救い主のご降誕を祝った私たちが待ち望むのは、究極的にはイエス・キリストの再臨です。キリストは、十字架においてご自身を犠牲としてささげるために初めて地上に来られましたが、再臨の時には、神の国を完全に実現し、すべての創造物を新たにするために来られます。その時、イエス・キリストによって罪を赦され、永遠のいのちを与えられた私たちは、キリストと共に永遠の喜びを分かち合い、栄光に満ちた体を受けることになります。さらに、最後の審判が行われ、罪と死の支配者である悪魔は完全に滅ぼされます。そして、神の計画の最終的な完成として、完全な神の支配、すなわち新しい天と新しい地が実現します。すべての霊と体、そしてこの世界のすべてが救いを受け、神の栄光が完全に現れるその時が訪れるのです。
聖書における終末の記述は、「黙示録(ヨハネの黙示録)」や旧約聖書の「預言書」などに多く見られます。このテーマは解釈が難しく、時代や神学的立場によってさまざまな見方が存在します。特に「黙示録」の原語であるギリシャ語「ἀποκάλυψις(アポカリプシス)」は、「隠されたものを明らかにする」という意味を持ちます。黙示文学の一例であるこの書物には、象徴や比喩的な表現、幻の描写が多く含まれており、一見すると非常に難解です。また、ヨハネの黙示録は、聖書全六十六巻の最後を飾る書物として重要な役割を果たしています。創世記に始まる神の救済計画が、新約聖書の終末論的希望として成就する様子を描き、聖書全体のクライマックスを形成しています。このように、黙示録は神学的視点から見ても、聖書に加えられる意義を持つ重要な書物と言えます。
聖書の目的について、ヨハネは、イエス・キリストを救い主として信じることにより永遠のいのちを得ることを強調しています。一方で、パウロは、聖書を「神に創造された私たちが教えや戒めによって整えられ、義の訓練を受けるための書物」と位置づけています(テモテへの手紙二 3:16-17)。
終末には何が起こるのか、多くの人々が関心を寄せる終末論的な出来事―大規模な災害、戦争、飢饉や疫病、偽キリストの出現など―これらの出来事に対する解釈は、神学者や教派によって多岐にわたります。ある神学的視点では、艱難時代やキリストの再臨を将来の具体的な出来事として捉え、一方では過去の歴史的な出来事として解釈する立場なども存在します。どの解釈が正しいのかを断定することは困難です。
しかし、重要なのは、これらの具体的な出来事や解釈そのものではなく、イエス・キリストの十字架の死と復活によって与えられた救いが、どのように完成へと向かうのかという点です。本日のテーマは、この「完成される救い」が何を意味し、私たちがその完成を目指してどのように生きるべきかを、共に考察したいと思います。
① キリストの花嫁とされる私たち
黙示録は、しもべヨハネがパトモス島で神から受けた幻を記したもので、紀元96年頃に書かれたとされています。ペテロやパウロが殉教したのは、ネロ帝による迫害の時代(紀元64年~68頃)と考えられており、このことから、十二使徒の中でヨハネを除く弟子たちは、この時期にはすでに亡くなっていたと推測されます。ヨハネ自身も、ドミティアヌス帝の統治下で島流しにされるという厳しい状況に置かれていました。当時の教会やキリスト者の状況は、黙示録の1~3章に記されている小アジアの七つの教会の姿に良く表れています。それは、「最初の愛」を失った教会、迫害に直面していた教会、偶像礼拝や異教的な行為に引き寄せられた教会、貧困に苦しみながらも偽預言者の教えが広がっていた教会、外見的には生きているように見えながら霊的に死んでいた教会、そして物質的には豊かでありながら霊的に「ぬるい」状態に陥っている教会など、さまざまな状況が描かれています。
※注 黙示録の著者は自身がヨハネと称していますが不明な点が多いです。従来、このヨハネをゼベダイの子、使徒ヨハネとする説が支配的でしたが、これを否定する説も存在しています。
歴史を振り返ると、ローマ帝国でキリスト教が公認されたのは313年のミラノ勅令によるもので、この勅令は皇帝コンスタンティヌス1世とリキニウス帝によって発布され、キリスト教は合法的に信仰されるようになり、信者に対する迫害は終わりました。さらに、キリスト教がローマ帝国の国教として正式に宣言されたのは、380年のテオドシウス1世の治世の時です。したがって、紀元1世紀のこの時代において、キリスト教が公認され、国教化されることを予想する者は誰もいなかったでしょう。当時のキリスト者の人口比率は約1%ほどであり、迫害の中にあった教会は、まさに消えかけているかのような状況にあったと言えるでしょう。
黙示録21章1~3節によれば、ヨハネは新しい天と新しい地を幻として見ます。ここで「新しい天と新しい地」とは、創世記に記された古い天と地が消え去り、全く新しい創造が示されたものを指します。この幻を通じてヨハネは、神の救済計画が最終的に完成する希望のメッセージを記しています。この幻は、黙示録20章の出来事に続くものです。20章では、殉教者や信仰を守り通した者たちが復活し、白い御座に座る神の前に立たされます。そこで、「数々の書物」が開かれ、それに基づいて全ての人が裁きを受けると記されています。「数々の書」には人々の行いが記録されており、「命の書」には永遠の命を得る者の名前が記されています。
そして21章では、これらの救われた者たちが聖なる都、新しいエルサレムに迎え入れられます。ここで描かれる新しいエルサレムは、イエス・キリストによって贖われた聖徒たち、すなわち「普遍的教会」と呼ばれるすべての信者を指しています。この場面では、神との完全な関係が実現する様子が示されています。それは単に罪の赦しにとどまらず、「夫に対する花嫁」にたとえられるように、イエス・キリストと信者たちの愛の交わりが完全に実現することを意味しています。
“私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとから、天から降って来るのを見た。私はまた、大きな声が御座から出て、こう言うのを聞いた。「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。…」” 2-3
私たちは、ただ神の恵みによって、イエス・キリストの十字架の死と復活を通して罪が赦され、神の前に義(神から見て正しい状態)と認められたのです。ですから、神の救いは単なる「心の持ち方」や「死後に初めて分かるもの」ではありません。それは既に事実として成就しており、私たちは永遠の命を与えられ、神の子とされているのです。さらに、神の救いとは罪の赦しにとどまらず、「神と共にあること」を意味し、それがやがて完全に実現するのです。すなわち、新しい天と新しい地において、私たちは完全で永遠に神と共にいることができるのです。
旧約時代には、人が神と共にあるためには「聖所」と呼ばれる幕屋や神殿に行かなければなりませんでした。神の臨在は幕屋や神殿の奥の部屋「至聖所」に限定されており、そこに立ち入ることが許されていたのは、一部の選ばれた者、つまり大祭司だけでした。しかし、神の子であるイエス・キリストが地上に遣わされ、人として十字架に架かられた後、復活し天に昇られたことにより、聖霊なる神が私たちの内に住まわれるようになりました。これは、神が私たちと共におられる確かな証です。さらに、やがてイエス・キリストが再び来られるとき、神と人間の間の隔たりは完全に取り除かれます。そのとき、神の臨在が直接的かつ永続的に人々と共に存在する現実が実現するのです。
“しかし今や…神の義が示されました。すなわち、イエスキリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリストイエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。” ローマ3:21-
② 神のかたちとして回復される私たち
神は私たちを「神のかたち」として創造されました。「神のかたち」とは、神との交わりの中で生きること、神を信じる者たちが互いに愛し合うこと、そして神に代わってすべての被造物を治めることを意味します。しかし、人間は神に背いたことにより、この「神のかたち」が損なわれました。罪によって、私たちは神との断絶状態に陥ったのです。しかし、私たちはイエス・キリストを通して、聖霊の働きにより、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられるのです。つまり、私たちはイエス・キリストという新しい衣を着せられ、私たちを創造された方のかたちとして、新しくされ続けるのです。今、私たちは地上にあっても、「神のかたち」として、完成に向かって回復され続けています。そして、それはイエス・キリストが再臨されるときに完全に成し遂げられるのです。私たちはイエス・キリストを信じたときに、罪が赦され、永遠の命が与えられました。そして、イエス・キリストが再び来られるときには、私たちは身体において復活し、朽ちない「栄光のからだ」を与えられるのです。
人間が肉体的な死を迎え、やがて肉体が復活するまでの期間における霊の状態を、神学的な用語で「中間状態」と呼びます。中間状態について、聖書には明確に定義された記述はありませんが、いくつかの関連する箇所から間接的に推測することができます。たとえば、ルカ16:22では、ラザロと金持ちの話において、死後のラザロが「アブラハムのふところ」で慰めを受けるという描写があります。また、伝道者の書12:7には、「ちり(肉体)は地に帰り、霊は神のもとに帰る」と記されています。さらに、ルカ23:43では、イエスが十字架上で悔い改めた犯罪者に「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイスにいる」と語っています。
死後の霊的状態がどこで、どのようなものかについては、聖書が詳細に教えることを目的としているわけではありません。しかし重要なのは、イエス・キリストを信じる者は、肉体的に生きている間も死後の間も、神の御手の中で完全に守られ、平安の中にいることができるということです。
“神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。以前のものが過ぎ去ったからである” 4
私たちは「神のかたち」の回復と「からだの復活」を経験するだけでなく、神から与えられた被造物への支配権が回復し、神との共同統治者としての使命を持って生きることになります。ですから、私たちの救いが成し遂げられるということは、天国で平安に眠ることを意味するのではありません。私たちに与えられる「新しい天と新しい地」は、霊だけが存在する世界ではないのです。むしろ、朽ちない「栄光のからだ」を持って生きる世界なのです。
聖書が教えている救いとは、死後に天国に行くか地獄に行くかということではなく、「永遠の命」と「体の復活」であり、世々限りなく王として被造物を治めることです。「新しい天と新しい地」には、死も悲しみも叫びも苦しみもなく、すべてが本来の姿に回復されています。そこでは、神の愛と平和がすべてを支配し、すべての被造物が調和の中で愛し合い交わりが保たれ、永遠に続きます。それは、神と私たちの歩みが再スタートする瞬間でもあるのです。
“もはや、のろわれるものは何もない。神と子羊の御座が都の中にあり、神のしもべたちは神に仕え、御顔を仰ぎ見る。また、彼らの額には神の御名が記されている。もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、ともしびの光も太陽の光もいらない。彼らは世々限りなく王として治める。” 22:3-5
③ その時を待ち望んで生きる私たち
ヨハネが幻で見た「新しい天と新しい地」というのは、現在の世界の歪んだ部分をわずかに修正したものではありません。むしろ、以前に創造された天と地、つまり現在の世界秩序や堕落した状態が完全に終わり、神によって新たに創造されることを意味しています。黙示録の象徴的な表現をどのように解釈するかは重要ですが、聖書が明確に記している内容と、自分自身の解釈を混同しないように、細心の注意を払う必要があります。誤解を招かないよう、この点については慎重に扱うべきです。たとえば、1節に記されている「もはや海もない」という表現は、黙示録13章および14章に登場する「海から一匹の獣が上って来た」という記述に関連しています。この「海」は、神に敵対する勢力が存在する場所を象徴しており、「もはや海がない」とは、神に敵対する勢力がもはや存在しないことを意味します。つまり、神が支配する「新しい天と新しい地」が実現することを示しているのです。そして、そこには罪を贖われた者たちの「聖なる都、新しいエルサレム」が、神と私たちが共に生きる場所として天から下って来るのです。
黙示録21章22節を見ると、「神殿は見当たりません」と記されています。通常、神殿は神の臨在を象徴する場所であり、旧約聖書や新約聖書においても、神殿は神と人々との交わりの中心として重要な役割を果たしてきました。しかし、ここでは新しいエルサレムには神殿が存在しないと記されています。これは、神と子羊(イエス・キリスト)が直接その場所に臨在するため、物理的な神殿がもはや必要とされないことを意味しています。そして、「天から下って来る」という表現は、神がそれを与えてくださるということを示しています。私たちの中には、善い行いをしなければ天国に行けないという考えが根強く残っていますが、それは誤解です。神はすべてのものの創造主であり、イエス・キリストが宣言された「しかり、わたしはすぐに来る」という言葉に、私たちは「アーメン。主イエスよ、来てください」と応答するだけでよいのです。
私たちは、すでにこの地上に来られ、十字架の死と復活によって救いを成就してくださったイエス・キリストを覚えつつ、永遠の命がすでに私たちに与えられていることを理解しています。また、「神のかたち」としての回復はすでに始まっており、さらにイエス・キリストが再び来られるときに、「新しい天と新しい地」の完成が成し遂げられます。そして、私たちはその時を待ち望んで生きるのです。重要なことは、天国に行けるかどうかではなく、天国に行くために私たちがしなければならないことは何一つないということです。もし善い行いをしているのであれば、それは天国に行くための条件ではなく、神の国を待ち望みながら善い行いをしているに過ぎません。
神を愛し、互いに愛し合い、神の御心に従ってすべての被造物を治めるために生きるのです。繰り返しますが、救われるために何かをする必要はありません。何かをしなければならないと思うのは、私たちの内に恐れや不安があるからです。しかし、恐れや不安を感じる必要はありません。イエス・キリストがすでに救いを成就してくださったからです。私たちが持つべきものは、喜びと希望なのです。確かに、残念ながら現実の世界には、私たちから喜びや希望を奪うものがあふれています。「アーメン。主イエスよ、来てください」と応答する私たちの祈りが、時に「早く来てくださらないとどうにもならない」という思いから出ていることもあるかもしれません。その気持ちは理解できなくもないですが、私たちを支配しているのは恐れや不安ではありません。私たちに与えられているのは、「新しい天と新しい地」の完成により、神の愛と義と平和を生きることのできる喜びと希望なのです。
“これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。” 22:20
私たちの国籍は天にあるのですから、それにふさわしい生き方をすべきです。地上において、疲れや失望、落胆を感じることもありますが、それでもなお、神の民として生きるのです。パウロが将来の希望について語っているとおり、今、この地上での労苦は、主にあって無駄にはなりません。なぜなら、この地上のものはすべて過ぎ去っていきますが、私たちは新しい朽ちない体を受け、神の国で永遠に生きる希望を持っているからです。私たちの内には聖霊が内住しており、これによって私たちは「神のかたち」として完成しつつあります。ですから、神の御心に従って生きていきたいと思うのです。
“兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。…しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たち。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。” 1コリント15:50-
Author: Paulsletter