3月2日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちは旅人として生きる」
(ペテロから私たちへの手紙⑨)
ペテロの手紙第一 2章11~12節
ペテロは、私たちがイエス・キリストによって「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民」(9)であると語りました。この「神の民」(10)としての身分は、単に神を信じることを意味するだけではなく、神の栄光を表す使命が与えられていることを示しています。それは、私たちもそうですが、この手紙を読む者たちが現実の世界の中で生きているからです。
ペテロは、信仰者がこの世の価値観に流されることなく、神に属する者として歩み続けることの重要性を示しています。私たちは、「暗闇からご自分の驚くべき光の中に招いてくださった」(9)神の恵みによって救われた者であり、その恵みを証しする存在として生きるよう求められています。ここからペテロは、私たちがこの地上の社会において、「旅人であり寄留者」(11)として、「異邦人の中にあって」(12)どのように生きるべきか、キリスト者としての生き方の前提となることを語ります。
「旅人であり寄留者」ということを考えるとき、触れておくべきなのが、ジョン・バニヤンの『天路歴程』です。本書は、1678年に発表されたイギリスの宗教文学の傑作であり、キリスト教の信仰に基づく寓意物語です。聖書の教えを基に、「クリスチャン(Christian)」という主人公が天の都(天国)へ至る霊的な旅を描いています。主人公は、「滅びの町」を出発し、「落胆の沼」、「狭い門」、「虚栄の市」、「絶望城」などを経由し、最終的に「天の都」に到着します。旅の途中、クリスチャンはさまざまな試練や誘惑に遭遇しますが、信仰深い人々と出会い、助言や励ましを受けながら、数々の困難を乗り越え、ついに天の門へ迎え入れられ、天国の栄光にあずかるのです。この旅のほとんどは、絶望に打ちひしがれたり、世俗的な誘惑、死の恐怖や悪魔の誘惑に苦しんだりする過程でもあります。もちろん、この物語には、17世紀の清教徒(ピューリタン)の思想が強く影響を与えており、神学的な視点や価値観が全編に反映されています。
私たちの信仰の目標は、試練や誘惑に負けることなく、神の国に入ることに強く焦点が当てられがちです。しかし、私たちはイエス・キリストによって救われた「神の民」であり、この地上では旅人です。つまり、私たちの旅には約束されたゴールがあり、寄留者としての人生の先には、神の国という約束が待っていることを知っています。だからといって、現実のこの地上の世界と来るべき神の国を「善」と「悪」に分けて切り離し、この世のことには関心を持たなくてもよいというわけではありません。天国に入ることが約束されているからといって、この地上で何の責任も持たずに生きてよいということではないのです。むしろ、私たちは天国へ向かう旅人として、この地上で果たすべき使命や生き方があるのだと、ペテロは語っていると思います。
私たちには永遠の住まいが備えられており、永遠の都に憧れつつ、この地上の旅を続けています。だからこそ、ただ試練や誘惑を避けるだけでなく、キリスト者として与えられた務めを果たしていかなければなりません。今朝も、私たちは「旅人」であり「寄留者」として、この地上においてどのように生きるべきかを整理し、三つのことを考えたいと思います。
① ゴールである天に目を向けよう
私たちキリスト者には、「神の国」が実現するという約束があります。このことは、ペテロの手紙の主題でもあります。私たちは、「神の国」(「天国」とも言います)が実現することを信じています。
「神の国」とは、神の統治や支配が及ぶ領域を意味します。聖書には、神が実現してくださる「新しい天」と「新しい地」という表現がありますが、これは「神の国」と同じ意味です。そして、私たちは、やがてイエス・キリストが再び来られるとき、「神の国」が完成すると信じ、その成就を待ち望みながら歩んでいます。そのとき、私たちはイエス・キリストと同じく、朽ちることのない栄光のからだを与えられ、「神の国」に入ることができるのです。
ペテロがこの手紙の冒頭で記しているように、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちは新しく生まれた者とされました。そして、「生ける望み」に生かされています。「生ける望み」とは、単なる理想や思弁、空想ではありません。それは、「神の国」が現実のものとなるという確かな希望です。私たちの人生は、この地上で終わるものではありません。私たちには、イエス・キリストによる「新しいいのち」と「神の国」が約束されているのです。そのことを信じているからこそ、私たちはこの地上では「旅人」と言うことができます。「旅人」とは、最終的に帰るべき場所があり、落ち着く先があることを意味します。しかし、その場所は地上ではなく、神が備えてくださる「神の国」なのです。つまり、私たちが「神の国」を目指して歩んでいることが重要です。もし、私たちが「旅人」としての歩みをやめ、諦めてしまうなら、その時点で「旅人」ではなくなります。私たちの国籍は天にあるという意識を失い、その生き方を放棄してしまえば、「神の国」を目指す「旅人」ではなくなってしまうのです。ペテロは、この手紙の受取人が各地に散らされ、寄留者であるからこそ、ゴールである天に目を向け、そのゴールを目指して歩み続けるようにと書き送っています。私たちはその生き方を捨ててはならないのです。
私たちは、再び来られるイエス・キリストを待ち望んでいます。イエス・キリストが再び来られるとき、私たちはイエス・キリストと同じ栄光の姿に変えられると約束されています。そして、それだけではなく、イエス・キリストの完全な愛と義によって支配される「神の国」が完成するのです。そこには、苦難も死もなく、争いや戦いもありません。完全な平和が満ち溢れているのです。それが、神の治める「神の国」なのです。私たちは、そのような「神の国」が与えられることを信じて待ち望み、そこに向かって歩んでいる「旅人」であることを自覚しています。
“私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。” 1:3-
パウロは、ヘブル人への手紙において、「地上での旅人」についてよりはっきりと言及しています。旧約聖書に登場する信仰の偉人たちは、神を信頼し、その信仰によって生きました。彼らは、神が彼らに与えると約束された祝福、すなわち「天の都」の実現を遠くに見つつ、信仰の目でその成就を確信し、喜んで受け入れていたのです。彼らこそ、地上では旅人であり、本当の故郷は天にあると告白していたのです。
ある人は、天国は死後のことであり、単なる希望に過ぎないと考え、そのような夢物語はその時になってみないとわからないと言うかもしれません。だから、この地上で生きている限りは、この地上のことだけを考えていれば良い、と考えることもあるでしょう。しかし、そういう考え方は、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味を理解していないからです。私たちは、イエス・キリストの十字架によって、すでに永遠の命を与えられました。もし「神の国」が現実のものでないとすれば、永遠の命の意味がなくなり、さらに言えば、イエス・キリストの十字架の死と復活の意味も失われることになります。
私たちがイエス・キリストによって救われ、永遠の命を与えられたということは、私たちが地上にありながら、国籍が天にある「旅人」とされているという保証なのです。ですから、私たちにとって大切なのは、地上では「旅人」であり「寄留者」であることを告白し、その意識を持って生きることです。結果的に天国に入ることが目的ではなく、その生き方を大切にしていくことが重要なのです。
“これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。” ヘブル11:13
② 自分を劣化させるものを避けよう
ペテロはここで、「肉の欲から来る戦いを避けなさい」と語っていますが、「肉の欲」とはどのようなものでしょうか。よく誤解されるのは、「肉の欲」と「肉体の欲」が混同されることです。「肉体」は神から与えられた恵みであり、健康な体を持っていることを示すものです。「肉体の欲」とは、肉体的な欲求を指し、例えば「食欲」、「性欲」、「睡眠欲」などがあります。これらの欲求は、神によって与えられたものであり、否定されるべきものではなく、与えられた目的に従って適切に活用されるべきものです。それに対して、「肉」とは「霊」に対する対語であり、霊に逆らうものを意味します。「肉の欲」とは、人間の罪に支配された性質から生じる欲望を指しています。聖書では、「肉の欲」とは罪の奴隷として、その欲望に従って生きる人間の性質を指しています。つまり、「肉の欲」とは、霊に従うことなく、罪に支配された不正な性質を意味しています。このような欲望は、「肉体の欲」を適切にコントロールすることを妨げ、むしろ私たちの「たましい」に誘惑と戦いを挑んでくるのです。ここで言う「たましい」とは霊的な部分を指し、霊的成長を妨げるものです。この欲望は、聖霊の助けなしには克服できません。私たちは、この「肉の欲」の現実をどれほど自覚しているでしょうか。
ですから、ペテロが語っているように、「たましい」に戦いを挑む「肉の欲」からは避けることが重要です。これは、人間の力で打ち勝つことのできる相手ではなく、征服できるものでもありません。逆に、私たちが戦うことによって、逆に「肉の欲」に征服されてしまうのです。戦い続けるうちに疲れ果て、最終的には敗北し、その結果、神との関係が崩れてしまいます。そして、「肉の欲」に支配され、この世の価値観にどっぷり浸かってしまい、破滅へと向かってしまうのです。
そもそも、「旅人」の特徴とは、身軽であることです。「旅人」として歩む中で、この世のものをあれもこれもと欲しがり、まさに「肉の欲」に支配されてしまえば、「旅人」としての本来の自由を経験することはできません。その意味で、私たちの生き方を決定する鍵の一つは、「肉の欲」をどう避けるかということです。このことは、聖書の以下の二つの箇所で教えられています。ヨハネの手紙第一2章16節、そしてガラテヤ人への手紙5章16節です。
“愛する者たち、私は勧めます。あなたがたは旅人、寄留者なのですから、たましいに戦いを挑む肉の欲を避けなさい。” 11
この世にある、神に敵対する価値観や欲望に支配されたものは、そもそも神から出たものではなく、やがて消え去るものであり、永遠のものではありません。ですから、「肉の欲」を避け、距離を置くことが必要です。
“すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。” 1ヨハネ2:16
私たちが「肉の欲」から避ける秘訣は、常に聖霊の導きのもとで生きることです。人間は、そもそも「神のかたち」として創造された霊的存在であり、神との交わりを持つことができる者です。ですから、霊に属する者として、聖霊に満たされることによって、「肉の欲」の支配から解放されるのです。つまり、聖霊なる神の性質と、「霊の性質」を失った「肉の性質」は両立しません。したがって、人はどちらかに従って生きることになりますが、聖霊なる神に従うならば、結果的に「肉の欲」に逆らって生きることができるのです。重要なのは、パウロが「御霊によって歩みなさい」と命じているように、私たちが意識的に決断し、聖霊に従う決心をすることです。自然の成り行きに任せていれば、知らず知らずのうちに聖霊に従うようになるわけではありません。むしろ、放っておけば人は「肉」に従ってしまうのです。ですから、聖霊に従おうと決意し、聖霊なる神が私たちを支配されるなら、「肉」に支配されることはなくなるのです。そうすれば、私たちはただ聖霊に従うだけで、「肉の欲」と戦う必要すらなくなるのです。
“私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。肉が望むことは御霊に逆らい、御霊が望むことは肉に逆らうからです。…” ガラテヤ5:16-
ペテロが手紙の冒頭に記しているように、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちは新しく生まれ、生ける望みを持つようにされました。その結果、私たちはこの世に属する過ぎ去る「肉の欲」に満足する必要がなくなったのです。そのような生き方は、「旅人」としての私たちを弱め、魅力を損なうものです。この世は「肉の欲」に満ちており、それに支配されるならば、「旅人」としてのキリスト者の本質を失ってしまいます。せっかく「神の民」とされた者が、「肉の欲」に支配されてしまえば、私たちは神が定めた目的から外れ、誤った方向へと進んでしまいます。ですから、ペテロはそのような「肉の欲」を避けるよう強調しており、私たちはそのことを深く理解し、心に留めるべきなのです。
③ 日常のふるまいを洗練しよう
異邦人の本来の意味は、旧約聖書において特に「イスラエルの民(ユダヤ人)以外の民族」を指す言葉として用いられることが多く、一般的に「異邦の民」、すなわち「神の選びの民ではない者たち」という意味で使われていました。しかし、イエス・キリストの到来と福音の宣教によって、この「異邦人」に対する理解は大きく変わりました。異邦人に対する積極的な福音宣教の結果、ユダヤ人と異邦人の間にあった「隔ての壁」が取り除かれたのです。したがって、「異邦人」という言葉は単に「ユダヤ人ではない者」を指すだけでなく、「まだキリストを信じていない者」という意味合いでも使われるようになりました。これは、初期の教会がユダヤ人中心であったため、信仰の外にいる者を「異邦人」と呼ぶことがあったのです。
12節では、ペテロが、キリスト者が異邦人の中でどのように生きるべきかを説いた重要な箇所です。ペテロの手紙は、キリストへの信仰ゆえに敵対され、迫害されている者たちに向けて書かれており、そのような状況の中で、ペテロは「キリスト者として立派にふるまいなさい」と語っています。ここでの「立派にふるまう」とは、単に道徳的に模範的な行為や生き方を指すのではないと考えられます。なぜなら、すでに彼らは敵対され、迫害されているからです。特に「ふるまう」という言葉は、ペテロの手紙の中で繰り返し用いられています。ペテロは、この言葉を通して、キリストの教えに基づいた愛と奉仕の実践、すなわち、キリスト者の「旅人」としての生き方を強調しているのではないでしょうか。
ペテロは、迫害の中にあるキリスト者に対して、「しっかりと弁明しなさい」や「きちんと申し開きをしなさい」と言っているのではありません。当時の社会では、彼らの慣習や信仰が否定され、しばしば非難や迫害を受けていました。そのため、どれほど言葉を尽くして説明しても、簡単に誤解が解けるものではなかったでしょう。むしろ、言葉で語れば語るほど、悪人呼ばわりされることもあったのです。そのような状況の中で、ペテロは「キリスト者としてのふるまいをしなさい」と勧めています。ここで注意すべき点は、この「ふるまい」が天国へ行くための条件ではないということです。すでに私たちは救われ、「神の民」とされているのです。その前提のもとで、「立派にふるまいなさい」と語っているのです。ここでの「立派」とは、世間一般に「さすがだ」と称賛されるような立派さではありません。なぜなら、すでに彼らは悪人扱いされていたため、世の人々にとって「立派な者」と見なされているわけではなかったのです。むしろ、この「立派さ」とは、キリスト者として、また「旅人」としてふさわしい生き方を意味しているのでしょう。したがって、ペテロは「キリストの香りを放つような行いや生き方をしなさい」と勧めているのです。そして、そのような「ふるまい」は、見ている人々に影響を与えるのです。
私たちも同様です。イエス・キリストによって生きる者として、当然のことながら、この世においては、例えば家族との生活や、会社の人々との関わりの中で、様々な軋轢が生じ、非難や偏見にさらされることもあるでしょう。しかし、私たちはそのことを覆そうとして立派にふるまうのではありません。むしろ、悪く言われるかもしれないことを覚悟しつつ、繰り返し言いますが、私たちはこの地上では「旅人」であることを忘れてはなりません。どれほど言葉で説明しても、誤解されることが多いでしょう。そのため、キリスト者としての生き方や行動で示すことが重要なのです。敵対的だった人々も、キリスト者としての「立派なふるまい」を目にすることで、最終的に神を認め、救いに導かれることになるのです。
“異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば、彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。” 12
“ご存じのように、あなたがたが先祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない子羊のようなキリストの、尊い血によったのです。…” 1ペテロ 1:18
Author: Paulsletter