「神によって選ばれた人たちへ」

1月5日メッセージ
小平牧生牧師
「神によって選ばれた人たちへ」
(ペテロから私たちへの手紙①)
ペテロの手紙第一1章1~2節

 ペテロは、ガリラヤ湖の北東にあるベツサイダという町出身の漁師でした。彼はガリラヤ湖のほとりでイエスに召し出され、網を捨ててイエスの弟子として従うようになりました。『使徒の働き』にも記されている通り、ペテロはもともと無学で平凡な人物であり、宗教的な権威や学識を持ち合わせていませんでした。また、社会的な地位も高くなく、特に際立ったリーダーシップを発揮していたわけでもありません。それにもかかわらず、ペテロは弟子たちの中でイエスに最も近しい存在となり、重要な役割を担うようになりました。イエスが「あなたたちは私を何者だと思うか」と問いかけた際、ペテロは「あなたは生ける神の子です」と告白し、その信仰をイエスに称賛されました。しかし、その後、ペテロは何度も失敗を重ねることになります。

 たとえば、イエスがご自身の受難を予告された際、ペテロはそれを否定し、「サタン、引き下がれ」とイエスから厳しく叱責されました。また、イエスが弟子たちの足を洗われた際には、ペテロは「足だけでなく、手も頭も洗ってください」と発言し、イエスの意図を理解せず軽率な言葉を口にしました。

 ペテロの最も決定的な失敗は、イエスが捕らえられたとき、彼がイエスを三度「知らない」と否認してしまったことです。最後の晩餐でイエスは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と予告されましたが、ペテロは「たとえご一緒に死ななければならなくても、あなたを知らないとは決して言いません」と豪語していました。しかし、その約束にもかかわらず、彼はイエスを否認してしまったのです。

 このように、ペテロは多くの失敗と挫折を繰り返しましたが、それらを通してイエス・キリストによって新しく造り変えられていったのです。

 この手紙の冒頭に記されているポントス、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、およびビテニヤという地域は、聖書の歴史地図を確認すると、小アジアの南部を除いた地域に該当します。ガラテヤとアジアはパウロが宣教した地域として知られています。その他の地域については、パウロが直接伝道した記録はありませんが、離散したユダヤ人たちが暮らしており、そこがキリスト教の活動の中心となっていたと考えられます。

 ペテロは、聖霊降臨後の大説教に続き、原始教会の活動がエルサレムからアンティオキアへと移るまでの間、ヤコブやヨハネと共に教会の指導者として重要な役割を果たしました。その後、彼はエルサレム教会の指導をヤコブに託し、自らはエルサレムを離れました。それ以降のペテロの活動については、この手紙の冒頭に記されているように、小アジアの黒海沿岸地域を巡りながら各地のユダヤ人に伝道したと伝えられています。

 この手紙は、ローマ帝国による迫害やさまざまな試練に直面していたキリスト者たちに向けて書かれたものであり、信仰を堅持し、その信仰の証しとなるよう励ますことを目的としています。その内容は、今日の私たちにとっても多くの学びを与えるものとなっています。

 今朝は、この手紙の冒頭に記された挨拶の言葉を通して、イエス・キリストを信じ従う私たちがどのような存在であるのかを共に考えてみたいと思います。

① 選ばれているということ

 ペテロの手紙第一は、冒頭で「使徒ペテロ」からポントス、ガラテヤ、カパドキヤ、アジア、およびビテニヤに散らされ、寄留している「選ばれた人々」に宛てられたことが明記されています。差出人は「使徒ペテロ」、宛先は「散らされ、寄留している選ばれた人々」です。この冒頭から、ペテロが神によって選ばれた者たちに向けて手紙を書いていることがわかります。ペテロ自身は、自らの肩書きを躊躇なく「使徒」と記していますが、彼はここに至るまで数々の失敗を経験してきた人物でもあります。その彼が、晩年にはネロの迫害によって殉教したと伝えられています。この手紙は、いわば彼の遺言ともいえるものであり、イエス・キリストの「使徒」としての自負が冒頭から力強く伝わってきます。さらに、この手紙には、ペテロが自らを「使徒」として認識する背景にある深い思いが反映されています。つまり、かつての失敗と挫折を繰り返していた自分がイエス・キリストの「使徒」として存在できているのは、神の恵みによるものであり、神によって選ばれたことへの感謝と謙遜の思いが溢れているのです。

“イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち…” 1

 イエス・キリストを信じて従うようになった私たちは、自分で選んだのではなく、イエス・キリストによって選ばれたのです。それは、ペテロの姿からもわかるように、選ばれるにふさわしいからではなく、ただ神の憐れみと恵みによるものです。私たちは、他人に強制されて信じたわけではなく、自分の意志で信じています。ペテロも、イエスに召し出された際、自らの意志で網を捨ててイエスに従いました。しかし、信じるかどうか、洗礼を受けるかどうか、従うかどうか、自分の選択のように思えることも、実際には神の意志とご計画によるものなのです。自分の力だけでは永続的に従い続けることはできません。ペテロが途中で諦めなかったのではなく、神がペテロを諦めなかったのです。そして、ペテロ自身も晩年になってその事実を深く理解するようになったのです。

“あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます。”ヨハネ15:16-17

② 散って寄留している人生

 寄留者とは、戦争や災害、飢饉、その他の不運によって元々の居住地を離れ、他の場所に居住を余儀なくされた者を指します。ユダヤ人の歴史では、紀元前8世紀にアッシリア帝国がイスラエルの北部に侵入し、多くのイスラエル王国の住民を強制移住させたことに始まり、続いて前6世紀のバビロニア帝国による捕囚や紀元1世紀のローマ帝国のエルサレム崩壊により、パレスチナ以外の地に散らされました。このような「散らされた者たち」を、いわゆる「ディアスポラ」と呼びます。ユダヤ人は、自分の意志ではなく、外的な力によって散らされ、その地で生活を余儀なくされたのです。パウロもその「ディアスポラ」のユダヤ人の一人でした。

 イエス・キリストの十字架の死と復活、そして昇天の後、福音宣教が始まり、弟子たちはエルサレムで宣教活動を続けていました。しかし、次第に彼らの教えがユダヤ教の伝統と対立するようになり、一部のユダヤ教徒から反発を受けるようになりました。特に、イエスをメシアとして信じるキリスト教徒の教えがユダヤ教の伝統的な教義と相容れなかったため、迫害が強まりました。信者たちはエルサレムから散らされ、これにより新しい土地で教えを広めることとなり、教会は地中海世界全体に広がっていったのです。このように、散らされて外国に寄留しているキリスト者たちは、神から選ばれた者であることが、この手紙の冒頭の挨拶から読み取れるのです。

“イエス・キリストの使徒ペテロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアに散って寄留している選ばれた人たち…” 1

 信仰者は、地上では旅人であり、寄留者です。今いる場所は最終的な目的地ではありませんので、置かれている立場や物質的な豊かさに執着する必要はないのです。信仰者が目指しているのは、地上のどんな場所よりも優れた天の故郷です。そこは、神との完全な交わりが実現される場所であり、神の約束が成就する永遠の住まいなのです。

 私たちは、イエス・キリストによって救われ、天に国籍を持つ者です。本籍は天にあり、地上にある住まいは、住民票のある居住地に過ぎません。私たちも同様に、この地上にあっては旅人です。今滞在している場所は、通過点に過ぎません。ですから、この地上の価値観に従って生きる必要はなく、また生きてはならないのです。私たちは、神の愛と恵みを証しする目的と使命をもって、この地上に散らされ、寄留しているのです。

“これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。…彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。”ヘブル11:13-16

“しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。” ピリピ3:20

③ 神が関わり続けてくださっているということ

 この手紙の受取人たちは、あらかじめ神の計画の中で意図的に選ばれた存在であり、さらに聖霊による聖別によって清められています。自分が何者であるのかというアイデンティティを持ちながら、汚れ、不品行、愛のないことを捨てて、自分を聖別して生きるのです。旅の恥は掻き捨てと言いますが、聖書的には、この地上にあっても、意識的に自分を聖別していかなければならないのです。それを成し遂げることができるのは、自分の持っている義や正しさではなく、聖霊の働きによるものです。私たちは、主イエス・キリストの十字架の血潮によって罪を赦され、神の聖霊の働きを享受することができ、清めの恵みを受け取ることができます。神によって選ばれているということは、そのように導かれているということです。父なる神、子なるイエス・キリスト、聖霊の三位一体の神、すなわち、神に選ばれ、十字架の贖いに預かり、聖霊による聖別を受けて、この地上では旅人である私たちに関わり続けてくださるのです。各地に散らされている信仰者たちのように、私たちもまた、散らされた場所で生かされていくように、天を仰ぎ見つつ、新しい日々を歩んでいきたいと願う者です。

“すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。” 2

Author: Paulsletter