これまで何度もクリスマスに関するメッセージをお伝えしてきました。イエス・キリストの誕生にまつわる出来事は、すでに広く知られており、話すべき題材も尽きているように感じるかもしれません。また、聞き手の中には「また同じ話か」と思われる方もいるかもしれません。しかし、私たちはこのクリスマスの出来事から新しい何かを見出す必要はありません。なぜなら、2000年前にイエス・キリストが誕生したという事実そのものが、私たちにとってかけがえのない深い意味を持っているからです。
イエス・キリストの誕生がどれほど素晴らしい事実であっても、それだけでは私たちにとって本当に大切な意味を持つものとはなりません。ルカは、イエス・キリストの誕生を私たちの心に鮮やかに描写していますが、特に象徴的に描かれているのが、飼い葉桶に寝かされたイエスの姿です。この出来事は、一見すると単なる偶然のように思えるかもしれません。しかし、この飼い葉桶に寝かされた姿こそ、救い主の本質を表しているのです。
イエス・キリストの生涯については、四つの福音書に記されていますが、その降誕について記しているのは、マタイとルカによる二つの福音書だけです。さらに、イエス・キリストを「救い主」として紹介しているのはルカだけです。今朝は、ルカの福音書2章に記された飼い葉桶に寝かされたイエス・キリストの姿から、私たちにとっての「救い主」としての意味を考察してみたいと思います。
① 救い主は、現実の歴史の中に
イエス・キリストの誕生物語はおとぎ話ではなく、歴史上で実際に起こった真実です。マタイはイエス・キリストの誕生を、アブラハムとダビデの子孫であることを強調する系図をもって紹介しました。一方、ルカによる福音書の著者は医者であり、歴史家としても知られています。ルカは福音書の執筆にあたり、豊富な資料を収集し、綿密な調査を行い、イエスの生涯や教えを時系列に整理しました。このように、彼は歴史的事実に忠実に記述しており、救い主の降誕の出来事についても同様に詳細に描写しています。
ルカによる福音書の第2章は、当時の歴史的背景に基づいて記述が始まります。初代ローマ皇帝アウグストゥスの時代に、全ローマ帝国の住民に登録を行うよう勅令が発せられました。「全世界」とは、当時ローマ帝国が支配していた地中海地域を指し、現在の地図から見れば非常に限られた地域です。また、現代のような迅速な情報伝達手段はなく、イエス・キリストの誕生を知っていた人はごく一部に過ぎませんでした。しかし、ルカはこの世界の片隅で起こった出来事を、歴史上の重要な出来事として記したのです。
余談ですが、アウグストゥスの正式な称号は「インペラトル・カエサル・ディウィ・フィリウス・アウグストゥス」であり、これは「皇帝としての軍事指導者」、「カエサルの名前を引き継ぐ」、「神格化されたカエサルの息子」、「尊厳ある者」という意味を持っています。彼の治世は紀元前27年から紀元14年までの41年間に及び、この間「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)の時代を築きました。「ローマによる平和」とは聞こえは良いものの、その実態は武力による支配と、征服した国々からの重い税の取り立てに支えられたものでした。ユダヤ地方もローマ帝国の支配下にあり、同様の状況に置かれていました。
アウグストゥスによる住民登録の勅令は、シリア州の総督キリニウスが在任中に初めて実施されました。この住民登録の主な目的は徴税と徴兵でしたが、ユダヤ人には徴兵義務が免除されていたため、納税義務のみが課されていました。その結果、ユダヤの人々は各自の故郷に戻り、登録を行う必要がありました。ヨセフもダビデの家系に属していたため、ガリラヤのナザレから故郷であるベツレヘムへ旅立つことになったのです。そして、そのような時代の中で、イエス・キリストはベツレヘムで誕生されました。
アレクサンドロス大王の時代以降、ギリシャ語は地域ごとの方言が統合され、共通語(コイネー)として発展しました。この言語はヘレニズム世界での主要なコミュニケーション手段となり、新約聖書もコイネーで記されました。そのため、新約聖書は地中海世界の多くの人々に広く読まれるようになりました。また、「すべての道はローマに通ず」という言葉に象徴されるように、ローマ帝国の交通網は紀元前1世紀から紀元1世紀にかけて本格的に整備されました。この交通網は、弟子たちが福音宣教を行う際に大いに活用され、福音が全世界に広がる重要な役割を果たしました。つまり、ローマ帝国が築いた交通網は、神の救いの計画を進展させるために寄与したのです。
アウグストゥスの治世にイエス・キリストが誕生されたことは、まさに神の時が熟した瞬間であり、その背後には深い意味が込められているのです。
“そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。”1-2
“しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。” ガラテヤ4:4
② 救い主は、預言されたとおりに
イエス・キリストの誕生物語は、偶然の出来事ではなく、旧約聖書にあらかじめ預言されていたことが実現したものです。直接的には、先に述べたように、アウグストゥスが住民登録の勅令を出したことにより、ヨセフとマリアはナザレから故郷のベツレヘムに帰ることになりました。しかし、それだけではありません。神は御子を救い主としてお遣わしになることを決め、アブラハムを選び、預言者を立て、長い年月を経て、時が満ち、ついにその計画が成就したのです。
4節には、「ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った」という記述があります。ヨセフが身重の妻マリアを伴いベツレヘムへ帰郷することは、どれほどの困難を伴ったか、想像に難くありません。住民登録は、ローマ帝国が税金の徴収を目的として行ったものであり、住民にとっては何の利益ももたらさないものでした。聖書は二人の心境について詳しく記述していませんが、このベツレヘムへの旅もまた神のご計画の一部であったのです。なぜなら、「救い主」がダビデの町に生まれることが、あらかじめ預言者ミカによって記されていたからです。
“ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。”4
ミカ書は、預言者ミカに啓示された主の言葉(預言の書)です。これは、イエス・キリストの誕生約700年前に、ミカが見た幻を記したものです。ミカ書が書かれた紀元前8世紀頃は、アッシリア帝国の脅威がイスラエルとユダ王国を圧迫していた時代でした。
2節には、「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る」と記されています。エフラテは、ユダの町ベツレヘムの別名(古名)です。この町はダビデ王の出生地であり、さらにメシア(救い主)がここから来臨することが預言されています。この預言は、イスラエルの人々に将来への希望を与えるものでした。
ローマ皇帝に象徴される地上の権力者たちは、自分の立場や支配を揺るがないものとするために、権力や武力によって物事を動かそうとします。その支配に抗うことは難しく、人々はそれに従わざるを得ません。しかし、その背後にはすべてに神のご計画があり、神が導いておられることを知ることができます。このイエス・キリストの誕生の出来事もその一つであり、今もそうです。この一年を振り返ると、私たちの目には苦しみしか見えないこともあります。「神はどうしておられるのだろう」と思うことがあったかもしれませんが、神はご自分の計画を一つ一つ進めておられます。神の計画には、変更や停滞はありません。なぜなら、神は天地万物の創造主であり、私たちを愛しておられる方だからです。
ここで私たちが見るべき人間の姿は、ローマ皇帝だけではありません。ローマ帝国の支配下でユダヤの国を治めていたヘロデ王は、東方の博士たちが来た際に、ユダヤ人の王として誕生したイエスの存在を知り、自分の地位が脅かされることを恐れて、可能性のあるベツレヘム周辺の二歳以下の男の子を皆殺しにしました。また、ヘロデ王のそばで仕えていたエルサレムの大祭司や律法学者たちも同様です。旧約聖書を熟知していた彼らは、救い主がどこで誕生するかを知っていたはずです。もし行こうと思えば、ベツレヘムに行くことはでき、ヘロデ王から救い主を守ることもできたはずですが、彼らはそうしませんでした。そのため、ヨセフとマリアはエジプトに逃れることになります。これらの出来事も、あらかじめ神の計画の中にあったのです。さらに、住民登録のために帰郷した多くの人々のために、ヨセフと身重のマリアが到着した時、泊まる場所がなく、残された場所は家畜小屋と呼ばれる洞窟しかなかったことも、神の計画の一部なのです。私たちは、これらのできごとが偶然ではなく、すべて神のご計画の中にあることを旧約聖書の預言やそのあとの出来事を通して知ることができるのです。
そして、これらの人間の姿は、今の私たちの姿にも重ね合わせることができるのではないでしょうか。「救い主」を礼拝しようと思えば礼拝できたヘロデ王や大祭司、律法学者たちがいる一方で、本来なら行く資格のない、社会の最下層にいる羊飼いや、異邦人であった東方の博士たちが「救い主」に近づくことができました。このことこそが、聖書における恵みの本質なのです。本来受け取る資格のある者が受け取らず、本来受け取ることができないはずの羊飼いや東方の博士たちが恵みを受け取ったのです。まさに、そのような者たちに救い主が降りて来てくださったのです。私たちも、その恵みに預かっているのです。
“ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。” ミカ5:2
③ 救い主は、私たちのために貧しくなって
最初に「救い主」の誕生を知らされたのは、わずかな者たちでした。ベツレヘム郊外の羊飼いや、神から遠くにいたはずの東方の博士たちでした。しかし、神は羊飼いのために御使いを遣わし、東方の博士たちのために星を輝かせました。その意味では、神の恵みから離れた者はいないのです。私たちの信仰は、人間が神を求めて地上から天に向かって伸びていくようなものではありません。そのような方法では、いつまで経っても神に到達することはできません。私たちに与えられる救いの恵みは、私たちが求めるか求めないかに関わらず、神から与えられるものです。本来は受けるにふさわしくない者に与えられるものです。イエス・キリストの救いを信じるか信じないかは自由ですが、確かなことは、神が私たちに救いの手を差し伸べているということです。それは、神が私たちを愛してくださっている証であり、私たちはその愛に気づく必要があるのです。
砂漠のパレスチナ地方では、羊飼いは羊たちに水や牧草を与えるため、天候や獣から命がけで守っています。羊中心の生活を送る彼らは、安息日を守るという律法すら守れないこともありました。そのため、彼らは人間社会の最下層に位置づけられ、住民登録の対象にすらならなかったのです。それにもかかわらず、そのような者たちに「救い主」の誕生が真っ先に告げられたのです。
詩篇の23篇には、「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません」とありますが、羊にとって羊飼いがどれほど大切かは、当然のことです。しかし、律法学者たちは、この御言葉を知っていたにもかかわらず、自分にとって羊飼いがどれほど重要であるかに気づきませんでした。同様に、東方の博士たちも、異邦人であり救いの対象ではないと考えられていました。これは彼らが選んだことではなく、そのような状況に生まれたからです。しかし、彼らの上に星が輝きました。神はイスラエルの民だけでなく、すべての人々を愛しておられ、すべての人々の「救い主」となられるのです。
ヨハネは、イエス・キリストの誕生物語を福音書には記していませんが、イエス・キリストの誕生の意味について、次のように記しています。
「この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。しかし、この方を受け入れた人々、すなわちその名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。」(ヨハネによる福音書1:11-12)
「自分の国」とは、ユダヤの国のことであり、「ご自分の民」とはユダヤ民族を指します。神はイスラエルの民を選び、彼らと契約を結び、救い主(メシア)がその中から現れることを約束していました。イエスはユダヤ人として生まれ、神の約束を成就するために地上に来られたのです。つまり、イエスの誕生は、長い間待ち望まれていた救い主の誕生であり、イエス・キリストを信じ、受け入れた者には、神の子どもとしての特権が与えられ、永遠の命を受けることができるのです。
イエス・キリストの誕生は、本来、共に集まり明るく華やかで温かいものではありませんでした。むしろ、それは暗く、寂しく、冷たいものでした。私たちが実際にそのような飼い葉桶に触れなければ、本当のクリスマスの意味を理解することはできないかもしれません。イエスが飼い葉桶に寝かされたことは、キリストの謙遜さと、社会の最下層にいる人々への共感を象徴しています。また、「宿屋に場所がなかった」という状況は、イエスが社会から疎外され、貧困の中で誕生したことを示唆しています。イエス・キリストの降誕は、そのような状況から始まりました。そして、その誕生はそのまま十字架へと繋がっていきます。イエス・キリストは、最初から最後まで私たちのためにその生涯を全うされました。私たちの身代わりに罪を負い、人として十字架の死を遂げられました。そして、復活を通して、真の意味での救いを成就してくださいました。
私たちは、このクリスマスを迎えて、どのようなことを考えているのでしょうか。私たちの人生にも、羊飼いのような夜があるかもしれません。東方の博士たちのように、希望の星を追い求めている時もあるでしょう。悩みごとや心配ごとを抱えて、不安や時には怒り、憤りを感じる夜があるかもしれません。しかし、眠れない夜があったとしても、新しい朝が来るように、私たちはそのような経験を繰り返しながら、その先には完成された「朝」が来ることを知っています。この完成された「朝」こそが、神の国なのです。そこには、悩みや苦しみ、冷たさもありません。クリスマスは、夜から始まります。イエス・キリストは、眠れない夜を知らないはずがありません。すべてを知っておられます。飼い葉桶に寝かされたイエス・キリストは、やがて十字架にくぎ付けされ、葬られますが、復活することによって、私たちに完全な「朝」をくださいます。私たちは、その完全な「朝」をくださるイエス・キリストを信じて、このクリスマスを喜び、その足跡をたどってお祝いするのです。
“男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。”7
“あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。” 2コリント8:9
Author: Paulsletter