1月12日メッセージ
小平牧生牧師
「私たちは大いに喜んでいる」
(ペテロから私たちへの手紙②)
ペテロの手紙第一1章3~9節
紀元1世紀、多くのキリスト者たちは、イエス・キリストを信じるがゆえに、苦しみ、虐待や迫害を受けていました。エルサレムでは、同胞であるユダヤ教徒による迫害が始まり、その影響はディアスポラ(離散)のユダヤ人が集まる地域にまで広がりました。迫害が最も激化したのは、皇帝ネロの時代です。64年7月、ローマで発生した大火がキリスト教徒による放火と断定されたことで、迫害はさらに激しさを増しました。そんな中、ペテロの手紙第一は、困難と迫害に直面するキリスト者たちに励ましと希望を与える手紙となっています。手紙の冒頭(1章3節)では、ペテロが神の大いなる憐れみによって、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して新しく生まれ、「生ける望み」を持つことができるようになったことを語り、神を賛美しています。
「新しく生まれる」とは、神に背き、霊的に死んでいた状態(罪)から、悔い改めによって新しい命を得ること、すなわち「新生」を意味します。これは、創造主である神の「かたち」に回復されることを指しています。さらに、神は新しく生まれ変わる者に「生ける望み」をも与えました。「生ける望み」は、英語版の聖書で “a living hope” と表記され、直訳すると「生きている希望」と言えるでしょう。それは、単なる願望や不確かな期待ではなく、現在も未来も力強く生きて働かれる神によって与えられる、確かな希望なのです。ペテロは、この神の愛と恵みに対し、感謝と喜びの言葉で応えています。さらに、1章8節では、キリストへの信仰がもたらす喜びを「言葉に尽くせない、栄に満ちた喜びに踊っています」と表現しています。
激しい迫害の中で苦しむはずのキリスト者たちが、それでも喜びに満ちあふれ、「生ける望み」を持ち続けていたのはなぜでしょうか。今朝は、この「生ける望み」について考察していきたいと思います。
① 与えられた救いのゆえに
「生ける望み」とは、神の視点から見た永遠の希望を指します。それは、朽ちることも汚れることも消え去ることもなく、永遠に存続する確かな希望です。この希望は、私たち自身の努力や願望によるものではありません。イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって、聖霊による新しい命が与えられ、私たちは神の性質にあずかる者とされたのです。
私たちは、イエス・キリストの十字架に対する信仰の結果として、すでに霊的な回復(救い)を得ています。しかし、その救いは、イエス・キリストが再び来られるときに、完全な形で成し遂げられるのです。そしてそのとき、私たちはこの完全な救いを享受することができるのです。これは「神の子」とされた者に与えられた特権であり、この特権は神の恵みによって一方的に与えられたものです。「神の子」とは、神を「アバ父」と親しく呼ぶことのできる関係を意味します。また、「神の子」として、私たちはイエス・キリストと共に神の財産を受け継ぐ者とされているのです。
これこそが、私たちに与えられた「生ける望み」であり、永遠の希望です。私たちは、この救いが与えられたことに大いに喜んでいるのです。
“私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。” 1:3
“この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。” ローマ5:5
② 備えられている御国のゆえに
イエス・キリストによる救いの要素として、「信仰義認」、「新生」、「神の子とされる」という教義があります。これらの教義はすべて神の恵みと愛に基づいており、救いの完全性を示しています。「信仰義認」は救いの基盤であり、「新生」はその内面的な変化を示し、「神の子とされること」は信者の特権と永遠の希望を確立します。この3つを通じて、キリスト者は神との深い関係に入り、地上でも天においても永遠の希望を持つことができるのです。
ヨハネによる福音書3章では、イエスがニコデモに「新しく生まれる(新生)」についての核心的な教えを語っています。
“人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。”(ヨハネ3:3)
ここで言う「新しく生まれる」とは、霊的な誕生を指します。それは単なる肉体的な誕生ではなく、罪によって神から離れていた人間が霊的に再生し、新しい命を受けることを意味します。また、「神の国を見る」とは、神の国、すなわち神の支配と祝福を経験することを指します。したがって、霊的に新しく生まれなければ、神の国を理解したり、そこに入ったりすることはできないのです。
さらに、イエスは次のようにも語っています。
“人は水と霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。”(ヨハネ3:5)
ここでの「水」は悔い改めと清めを象徴しており、バプテスマ(洗礼)によって罪が清められることを意味します。一方、「霊」とは聖霊を指し、新生をもたらす主体的な存在です。聖霊の働きによって、人は新しい命を受け取るのです。したがって、イエス・キリストを信じる証として罪を悔い改め、バプテスマを受け、新生することによって、神の国に入ることが可能となります。すなわち、イエス・キリストを信じる者は、新しく生まれることによって神の子とされ、神の財産を受け継ぐ相続人としての権利を得るのです。キリスト者に約束されているのは、地上の一時的な富や名声ではなく、永遠に失われることのない神の国の財産です。そして、この相続権は、神の国の財産を相続分に応じて分け与えられるものではなく、神の国そのものを受け継ぐというものです。
“また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。” 1:4
へブル人への手紙11章13節で言及されている「これらの人々」とは、同章で挙げられた信仰の偉人たち、すなわちアベル、エノク、ノア、アブラハム、サラなどを指します。彼らは神の約束を信じ、信仰によって生きた人々です。地上での生涯において、神が約束された完全な祝福を受けることはありませんでしたが、それでもなお、約束が将来成就することを信じて希望を抱き続けました。彼らの信仰は目に見える成果や物質的な富に基づくものではなく、これらはやがて朽ちて消えていくものです。むしろ、彼らの信仰は神の永遠の約束そのものに根ざしていたのです。彼らは、地上での生活を一時的なものとして捉え、真の故郷を天に求めていました。
この姿勢は、信仰者が地上の事柄に執着せず、神の国を最終目的地として生きるべきであることを示しています。 私たちは、神によって備えられている御国のゆえに、心から喜ぶことができるのです。
※注 この御言葉は、牧生牧師が献身の決意を固めたときに、西岡稔氏から激励の言葉としていただいたものです。この御言葉を読み返すたびに、当時の思いがよみがえり、今でもこの御言葉に励まされています。
“これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。”ヘブル11:13
③ 神の愛と守りのゆえに
私たちは、イエス・キリストによって新しく生まれ、永遠の命を与えられ、神の国が備えられています。しかし、イエス・キリストによって新しくされたとしても、現実には苦しみや困難が依然として伴っているのです。私たちはすでに神の国に入る者として約束されていますが、仮にこの世の力が私たちの肉体の命を奪うことがあったとしても、私たちに与えられた永遠の命を失うことはありません。しかし、この地上では、私たちの確信を奪おうとする悪の力が活発に働いているのも現実です。試練や悲しみが絶えることがないのです。まさに、この手紙の受け手たちもそのような状況にあったのです。そのような受け手たちに対して、ペテロが述べた励ましの言葉が、5節から7節までに記されています。特に、ここに登場する三つの「時」について注目したいと思います。
ペテロは三つの「時」を挙げています。一つ目は「終わりの時」、二つ目は「今しばらくの間」、そして三つ目は「イエス・キリストが現れるとき」です。「終わりの時」とは救いが完成する時、すなわち「イエス・キリストが再び現れるとき」を指します。また、「今しばらくの間」とは、現在とイエス・キリストの再臨による救いの完成の時をつなぐ期間を意味します。ペテロは、「終わりの時」または「救いの完成の時」が約束されている一方で、その時に至る「今しばらくの間」には、試練の中で悲しまなければならないと言っています。それでも、この期間における信仰は、「火で精錬された金よりも高価」であり、「称賛と栄光と誉れをもたらすもの」だと言うのです。
やがて「終わりの時」にイエス・キリストが再臨されるとき、私たちは完全な救いを享受することになります。それまでの間、試練の中で悲しむ時を経験しなければならないとしても、私たちは神の力によって守られると約束されています。この約束こそ、私たちの信仰の土台であり、人生の指針となるものです。
私たちは、この地上における苦難や悲しみの中で、決して打ちひしがれることなく、イエス・キリストに従い続ける中で、痛みや苦しみを経験し、時には命を奪われるという現実に直面するかもしれません。しかし同時に、その経験を通して、与えられる完全な救いの素晴らしさ、永遠の命がもたらす力を改めて確認することができるのです。それは単に苦しみや困難を耐える力が与えられているだけではなく、イエス・キリストのために重荷を負う力も与えられているのです。どの程度の長さかはわかりませんが、この「しばらくの間」が経過するとき、必ずイエス・キリストは再臨し、救いを完成してくださいます。その時まで、主は私たちを守り、天の御国に招いてくださるのです。
ペテロは、火のような迫害を受けている教会に対して、励ましと希望の手紙を書き続けました。私たちは現実を見つめる必要がありますが、まずは約束された生き生きとした希望を持ち続けたいと思います。困難に打ち勝つ力の源泉は私たち自身にはなく、神が与えてくださる希望によるものであることを、イエス・キリストにすべてをお委ねして「今しばらくの間」を待ち望む者でありたいと願っています。
“あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現されるように用意されている救いをいただくのです。 そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、試練で試されたあなたがたの信仰は、火で精錬されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現れるとき、称賛と栄光と誉れをもたらします。” 1:5-7
“…私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いたちも、支配者たちも、今あるものも、後に来るものも、力あるものも、高いところにあるものも、深いところにあるものも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。” ローマ8:31-39
Author: Paulsletter