2月16日メッセージ
小平牧生牧師
「生まれたばかりの乳飲み子のように」
(ペテロから私たちへの手紙⑦)
ペテロの手紙第一 2章1~3節
ペテロは、ガリラヤ湖の北東にあるベツサイダという町の出身で、漁師をしていました。ある日、ガリラヤ湖のほとりでイエスに召し出され、網を捨てて弟子として従うようになりました。彼は情熱的で直情的な性格で、行動力がある一方、時には軽率な面もありました。しかし、その人間味あふれる性格が、彼をイエスの重要な弟子の一人として際立たせていました。ペテロは多くの失敗や挫折を経験しましたが、それらを通してイエス・キリストによって新しく造り変えられていきました。そして晩年、自らの人生を振り返りながら、この手紙を書いたのです。本書は、冒頭にもあるとおり、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、およびビテニヤに迫害によって散らされ、寄留しているキリスト者たちに向けて書かれました。著者は冒頭でペテロ自身であることが明記されていますが、終わりの挨拶では、シルワノ(シラス)が筆記者として紹介されています。いずれにせよ、この手紙は、ペテロが神の憐れみによって新しく生まれ変わり、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して、朽ちることも汚れることもなく、消え去ることもない資産が天に蓄えられていることを強調し、迫害や苦難の中にあるキリスト者たちを励ますために書かれたものなのです。
今朝から2章に入りますが、イエス・キリストによって新しく生まれ変わったキリスト者が、どのように霊的に成長できるのかを、乳飲み子の姿を通して学びたいと思います。
“生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、霊の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです。” 2
生まれたばかりの乳飲み子のように
① 愛されている者として
各地に離散していたキリスト者は、迫害 や 困難 に直面していました。ペテロは、そのような試練の中でも 信仰を持ち続けることの重要性を語っています。なぜなら、キリスト者は、キリストに愛される存在として、たましいの救いを受け取りつつあるからです。
私たちは、イエス・キリストの十字架の死と復活により、救われたものであり、永遠に朽ちることのない神の言葉によって新しく生まれたのです。それは、すなわち、神との関係において、霊的に死んでいた状態にあったものが回復を意味しています。さらに、やがて再びイエス・キリストが来られるときに、神の救いのご計画は完成するものであり、私たちは、ひたすらその時を待ち望んでいるのです。私たちは、永遠に朽ちることのない神の言葉によって新しく生まれたのです。
この手紙の2章は、「ですから」という言葉で始まっています。「ですから」は、先行する事柄を受け、それに基づく当然の結果として後続の内容へと繋げる接続詞です。ここでは、先行する事柄として、大きく言えば1章全体を指しています。また、直前の内容に注目すると、1章23節の「新しく生まれたのは・・・いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」を受け、それに続く「乳飲み子のように、純粋な霊の乳を慕い求めなさい。」へと繋がっていきます。
「純粋な霊の乳を慕い求める」とありますが、生まれたばかりの乳飲み子は小さくか弱い存在でありながら、母の乳を慕い求める姿には驚くべき力を感じることがあります。お腹が空くと、大声で泣き叫びながらその状況を訴えますが、ひとたび母の乳房を咥えると、一心不乱に全身で吸い始め、その力強さと勢いに驚かされます。ペテロは、この乳飲み子が乳を慕い求める姿をキリスト者の姿と重ね、このように表現しているのです。すなわち、キリスト者に必要なのは、ただ一つ、純粋で混じりけのない霊の乳を、乳飲み子のように力いっぱい吸うことだと強調しています。霊の乳とは、神が与えてくださる霊の糧のことであり、霊の糧とはすなわち、1章22節に記されているとおり、神の真理に従うことであり、神の御言葉に従うことなのです。
人の発する言葉には混じりけが多く、決して純粋ではありません。私たちは、純粋な霊の乳、すなわち神の真理の言葉によって生かされなければならないのです。そして、キリスト者は神の言葉によって成長し、互いに愛し合う生き方が現実のものとなる、とペテロは語っています。ペテロは2節で、キリスト者にとって必要なもの、求めるべきものについて述べています。そして、それと対比する形で、1節では、キリスト者として捨てるべきものを記しています。つまり、ペテロは迫害の中で切実な状況にあるキリスト者に向けてこの手紙を書いており、キリスト者が何を捨て、何を求めるべきか、その重要性を強調しているのです。
“あなたがたは真理に従うことによって、たましいを清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、きよい心で互いに熱く愛し合いなさい。” 1:22
私たちは、イエス・キリストによって新しく生まれました。そして、神の子として、神のすべてのものを受け継ぐ者として、天に財産が蓄えられています。「神の子」としてどのように生きるべきかを、少しずつ学んでいきます。その過程で、私たちは愛されている子どもらしく、よりイエス・キリストに似た者へと変えられていくのです。
“ですから、愛されている子どもらしく、神に倣う者となりなさい。また、愛のうちに歩みなさい。キリストも私たちを愛して、私たちのために、ご自分を神へのささげ物、またいけにえとし、芳ばしい香りを献げてくださいました。…” エペソ5:1-
② 大人の汚れを捨て去って
私たちは、神に愛されていることを知り、イエス・キリストとの出会いによって、たましいの救いを得ることができました。そして、それにとどまらず、キリスト者として成長し、「互いに熱く愛し合いなさい」と命じられています。そのためには、神の真理の言葉に従うことが必要であると教えられました。しかし、ペテロは、成長のためには意識的に捨てるべきものがあるとも記しています。つまり、キリスト者として成長するには、得るべきものだけでなく、捨てるべきものもあるというのです。「捨てるべきものがある」という事実自体も印象的ですが、何を捨てるべきなのかはさらに興味深いです。
ペテロは、「この世の財産や地位、名誉」あるいは「罪や汚れ」といったものではなく、「悪意」「偽り」「偽善」「ねたみ」「悪口」の5つを列挙しています。これら5つが意味するのは、隣人に対する思いや行為に関するものであり、「互いに愛し合いなさい」という教えとは正反対の言動です。そして、キリスト者であってもこれらの言動を行ってしまうことがあるのです。
悪意:他者に害を与えようとする心
偽り:真実を隠し、欺く行為
偽善:本心と外的行為が矛盾していること
ねたみ:他者の幸せを羨ましく思い、不満を抱く心
悪口:他者を貶める言葉や陰口
これらはすべて、神の愛(アガペ)が生み出す誠実さや純粋さとは逆の性質を持っています。さらに、ペテロは、ここに列挙した「すべての・・・」と言っており、原語のギリシャ語では複数形が使われています。つまり、これらの性質は例外なく私たちのうちに多く存在しているものであり、だからこそ「捨てなさい」と命じられているのです。
「捨てる」ことは口で言うのは簡単ですが、実際に行うのは難しいです。なぜなら、これらの言動は、私たちが悪いと感じつつも、一時的に快感や満足感を得られるという心理的な側面があるからです。「他人の悪口は蜜の味」と言われるように、悪口を言うことで一時的な心地よさを感じるのです。これらの言動が隣人との調和を損ない、キリスト者としての霊的成長を妨げることは理解しているものの、完全に捨て去ることは現実的に難しいというのが正直なところです。しかし、もしこれらの言動が教会の中に溢れてしまったら、どうなるでしょうか。互いに愛し合うという精神に反するだけでなく、迫害の中で信仰を守っていくことも決して容易ではないでしょう。だからこそ、ペテロは霊的乳である神の真理の言葉を乳飲み子のように慕い求めなさいと強調しているのだと思います。捨てるべきものを捨てるのは、誰でもなく、あなた自身なのです。イエス・キリストを信じたからといって、自然にこれらのものを捨てられるわけではなく、自ら捨てる決心をし、その決断を実行することが必要です。そして、その決心をしたならば、神がその過程を助けてくださるのです。
“ですからあなたがたは、すべての悪意、すべての偽り、偽善やねたみ、すべての悪口を捨てて、” 1
“ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを素直に受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。” ヤコブ1:21
③ キリストのご性質の味わいを求めて
「悪意」「偽り」「偽善」「ねたみ」「悪口」の五つの言動を、なぜ捨て去らなければならないのでしょうか。それは、これらの言動が、神の慈しみ深さを味わうことを妨げるからです。これらの言動と、イエス・キリストのご性質を味わうことは両立しません。乳飲み子は、興味のあるおもちゃを握りしめると、なかなか手放しません。取り上げようとしても、力いっぱい握りしめます。しかし、母の乳を吸い始めると、その意識は母の乳へと移り、おもちゃから自然と手を放します。同じように、私たちも霊の乳、すなわち神の御言葉を慕い求めるとき、自分を支配しているものから手を放し、解放されるのです。そして、そのようにしてこそ、イエス・キリストの素晴らしさを味わうことができます。これこそが、キリスト者としての生き方なのです。
私たちがキリスト者であるということは、神の真理である御言葉を慕い求め、それによって主の恵みを味わうことです。すなわち、それはイエス・キリストをさらに深く知ることに他なりません。ここでの「知る」という言葉は、単なる知識として知ることではなく、親密な交わりを意味しています。イエス・キリストとの親しい関係を持つことによって、私たちの霊的成長が促されるのです。そして、イエス・キリストと繋がることは、イエス・キリストの性質を味わうことに繋がり、さらには教会の交わりを深めることになります。この点で、論理的なパウロとは異なり、ペテロは自身の経験に基づく表現を重視しています。自分が実際に味わっていることを言葉で表現するのは難しいことですが、ペテロがここで言おうとしているのは、料理や食事の味についての感想や評価を述べることではなく、実際にそれを味わっているという事実の重要性を強調しているのです。
牧師は、聖書のメッセージを伝える務めが与えられていますが、皆さんに御言葉の神学的な意味や釈義を示す前に、自分自身がその御言葉をどれだけ深く味わっているかが求められています。乳飲み子は、母親の乳に含まれる成分に関係なく、その味わいを経験しているのと同様に、牧師も御言葉を味わう経験をしなければなりません。もちろん、私が味わったそのままの御言葉を伝えているわけではありませんが、最も重要なのは、各々が御言葉を直接味わうことができるということです。そして、実際にその味わいを体験していただくことが必要なのです。
他の人から聞いたことと、自分で直接味わった御言葉は異なります。私たちは、イエス・キリストとの出会いや御言葉の味わいの証しを互いに聞き、感動することがあります。しかし、その証しを聞いて感動したとしても、それが直接的な霊的な栄養にはなりません。つまり、自分自身が御言葉を慕い求め、味わうことがなければ、霊的に成長することも、救いの恵みを受けることもないのです。生まれたばかりの乳飲み子の姿は、まさに私たちの姿です。私たちは、例外なく、神の御言葉を渇望し、求めて生きているのです。乳飲み子は乳に対する深い知識を持っていたり、それをうまく説明する力があるわけではありません。しかし、乳飲み子は乳の味わいを知り、他のものとの違いを区別することができるのです。同様に、私たちに大切なのは、御言葉に対する深い知識を持ち合わせ、それを説明する力を養うことではなく、御言葉の味わいを知り、それを求め続けることなのです。
“あなたがたは、主がいつくしみ深い方であることを、確かに味わいました。” 3
“私たちは知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。” ホセア6:3
パウロは、ピリピ人への手紙3章7節で、次のように語っています。かつて彼が価値があると考え、誇りにしていたものは、今では無価値だと感じるようになりました。これまで大切だと思い、手放せなかったものが、イエス・キリストによって、実は大切ではなく、むしろ捨てるべきものであると気づかされたのです。つまり、彼の価値観は一変し、本当に捨てるべきものと、そうでないものを正しく見分けることができるようになりました。なぜなら、パウロ自身がイエス・キリストと出会い、その素晴らしさを味わうことで、そのことを実感したからです。
皆さんも、イエス・キリストの素晴らしさを日々味わっているでしょうか。一人ひとりが純粋な霊の乳を慕い求める者でありたいと願い、それによって本当の価値がわかる者として成長したいと思っています。そのためには、捨てるべきものを捨て、そのようなものを遠ざけていく必要があるのです。
繰り返し言いますが、私たちはイエス・キリストによって新しく生まれ、神の家族となりました。神の家族には、誰が偉いとか、偉くないとかはありません。礼拝をきちんと守れないとか、十分に奉仕ができなくても、何も引け目を感じる必要はないのです。教会では、そのようなことで人を裁くことはありませんし、あってはならないことです。また、人の弱さや失敗で評価することもありません。「悪意」「偽り」「偽善」「ねたみ」「悪口」などの類のものも遠ざけなければなりません。それらは、私たちの霊的成長を阻害するばかりか、愛の交わりを妨げてしまうのです。互いに熱く愛し合う関係には相応しくないものです。
私たちは、神から恵まれた霊の乳、すなわち神の真理の言葉を受けて、イエス・キリストの素晴らしさに心満たされ、キリストのご性質を求めていく関係に生かされている者なのです。ですから、そのような交わりを妨げるものを排除しなければなりません。それこそが、教会の交わりが互いに癒し、励まし、慰め、力づける関係であり続けるための道であり、私たちの霊的成長を促すものなのです。そのような愛の交わりを築いていくことを、心から祈り求めていきたいと思います。
“しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。” ピリピ3:7
Author: Paulsletter