3月9日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちは真の自由人として生きる」
(ペテロから私たちへの手紙⑩)
ペテロの手紙第一 2章13~17節
ペテロは、迫害や試練の中で各地に散らされたキリスト者に対し、「あなたがたは旅人であり寄留者である」と語り、パウロも「私たちの国籍は天にある」と述べています。両者は異なる表現を用いながらも、キリスト者がこの世に永遠に留まる者ではなく、一時的な旅人や寄留者であることを示しています。ペテロの「旅人」という言葉は、キリスト者がこの世を旅する存在であることを表し、パウロの「国籍」という言葉は、キリスト者の本当の故郷が天にあることを示しています。
ペテロとパウロの言葉は、キリスト者の本質的な生き方について共通のメッセージを伝えています。すなわち、キリスト者はこの世に生きているものの、永遠にここに留まる者ではなく、一時的な旅人であるということです。キリスト者の国籍は天にあり、最終的に帰るべき故郷は「神の国」であると教えています。さらに、ペテロは「たましいに戦いを挑む肉の欲を避け」、「異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい」と語り、パウロも「地上のことではなく、天にあるものを思いなさい」と述べています。つまり、キリスト者の生き方とは「この世の価値観に流されず、天の国の価値観に従うこと」であると言えるのです。
私たちは、イエス・キリストによって救われ、天国への旅路を歩む者として、真の自由を与えられています。自由にはさまざまな意味がありますが、一般的には、外部からの力による束縛や支配を受けないことを指します。この手紙が書かれた時代には、「自由人」と「奴隷」という区別がありました。奴隷は主人の完全な所有物とされ、その財産の一部と見なされていました。そのため、奴隷の立場から解放されない限り、自由人にはなれなかったのです。つまり、主人による支配からの解放こそが自由を意味していたのです。
私たちにとって、自由は大切な価値であり、保障されるべきものです。社会において、目に見える権力や圧力からの自由は当然重要ですが、一方で、目に見えない内面的な束縛や支配も存在します。私たちはしばしば、何かに囚われ、固執し、縛られ、自分の思い通りにならない現実に苦しむことがあります。たとえば、愛する自由がありながら、実際には愛せず、むしろ憎しみの力に支配されることがあります。赦す自由がありながら、怒りの力に囚われることもあります。与えることができるのに、欲望の力に支配されてしまうこともあるのです。これらの内面的な束縛は、どれほど自由な社会に生きていても、人を不自由にするのです。私たちは、そのような内側からの戦いを挑んでくる力から解放されなければ、本当の自由を得たとは言えないのではないでしょうか。
マルティン・ルターは、著書『キリスト者の自由』の中で、「キリスト者はすべての者の上に立つ自由な君主であり、だれにも従属しない」と同時に、「キリスト者はすべての者に奉仕する下僕であり、だれにも従属する」と述べています。一見矛盾しているように思えるこの二つの主張を、ルターは「信仰による義認」と「愛の実践」という二つの側面から説明しました。
ルターによれば、人間は本来霊的な存在であり、キリスト者の本質的な自由とは「内なる人間」に関わるものです。すなわち、キリストを信じる信仰によって、キリスト者のたましいは神の前で完全に自由になります。その結果、キリスト者は罪や死、神の裁きから解放されるのです。これこそが「キリストによる霊的自由」を意味します。一方で、人間はこの地上において社会的存在として生かされており、キリスト者には特別な使命が与えられています。ルターは、この現実の生活に関わる側面を「外なる人間」とし、キリストによって霊的な自由を得た者は、その自由を自己中心的に用いるのではなく、愛をもって他者に仕えるために用いるべきであると説いています。この考え方は、キリスト者が信仰によって救われることで自由を得る一方、その自由を隣人への奉仕という形で実践することを求めているのです。
今朝も、ペテロの手紙第一から、信仰によって救われ、霊的に自由とされたキリスト者の生き方について、さらに深く学び、考えたいと思います。
① 権威に従って生きることができる
今朝の箇所には、「従う」という言葉が繰り返し登場します。この「従う」にあたる言葉には、「服従する」「従う」といった 権威や秩序に対してへりくだって従う という意味と、「配置する」「整える」といった 神が定めた秩序に基づき、適切な立場に身を置く という意味があります。ペテロはこの箇所で、「従う」とは 強制的に従わされることではなく、神によって与えられた自由の中で、自発的に従うことができる ということを教えています。つまり、「従う」とは 権力や圧力による強制ではなく、内なる真の自由から生まれるものなのです。
私たちが地上において「旅人」であり「寄留者」であるということは、人が定めた政治的な支配体制や法律に従わないことや、責任を果たさないことを意味するのではありません。「自由」とは、自分勝手に生きる権利ではないのです。「人が立てたすべての制度」とありますが、確かに私たちを束縛するのは、こうした人間の定めた制度や規則です。そして、その中には「王」や「総督」のように権力を振るう者が存在します。そのような社会の仕組みや権力者によって、不自由を感じる現実が今もなおあります。私たちはしばしば、そうしたものに抵抗したいと感じますが、ペテロは 「主のゆえに」従いなさい と命じています。つまり、私たちが「立てられたすべての制度」に従うのは、単にそれがこの世のものだからではありません。私たちは神の民であり、神のしもべであり、この地上で「神の国」を目指す旅人であるがゆえに、地上の制度にも従うのです。しかし、その従順は 無条件ではありません。聖書によれば、「主のゆえに」という言葉は、時に 神のしもべであるがゆえに、地上の制度よりも神の御心を優先しなければならないことを示しています。
“人が立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、あるいは、悪を行う者を罰して善を行う者をほめるために、王から遣わされた総督であっても、従いなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることは、神のみこころだからです。” 13-
ペテロとヨハネは若いころ、エルサレム神殿の「美しの門」で足の不自由な男を癒した後、ユダヤの宗教指導者たちに逮捕されたことがありました。サンヘドリン(ユダヤの最高議会)は、イエスの名による説教や教えを禁じていました。なぜなら、彼らはイエスの復活の証言が広まることで、民衆がますますイエスを信じることを恐れていたからです。しかし、ペテロとヨハネは「人に従うよりも、神に従うべきである」と答えました。つまり、宗教指導者たちの人間的な権威よりも、福音宣教という神の命令を最優先すべきだと考えたのです。「イエス・キリストが主である」ということに関しては、何よりも優先すべきことであり、命をかけてでも貫かなければならないのです。けれども、私たちはその優先順位を見誤ることがあります。それは、私たちが「神の民」であり、「神の国」を目指している「旅人」であるという意識を持っていないからだと、ペテロは指摘しています。私たちは、目指している「神の国」に対して、もっと強い確信とこだわりを持たなければなりません。そこからこそ、真の自由が生まれるのです。
“そこで、彼らは二人を呼んで、イエスの名によって語ることも教えることも、いっさいしてはならないと命じた。しかしペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」” 使徒4:18-
② しもべとして生きることができる
16節は、私たちに「自由」であることの本質を簡潔に説明しています。「自由」であるということには、「自由だから~しなくてもよい」という側面と、「自由だから~することができる」という側面があります。例えば、私たちは自由であるがゆえに、隣人に仕えなくてもよいという選択肢を持っています。しかし、ペテロは、「自由」を口実にして、隣人に仕えなさいという神の命令に従わないのは、単なる言い訳に過ぎないと述べています。もちろん、仕えることが外的な力によって強制されることを意味しているわけではありません。ここで重要なのは、神によって自由とされたからこそ、「神のしもべ」として、喜んで隣人に仕えることができるということです。すなわち、それは単なる服従ではなく、愛と献身をもって神に仕える生き方なのです。真の自由とは、自分のしたいことをすることでも、自分の権利だけを主張することでもありません。むしろ、そのような権利や損得勘定からも解放されることこそが、真の自由なのです。それこそが「神のしもべ」の姿なのです。
“自由な者として、しかもその自由を悪の言い訳にせず、神のしもべとして従いなさい。”16
次の御言葉は、イエスが山の上で弟子たちに語った教え(山上の垂訓)です。「目には目、歯には歯」とありますが、これは「やられたらやり返せ」という報復を推奨するものではありません。「同害報復法」と呼ばれる旧約聖書の律法であり、被害と同程度の報復にとどめ、過剰な報復をしないという意味なのです。つまり、目を傷つけられた者が、目だけでなく体や財産まで奪って復讐してはならないという戒めなのです。しかし、イエス・キリストの生き方は、この律法の教えさえも超えていました。イエス・キリストは、罵られても罵り返さず、苦しめられても脅すことをしませんでした。旧約聖書の律法では、罵られた場合に罵り返すことは許されていましたが、イエスはそれさえもしなかったのです。イエス・キリストは、決して超人的な「鉄人」ではありません。痛みや辛さ、苦しみを感じないお方ではなく、血の汗を流すほどの苦しみを味わわれました。それでも、ご自身で裁きを行うことはせず、すべてを正しく裁かれる方(神)に委ねられたのです。イエス・キリストは、ご自身が私たちの罪を背負う使命を持っていることを十分に理解されていました。これこそが、真の自由なのです。そして、それだけではなく、私たちにもその足跡に従うようにと模範を示されたのです。さらに、イエス・キリストは、「一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい」と語りました。つまり、最初の「一ミリオン」は強いられたものであっても、もう「一ミリオン」は自分の意志で行くという自由なのです。そして、その自由が私たちにも与えられているのです。
繰り返しますが、私たちはこの地上で、試練や苦しみ、怒りや悲しみに振り回され、支配されることがあります。しかし、そのような中にあっても、私たちは「神の民」とされ、朽ちることのない天の財産を受け継ぐ者として、「神の国」を目指す旅人として歩んでいるのです。これこそが、自由人としての生き方であると、ペテロは語っています。だからこそ、私たちは「神の国」を目指すというゴールを決して忘れてはならないのです。本当の自由が与えられているからです。
“『目には目を、歯には歯を』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。借りようとする者に背を向けてはいけません。” マタイ5:38-42
③ 互いに愛し敬い合って生きることができる
「自由である」ということは、優越感や劣等感といった、自分を喜ばせたり悲しませたりする力に支配されないことを意味します。また、自分の主張が正しいという頑なさからも解放されることです。だからこそ、私たちはすべての人を敬い、愛することができるのです。
「敬う」ということは、その人を尊重することであり、その人の言動で判断しないということです。仮にその人が誤っていたとしても、その人の中にもイエス・キリストが働いており、祝福されていることを覚えているのです。自分の持っている古いデータで他人を判断するのではなく、その人を敬い愛することができる人こそが、真の自由な人なのです。私たちは、イエス・キリストによって救われ、霊的自由が与えられています。それは、罪の力に打ち勝つことのできる自由であり、隣人を愛し、仕えることのできる自由です。私たちは、神に無条件に愛され、憐れみを受けました。そのことによって、真の自由を得ることができたのです。そして、私たちも自分を差し出すことによって、人生に喜びを見いだすことができるのです。
教会も、このような自由を持って、互いに敬い、愛し合い、共に天国への旅路を歩んでいます。
“すべての人を敬い、兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を敬いなさい。” 17
“兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。” ガラテヤ5:13
Author: Paulsletter