2月23日メッセージ
小平牧生牧師
「キリストとともに教会を築き上げる」
(ペテロから私たちへの手紙⑧)
ペテロの手紙第一 2章4~10節
パレスチナ地方では、石や石材が豊富に産出されており、建築資材として広く用いられていました。また、石はそのまま、あるいは加工して、さまざまな用途に活用されていました。特別な用途として、巨石を一つ、または複数積み重ねて祭壇として用いることがありました。また、契約の証や死者の石碑として、石柱が立てられることもありました。例えば、ヤコブは枕にしていた石を立て、それに油を注ぎ、そこを「神の家(ベテル)」と命名しています(創世記28章18-19節)。さらに、日常生活では粘土板が書写の材料として使われていましたが、モーセがシナイ山で神から授かった律法は、「石板」に刻まれていたことはよく知られています(出エジプト記31章18節)。また、詩篇では「建築者たちが価値がないと判断して捨てた石が、後に建物の構造を支える非常に重要な石(要の石)となった」と記されており(詩篇118篇22節)、この箇所はイエス・キリストに対するメシア的な預言として、新約聖書でもたびたび引用されています。
このように、パレスチナでは石や石材が非常に重宝されていたため、聖書の中でもしばしば比喩的に用いられています。ペテロも、私たちを建物の「石」にたとえて語っています。彼は「生ける石」、「選ばれた石」、「尊い要石」、「捨てられた石」、「つまずきの石」、「妨げの岩」などの表現を用いて、イエス・キリストとキリスト者や教会の関係を教えようとしているのです(ペテロの手紙第一2章4-8節)。
① 生ける要石であるキリストにつながる
要(かなめ)の石とは、建物の構造を支える最も重要な石であり、特に建物の隅に置かれる石は「礎石(cornerstone)」とも呼ばれます。建物にとって要石が重要であるのと同様に、教会にとっても、イエス・キリストを土台としなければなりません。それは、教会にとって揺るぎない真理であり、永続的な救いの約束を意味しているからです。何よりも確認すべきことは、イエス・キリストが私たちの要石となっているかどうかです。私たちも、生ける要石であるイエス・キリストに霊的に繋がることによって、教会を支える生ける石とされ、教会を築き上げる者とされるのだと、ペテロは語っています。
イエス・キリストは、当時のユダヤ教の指導者やローマ帝国によって拒絶され、十字架にかけられました。しかし、神は彼を救い主として選び、十字架の死と復活によって、彼が救い主であることが証明されたのです。このことは、詩篇118篇22節やイザヤ書28章16節において、あらかじめ預言されていたとおり、イエス・キリストが救い主であり、教会の要石とされたことを示しています。
“主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた尊い生ける石です。” 4
私たちは、この地上において、教会の中でさえも、失望することが多々あります。しかし、ペテロは、私たちが積極的にキリストに近づき、霊的に繋がるなら、決して失望することはないと語っています。私たちにとって大切なのは、イエス・キリストを信頼することです。キリストが頭(かしら)となり、私たち一人ひとりを通して、聖なる宮である教会は成長していくのです。
““聖書にこう書いてあるからです。「見よ、わたしはシオンに、選ばれた石、尊い要石を据える。 この方に信頼する者は決して失望させられることがない。」” 6
このことは、パウロがエペソの教会に書き送った手紙にも記されています。私たちは、かつて異邦人として、神の契約や約束から疎外され、霊的には神の民の特権に預かる者ではありませんでした。しかし、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、歴史上の多くの聖徒たちと同様に、私たちも神の民とされ、神の家族となったのです。つまり、私たちの信仰は、私たち自身が築き上げたものではなく、使徒たちや預言者という土台の上に築かれています。そして、私たちは、要(かなめ)の石であるイエス・キリストにしっかりと繋がっているのです。そして、キリストにあって、建物全体が組み合わされて、一つの教会として建て上げられていくのです。
要石であるイエス・キリストという土台がしっかりと据えられいるかどうか、今一度確認しなければなりません。
“こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、聖徒たちと同じ国の民であ り、神の家族なのです。使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イ エスご自身がその要の石です。このキリストにあって、建物の全体が組み合わされて成長し、主 にある聖なる宮となります。あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊 によって神の御住まいとなるのです。”エペソ2:19-
② 私たちも生ける石とされて
イエスは、シモン(ヘブル語で「シメオン」)と初めて出会ったとき、彼にアラム語で「ケパ」(ギリシャ語では「ペテロ」)という新しい名前を与えました。「ペテロ」はギリシャ語で「岩」または「石」を意味します。後に、イエスはペテロの信仰を評価し、「この岩の上にわたしの教会を建てます」(マタイ16:18)と言いました。このときイエスが評価したのは、ペテロ自身ではなく、彼の「揺るがない信仰」でした。イエスは、ペテロに対して、その信仰と同じ「揺るがない基礎」の上に教会を建てるよう命じられたのです。
そのペテロが、イエス・キリストを「生ける石」と語るとともに、私たちも「生ける石」であると言っています。そして、生ける石として、霊なる家、すなわち神の宮である「教会」を建て上げるように語っています。「神の宮」とは、神の臨在を表す場所を意味しています。「教会」は、キリストを信じる者が集まるところを意味しますが、最も大切なことは、そこにイエス・キリストが臨在しているかどうかです。どんなに立派な建物であっても、もし神が臨在していなければ、それは単なる箱に過ぎません。教会にとって大切なのは、どんな人たちによって築かれたかではなく、要(かなめ)の石であるイエス・キリストが臨在しているかどうかなのです。したがって、私たちは、互いに喜ばせることを目指すのではなく、神を喜ばせるようにしなければなりません。逆に言うと、私たちは、神を憂いさせ、悲しませることがあってはならないのです。ですから、一人や二人の小さな交わりであったとしても、そこに神の臨在が重要なのです。そして、そこで神に礼拝をささげ、教会の働きをしようとしているのです。
イエス・キリストによって霊的ないのちを与えられた私たちも、霊の家である「教会」を築く使命を与えられ、聖なる「祭司」となりました。「祭司」は古代社会において、聖所で宗教儀式を行う役割を担っていました。聖所には「祭司」がいて、聖所を管理し、祭儀を執り行っていました。旧約聖書においては、祭司という職業に従事する者があり、その者たちは祭司やレビ人と呼ばれていました。正式には、アロンとその家系が祭司職に任命されました。つまり、選ばれた人々だけが祭司の職務を果たすことができたのであり、限られた人々だけが神殿や幕屋に入ることが許され、神に犠牲を捧げ、礼拝し、祈ることができたのです。しかし、イエス・キリストが地上に遣わされ、十字架の死と復活を遂げ、救いを完成させ、聖霊がキリストを信じる者に臨んだとき、すべての者が祭司となることができるようになったのです。この考えは、マルティン・ルターによる宗教改革によって提唱されました。
ルターは、救いは神の恵みによるものであり、人間の善行によってではなく、ただ信仰によって与えられるという教義(信仰による義認)を提唱しました。さらに、ルターは「すべての信じる者は祭司である」という考え方を提唱しました。つまり、聖職者と一般信者の間に特別な差異を設けず、すべての信者が神と直接関わりを持つことができると主張したのです。これにより、教会内のヒエラルキーや聖職者の特権的な立場は消え、すべてのキリスト者が神に直接礼拝を捧げ、神の御言葉を取り次ぐことができる「祭司」となったのです。したがって、祭司の職務は限定された一部の人々だけのものではなくなったのです。そして、かつての「祭司」のように動物の犠牲を奉げるのではなく、すべての信者が神に喜ばれる霊的な礼拝(祈り、賛美、奉仕、愛の行い)をすることができる、聖なる「祭司」となったのです。
“あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ、神に喜ばれる霊のいけにえをイエス・ キリストを通して献げる、聖なる祭司となります。” 5
“だれも、すでに据えられている土台以外の物を据えることはできないからです。その土台とはイ エス・キリストです。だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、藁で家を建てると、そ れぞれの働きは明らかになります。「その日」がそれを明るみに出すのです。その日は火とともに 現れ、この火が、それぞれの働きがどのようなものかを試すからです。” 1コリント3:11-
③ 神の民として歩もう
ペテロは、さらに9節以下で次のように語り続けます。イエス・キリストを信じる者たちは、旧約聖書におけるイスラエルの民が神に選ばれた民であったように、霊的に神に選ばれた新しい神の民として選ばれました。それは、キリストを通して神に直接近づくことができ、神の恵みを人々に伝える「祭司」としての務めを担っており、神の民として神の目的に従って生きるように召されており、神に完全に属し、神の守りと導きを受けていることを意味します。このため、私たちは「祭司」としての務めを果たすべきだと思うのです。なぜなら、イエス・キリストの救いを広めることは、すべての人々にとって必要なことであり、最も重要な務めだからです。そして、私たちが「祭司」としての務めを果たすとき、必ず神が宣教の実を結んでくださるのです。
最後に、牧師として両親に感謝したいことが3つあります。
① 神を選び、イエス・キリストを信じる決心をしたこと
② キリスト者としての家庭を築いてくれたこと
③ 神の召しに従い伝道者として献身してくれたこと
両親がこれらの決心をしたからこそ、今の私が存在しているのです。皆さんの決心も同様だと思います。今の決心は、これからの自分を決めるだけでなく、後に続く人々の人生にも影響を与えるのです。ここぞというときに、イエス・キリストを信じて従うことで、その後に続く者たちの人生も変えることになります。私たちも、今すべきことを決心し、神の民として歩んでいきたいと思います。
“しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。そ れは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あな たがたが告げ知らせるためです。” 9
Author: Paulsletter