しています。
③ 復活信仰は私たちの行動を変える
私たちは、使徒信条において、「からだの復活、永遠のいのちを信じます」と信仰告白しています。つまり、肉体的に死んだ者も、キリストにある者は、終わりの日にからだの復活の恵みに預かることができます。逆に言えば、霊的な回復は肉体的な死からの復活を待つことなく、すでに実現しており、むしろ、肉体的な死に至るまでに霊的な復活を経験していなければならないのです。ですから、今、イエス・キリストを信じ、従うことによって霊的な復活を成し遂げることができるのであり、現在の霊的復活と、終わりの日における「からだの復活」(栄化)とは繋がっているのです。すなわち、霊的な復活を遂げている人にとっては、肉体的な死が終わりではなく、それは単なる通過点にすぎません。したがって、肉体的な死を恐れる必要はまったくないのです。
しかし、霊的な死から復活しないまま肉体的な死を迎えることは、非常に恐ろしいことです。前述のとおり、霊的な死とは、神との関係が断絶し、神から分離されている状態であり、霊的な命を失った状態を指します。私たちは、「一人の人」の罪によって神との関係が崩れ、霊的な死に陥っているのです。ですから、聖書的な意味での「救い」とは、究極的には神との断絶した関係が回復することであり、これによって罪が赦され、死から解放されるのです。肉体的な死は、単に肉体から霊が分離された状態を指しますが、霊的に死んだままでいると、最終的には霊自体が永遠の滅びへと至ってしまいます。したがって、やがて死を迎えるラザロがよみがえったことの重要性は、単なる肉体的な復活ではなく、霊的な意味で「救い」を経験し、永遠の命を得ることにあるのです。主イエス・キリストの十字架の死と復活は、私たちの神との断絶した関係を回復させ、罪と死から解放するためのものなのです。
肉体を持つ人間は、自分では意識していなくても、神から完全に離れることはありません。善人も悪人も、神の恵みを等しく享受しているからです。生きている人には、太陽や空気が与えられるように、神の恵みも平等に与えられています。その恵みの大切さを死後に知っても遅いのです。神に背を向けて死を迎えた人は、霊的な復活の機会を失ってしまうからです。生きて肉体を持っている限り、神の恵みに預かることができるのですから、その恵みを失う前に神との断絶を回復すべきです。さもなければ、それは永遠の滅びを意味します。つまり、肉体的な死に至り、霊が肉体から切り離されると、神に近づく人はますます神に近づくことができる一方で、神から離れてしまった人の霊は死んだ状態のままであり、復活することは永遠にないのです。繰り返し言いますが、生前に神との関係が断絶したまま死を迎えた人は、肉体的にも霊的にも復活する機会を失い、完全に神から断絶してしまいます。そのような悲惨な状態に陥らないためにも、私たちは生きている今、復活のイエス・キリストを通じて神との関係を回復し、霊的復活を成し遂げる必要があるのです。イエス・キリストは、「よみがえりであり、いのちです」と言われたように、私たちに復活の命を与えてくださるのは、今なのです。
注意しなければならないのは、イエス・キリストが代価を払って私たちを罪の奴隷から買い取り、解放してくださったのは、神に対して自由に自分勝手に振る舞うことができるという意味ではなく、神から自由を得ることでもありません。「代価を払って買い取られた」ということは、罪からの解放を意味しており、神に仕え、神の栄光を現す義務を負うことを意味します。また、私たちが罪赦され、キリスト者になったとき、聖霊なる神が私たちの内に与えられましたが、私たちが贖われたということは、私たちの「霊」に限定されるものではなく、全人格的に救われたことを意味します。「霊」と「肉」を二元論的に分けて考えることではないのです。
“あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分の体をもって神の栄光を現しなさい。” Iコリント6:20
また、パウロは、コリント教会の人々が復活の意義を理解していないことを指摘しています。コリント教会では、一部の信者が「死者の復活はない」と考えていたようです。しかし、もし死者の復活がないならば、キリストも復活していないことになり、そうであればキリスト者の信仰は無意味となります。さらに、罪が赦されていない以上、信仰者の希望も失われてしまうとパウロは警告しています。つまり、キリストが死者の中から復活したことこそがキリスト信仰の核心であり、終わりの日に「栄光のからだ」が与えられるという教えが最も重要であることを強調しているのです。
私たちは、素晴らしい希望が与えられているのですから、ただ漫然と構えていて良いのでしょうか。マタイによる福音書22章の結婚披露宴のたとえ話では、王が息子の結婚披露宴に招待状を送り、その後、披露宴に参加した者が礼服を着ていなかったため、追い出される場面が描かれています。このたとえ話は、神の国、すなわち天国における準備と心構えについて教訓を与えています。天国に相応しい「礼服」とは、外見的な服装ではなく、内面的な準備、すなわち神の前での正しい心の態度を象徴していると考えられます。神が求めるのは、キリストを信じ、神の義に従うことです。礼服は、イエス・キリストの義が私たちに与えられたものであり、私たちの信仰によってその義が着せられるとされています。また、礼服を着ることは、過去の罪から解放され、神の前で清い者として立つことを意味します。そして、謙遜な心も大切です。天国に招かれた者は、他者との関係においても愛を持って行動し、謙虚な心で神を礼拝する姿勢が重要なのです。
イエスが復活した後、弟子たちに現れた際に、十字架の傷跡が残っていたことが聖書に記録されています。イエスの傷跡は、単なる苦しみの痕跡ではなく、むしろ勝利の象徴です。すなわち、イエスは十字架の死を通して人類の罪の贖いを成し遂げ、復活によって死に打ち勝たれました。傷跡は、「イエスが確かに死なれたが、死に勝利してよみがえられた」ことの証しなのです。私たちの「栄化」された復活のからだにも、この世で経験した苦難のしるし、すなわち神の特別な召しへの忠誠を象徴する何らかの傷跡が残るのではないでしょうか。復活のからだは、この世で生きた肉体と無関係に切り離されたものではなく、地上での人生もまた神の御計画の一部であることを示すものです。たとえ肉体が死を迎えたとしても、今のからだと共に歩んできた人生が無価値とされるわけではありません。神は、そのからだを新しい「復活のからだ」によみがえらせてくださるのです。したがって、現在の私たちの日々の生活もまた、神の御前で価値あるものなのです。神は私たちのからだをもって、素晴らしい未来を備えておられます。このように、復活信仰は私たちの生き方を根本から変える力を持っているのです。
最後に、コリント人への手紙第一15章58節の御言葉で締めくくります。この箇所は、パウロがコリント教会の人々に対し、キリストの復活と、それに続くキリスト者の復活について詳しく述べた部分であり、復活信仰の結論ともいえる重要な教えが記されています。パウロは、キリストの復活こそ福音の核心であり、それがなければ信仰そのものが無意味になってしまうと強調しています。そして、キリストが復活されたことによって、私たちキリスト者もやがて「朽ちることのない栄光の体」によみがえることが保証されていると説いています。さらに、日々の歩みは天の父なる神に覚えられていることを思い起こし、主の働きに励むようにと勧めています。一人ひとりに与えられた使命は異なるかもしれませんが、神から授かった賜物を活かし、主の働きや召しに忠実に応えていくことこそ、復活信仰に生きるキリスト者の姿ではないでしょうか。
現在のいのちの価値を真剣に受け止め、果たすべき使命と働きがあることを心に留めながら歩んでいきたいと思います。私たちは皆、弱さを抱える者ですが、聖霊の助けを求めつつ、主にあって強められ、互いに励まし合いながら、信仰によって歩み続ける者でありたいと願います。
“ですから、私の愛する兄弟たち。堅くたって、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。” Iコリント15:58
Author: Paulsletter