3月16日メッセージ
小平牧生牧師
「キリストの足跡にしたがう 」
(ペテロから私たちへの手紙⑪)
ペテロの手紙 第一 2章18~25節
イエスはかつて弟子たちに、ご自身がエルサレムで多くの苦しみを受け、長老・祭司長・律法学者たちに殺され、三日目に復活することを打ち明けられました。そのとき、弟子の一人であるペテロは、「そんなことがあってはなりません」と諫めるように言いました。ユダヤの王として来られたお方が、多くの苦しみを受け、殺されることなど受け入れられず、ペテロはその思いを正直に告白したのです。しかし、イエスは彼に向かって、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人のことを思っている」と厳しく叱責されました。その後、ペテロは復活したイエスと出会い、新しく生まれ変わりました。そして、およそ30年後には、迫害や苦難の中にあるキリスト者を励ます手紙を書くようになっていました。
24節以下に「その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた」とありますが、「打ち傷」とは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架の苦難と死を指します。イエス・キリストは、私たちの背きの罪のために刺し通され、咎のために砕かれました。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって私たちは癒やされたのです。メシア預言については、旧約時代の多くの預言者によってあらかじめ語られていましたが、ペテロはイザヤ書53:4-6を引用し、イエス・キリストの十字架の真の意味を語ったのです。
ここで注意すべきなのは、ペテロの手紙が、実際に迫害の中で苦しんでいる人々に向けて書かれたものであり、恵まれた環境の中で安穏と暮らしている人々に向けたものではないということです。まさに、この地上では居場所のない旅人、寄留者、すなわち信仰のゆえに生まれ育った場所や住んでいた家を追われ、現実の苦しみに直面している人々に対して、ペテロはキリストの「打ち傷」によって癒やされたのだと語っているのです。当時の読者は、この手紙をどのような心境で読んだのでしょうか。また、私たちはどのような思いで、この手紙を読んでいるのでしょうか。
紀元1世紀のローマ帝国およびユダヤ社会においても、奴隷制度は広く浸透していました。イエスの時代のパレスチナでは、大規模な農場で多数の奴隷を使役することはなく、奴隷の大部分はエルサレムの高貴な家庭に仕える家内奴隷でした。また、新約聖書の記録によると、ヘロデ王家の宮廷奴隷(マタイ18:23、22:3、ルカ19:13)や大祭司に仕える奴隷(マルコ14:47、ヨハネ18:18)も存在していました。ペテロがこの手紙を書いた時代においても、奴隷は医者、教師、音楽家、秘書、家令などの職業に従事する者もおり、必ずしも卑しい仕事ばかりではありませんでした。しかし、奴隷は経済や社会を維持する上で不可欠な存在とされながらも、人格を認められることはなく、主人の完全な所有物として財産の一部と見なされ、自由を持つことは許されませんでした。もちろん、奴隷の生活はその職務や環境によって大きく異なりました。家庭内で理解のある主人に仕え、自らの専門分野の仕事に従事する場合はまだよい方でしたが、意地悪で横暴な主人のもとで働かざるを得ない奴隷もいました。そのような状況では、理不尽で不当な扱いを受けることもあったと考えられます。
当時の奴隷の供給源は多岐にわたっていました。主なものとして、①戦争捕虜、②負債(債務)奴隷、③犯罪者の奴隷化、④人身売買、⑤自発的な奴隷契約、⑥生まれながらの奴隷(家生奴隷)が挙げられます。特に戦争捕虜の場合、戦争の勝者が正義とされ、支配者が善良か横暴かに関係なく、また、被支配者がどれほど不当な扱いを受けようとも、その苦しみは当然のものと見なされました。そこには「正当な苦しみ」と「不当な苦しみ」という概念すら存在せず、支配と被支配の関係そのものが正義として受け入れられていたのです。そのような歴史的な背景の中で、ペテロは、「しもべ(奴隷)たちよ。尊敬の心を込めて主人に服従しなさい。善良で優しい主人に対してだけでなく、横暴な主人に対しても従いなさい。」と勧めているのです。この勧告の趣旨をどのように捉え、どのように生きていくのか、学びたいと思います。
① 不当な苦しみを耐え忍ぶ意味
ペテロは19節で、「不当な苦しみを受けながらも、神の前における良心のゆえに悲しみをこらえるなら、それは喜ばれることです」と述べました。「不当な」とは、「理不尽な」「筋の通らない」という意味です。私たちも、そのような「不当な苦しみ」を経験したことがあるでしょう。もちろん、私たちが「不当な苦しみ」を受けること自体を神が喜ばれるという意味ではありません。ここでの「神に喜ばれる」とは、直訳すると「神の恵みである」ということです。つまり、神のゆえに耐え忍ぶことが、神の御心にかなった「神の恵み」なのだと言うのです。そしてさらに、21節では「あなたがたは、そのために召された」のだと述べられています。なぜ、そのように言えるのでしょうか。
自分が罪を犯し、その罰として打ちたたかれ、それに耐え忍んだとしても、それは報いとして当然のことであり、何の賞賛にも値しません。また、不当な苦しみを受けたからといって、その加害者を探し、仕返しをすることでもありません。それでは、この世の価値観や原理に過ぎません。不当な苦しみと仕返しの連鎖は、まさにこの世界で問題となっていることです。ペテロがここで言っているのは、不当な苦しみを受けても、神を思いながら苦痛に耐えることが「神の恵み」であるということです。つまり、不当な苦しみを経験することによって、「神の恵み」を経験し、イエス・キリストを知る道が開けるということなのです。
水野源三さんの『もしも私が苦しまなかったら』という詩があります。水野源三さんは脳性麻痺を患い、全身が動かなくなり、他人の助けがなければ何もできない障害を抱えていました。やがて目と耳の機能以外はすべて失い、話すことや書くこともできなくなりましたが、それでもむしろその苦しみに対して神様に感謝の気持ちを抱いていました。苦難を通じて、イエス・キリストを知ることができたからです。彼は瞬きを使って自分の意志を伝え、この詩を作詞しました。彼はこの詩を通して、苦難を受け入れ、それに感謝し賛美をささげたのです。
もしも私が苦しまなかったら
神様の愛を知らなかった
もしもおおくの兄弟姉妹が苦しまなかったら
神様の愛は伝えられなかった
もしも主なるイエス様が苦しまなかったら
神様の愛はあらわれなかった
この詩は、「不当な苦しみ」が正当であり、赦されるものであると肯定しているのではありません。「不当な苦しみ」を経験することが、「神の恵み」を知る機会となったという感謝の気持ちを私たちに伝えているのです。「不当な苦しみ」を耐え忍ぶことができるなら、それは神の恵みであり、「不当な苦しみ」を耐え忍ぶとき、私たちは神の恵みを実感することができるのです。何よりも、「不当な苦しみ」を通して、神の救いの恵みに預かることができ、永遠のいのちを得ることができたのです。
“もしだれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに悲しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、それは神の御前に喜ばれることです。” 19-20
“不当な苦しみを受けても、神のことを思って苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです。” 19、聖書協会共同訳
② 不当な苦しみを受けられたイエスキリスト
21節は、イザヤ書のメシア預言を引用して、ペテロが手紙に書いた言葉です。ここでは、イエス・キリストを苦難のしもべとして描いています。イエス・キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもありませんでした。罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことはしませんでした。それにもかかわらず、イエス・キリストは十字架につけられたのです。これ以上の「不当な苦しみ」はないでしょう。罪のない人が、罪人として十字架刑に処せられたのです。イエス・キリストの苦しみには肉体的な苦しみもありますが、私たちのすべての罪を負うために、愛と義である神から見捨てられるという苦しみも経験されました。完全なる愛の神から見捨てられる苦しみは、神の子イエス・キリストにとって想像を絶するほどのものであったことでしょう。私たちは、自分の罪と向き合い、それを自分で解決することはできません。しかし、イエス・キリストは、それをすべて無条件に身代わりとなって負ってくださったのです。
私たちは、いつも自分が受けた苦しみを問題にする傾向があります。親や家族、社会から受けた「不当な苦しみ」を、自分が正しいと思う気持ちから、人生を通して引きずってしまうのです。それが仮に事実であったとしても、そのような苦しみを引きずり続けている限り、私たちを幸せにすることはありません。むしろ、私たちから奪っていくものが多いのです。そのような「不当な苦しみ」の中にいる者に対して、ペテロはイエス・キリストの足跡に従いなさいと言っています。すなわち、イエス・キリストが示してくださった模範に従って生きなさいというのです。私たちはそのために召されており、イエス・キリストに目を向けるとき、私たちの受けている「不当な苦しみ」もイエス・キリストが負ってくださることを知ることができるのです。そればかりではなく、自分自身がイエス・キリストに「不当な苦しみ」を与えた張本人であることに気づかされるのです。私たちは、イエス・キリストの召しに応じるとき、新しい人生に生まれ変わることができるのです。
“このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。…”21-
“三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。” マタイ27:46
“イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。”ルカ23:46
③ 旅人である私たちを生かす価値観
私たちにとって、苦しみの中にあることは辛いものです。特に、それが「不当な苦しみ」であれば、なおさらのことです。しかし、その苦しみをただ嘆いたり恨んだりするのではなく、むしろ神の恵みとして喜んで受け入れることができるなら、それは大きな幸いです。星野富弘さんの著書『愛、深き淵より』があります。この作品は、彼自身の人生の歩みと精神的な成長を反映しており、とりわけ彼の詩や絵画に込められた深いメッセージが印象的です。星野富弘さんは、1981年に体育教師として勤務していた際、事故によって脊髄を損傷し、車椅子での生活を余儀なくされました。この試練の中で、彼は詩や絵を自己表現の手段として取り入れるようになり、その作品は多くの人々に感動を与えています。
その著作の中には、次のような一節があります。
頭を動かすなどということは、何百キロもの重量物を持ちあげるほどの力がなければならないように思えた。でも、私はあきらめたくなかった。口で字を書くことをあきらめるのは、唯一つの望みを棄てることであり、生きることをあきらめることでもあるような気がしたからである。(中略)聖書のいうように本当に神様がいるとすれば、神様は私のようなものでも認めていてくれるのである。そしてこんな者にも、役割を与えて何かをさせようとしている。
星野富弘さんの身体は、神を信じて動くようになったわけではありません。「不当な苦しみ」の中で、神はそのように思える信仰を与えてくださったのです。このことこそが「神の恵み」であり、私たちがどんな状況にあっても、それぞれに役割があることを教えてくれています。24節にあるように、私たちがイエス・キリストの十字架によって罪から解放されたのは、義のために生きるためです。この手紙の読者は、信仰のために命を懸け、生まれ故郷を失い、離散し、「不当な苦しみ」を受けている人々です。ペテロは、そんな彼らに対して、イエス・キリストが十字架に架かられた目的が、罪から解放されて自由に生きることだけではないと伝えています。表面的な慰めの言葉ではなく、むしろ、彼らが罪を離れ、義のために生きるために生きることこそが、彼らを新たに生かす新しい価値観であり、この価値観は私たちにとっても同様です。
私たちは「不当な苦しみ」を受けることがあります。しかし、それを肯定するわけでもなく、当時の奴隷制度を奨励しているわけでもありません。たとえそのような「不当な苦しみ」の中にあっても、私たちはイエス・キリストの足跡に従いながら生きることができます。そして、忍耐し続ける中で、それを神の恵みとして受け入れ、前に向かって進むことができるのです。私たちは罪から離れ、義のために生きる者として、神の国を目指し、イエス・キリストの足跡に従うように召されています。
“キリストは自ら十字架の上で、私たちの罪をその身に負われた。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるため。その打ち傷のゆえに、あなたがたは癒やされた。” 24
“ですから、だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。” 2コリント5:17
Author: Paulsletter