「私の子よ、神の人よ」

1月1日元旦礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「私の子よ、神の人よ」
テモテへの手紙第二 2章1~7節

 今朝の聖書箇所は、昨年に引き続いて教団標語となったテモテへの手紙第二 2章1~7節からです。

 テモテへの手紙第二は、テモテへの手紙第一およびテトスへの手紙とともに、牧会書簡と呼ばれる三つの書簡の一つです。テモテへの手紙第一は、パウロが第一回目の投獄から釈放され、宣教活動を再開していた紀元64〜65年頃に書かれたもので、教会運営に悩むテモテに対して個人的な助言を送った内容です。一方、第二の手紙は、パウロがローマで二度目の投獄を受けていた紀元67年に書かれたもので、牧会者(監督者)としての励ましや、不法が蔓延する時代への警告を含む、彼の遺言ともいえる手紙です。

 テモテは、小アジアのリカオニア地方リステラの出身で、父はギリシア人、母はユニケという名前のユダヤ人でした。パウロが第二回伝道旅行で再びリステラを訪れた際、純真で素直な性格を持つテモテがパウロに見いだされ、祖母ロイスと母ユニケから受け継いだ深い信仰に感銘を受け、同伴者として連れて行くことを決心しました。このとき、ユダヤ人につまづきを与えないために、テモテに割礼を施したとされています。
パウロの異邦人伝道が成功を収めたのは、テモテのように堅い信仰を持つ協力者の存在があったからであり、テモテをはじめとする彼らの支えによって、パウロも大いに励まされたことでしょう。その後、テモテはパウロと共にマケドニアへ渡り、さらにパウロがギリシアに向かった後も、シラスと共にマケドニアの諸教会(ピリピ、テサロニケ、ベレア)のために尽力しました。

 リーダーシップに関する原則を表現したフレーズに、“Success is creating successors to carry it forward”という言葉があります。これは、「真の成功とは一時的な成果を得ることではなく、その成功を引き継ぎ、発展させる次世代や後継者を育てることにある」という意味です。また、クリスチャン・シュヴァルツの『自然な教会成長』における「増殖の原則」も、この考えに通じます。リンゴの木は、ただ一つのリンゴを実らせるだけで終わることはありません。そのリンゴには種が含まれており、適切な条件下で新しいリンゴの木を生み出すことができます。つまり、教会やその活動も単発の成果に満足せず、新たな「リンゴの木」を生み出す「再生産の力」を持つべきだということです。私たちは、与えられた救いの喜びを自分の中にとどめるだけでなく、「神の子」としてその愛を証しし、その喜びを他の人々にも伝え、彼らを救いへと導く使命を担っています。また、「神の子」となるよう人々を導くと同時に、その使命を共有し、ともに成長できる次の世代の協力者を育てる必要があります。新しい年を迎え、私はそのことに本気で取り組まなければならないと感じています。

 今朝は、パウロとテモテの関係を通して、どのようにその取り組みを始めるべきかを見ていきたいと思います。

① 「私の子」と呼ばれるテモテ

 テモテは、パウロから「信仰による真のわが子」と呼ばれるほど深い愛情を注がれた人物であり、パウロの腹心の同労者として次世代の教会を担う存在へと成長しました。この手紙が書かれた時点で、テモテはエペソ教会の牧会者(監督者)となり、教会を導く重要な責任を託されていました。当時、教会内では偽教師によってパウロの教えとは異なる教えが広まり、信仰を捨てる人々も現れていました。しかし注目すべきは、パウロがテモテを「私の子」と呼ぶほど深く愛し、教会の監督や指導に関する励ましや注意を単なる叱咤激励にとどまらず、愛情を込めてその教えを伝えていたことです。この愛情深い指導を通して、テモテはパウロの信仰と使命を受け継ぎ、それを次世代へと伝える役割を担いました。

 教会とキリスト者の信仰の根底にあるのは、イエス・キリストによって神の子とされたことへの喜びです。私たちも、「神の子」とされた喜びをもって「アバ、父」と叫び、自分が神の子であるという確信を得ることができるのです。

“私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となったパウロから、信仰による、真のわが子テモテへ。” テモテ第一1:1-

“あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。” ローマ8:15-16

② 「私の子」と呼ぶパウロ

 テモテを「私の子」と呼ぶのは、パウロの視点から見た呼び方です。パウロがテモテを見出したのは第二回伝道旅行(紀元50年~52年頃)ですが、この手紙が書かれた紀元65年までには約15年の歳月が経過しています。その間にテモテは成長し、エペソ教会で責任ある立場を担うようになりました。それにもかかわらず、パウロは恥じることなく、今もなおテモテを「私の子」と呼び続けています。

 人を育成することは一人ではできません。それは家族や教会などの共同体を通じて育まれるものです。時には厳しい指導を受け、時には励まされながら成長していきます。そして、私たち一人ひとりも神の子として使命を託されています。私たちは、自分に与えられた信仰を次世代に伝え、「私の子」と呼べる人々のために愛情をもって祈り、支え続けるべきです。「私の子」とは、単に自分の子どもを育てることだけでなく、将来の「父母」になる存在を育てることを意味します。また、それは単なる「生徒」を教えることではなく、将来の「先生」になる人々を養うことでもあります。次世代の使命を担う人々を愛と責任をもって育てることこそ、私たちに託された重要な役割なのです。

 さらに、テモテがパウロから受けた教えを次世代に伝えたように、私たちもイエス・キリストの弟子としての使命を自覚し、それを他の人々に伝えていく者であり続けるべきです。この使命は、ただ受け継ぐだけでなく、愛と信仰によってさらに広げていくことが求められています。

“ですから、私の子よ、キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。多くの証人たちの前で私から聞いたことを、ほかの人にも教える力のある信頼できる人たちに委ねなさい。…” 2:1-

“しかし主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである」と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。ですから私は、キリストのゆえに、弱さ、侮辱、苦悩、迫害、困難を喜んでいます。というのは、私が弱いときにこそ、私は強いからです。” 2コリント12:9-10

③ 「神の人よ」と呼ばれるテモテ

 「神の人よ」という呼びかけは、旧約聖書において預言者や神に仕える特別な人々に使われていました。例えば、モーセ、エリヤ、ダビデなどが「神の人」と呼ばれています。この表現は新約聖書でもテモテへの手紙に二回登場します。

 一つ目は、テモテへの第一の手紙において、パウロが「私の子」であるテモテに向けて「神の人よ」と呼びかけた箇所です。ここでは、エペソ教会の指導者としてのテモテの使命に焦点が当てられています。パウロは、神に召された特別な存在としてのテモテを励ましつつ、彼がその責任を果たすようにとの警告を込めてこのように呼びかけました。

 二つ目は、テモテへの第二の手紙(3:16-17)で使われています。この「神の人」という表現は、神によって召された者、すなわち、主に牧会者や教師などの指導者に指しています。しかし、この表現はそれらの役職に限定されるものではなく、すべての信仰者にも適用されます。すべてのキリスト者は神に仕えるために召されており、それぞれの使命を果たすために備えられる必要があるからです。したがって、神に召されたすべてのキリスト者は「神の人」として、神の働きを担う存在です。

 私たちに求められているのは、教会での奉仕、福音の宣教、他者への愛の実践といった使命に応えることです。これらは単なる活動ではなく、神からの呼びかけであり、私たち一人ひとりが果たすべき務めなのです。

“しかし、神の人よ。あなたはこれらのことを避け、義と敬虔と信仰、愛と忍耐と柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い、永遠のいのちを獲得しなさい。あなたはこのために召され、多くの証人たちの前ですばらしい告白をしました。…” テモテ第一6:11

“聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。” 3:16-

Author: Paulsletter