黙示録6章では、子羊(キリスト)が巻物の七つの封印を一つずつ解いていく場面が描かれています。それぞれの封印が開かれるたびに、終末における患難の様子が象徴的に示されます。一方、7章では、第七の封印が開かれる前に、これまで記されてきた患難の描写とは対照的に、救いと希望が描かれています。この部分は、時系列的な進行ではなく、挿入的に記されています。
私たちにとって「苦難」は、人生における重要なテーマです。誰もが苦難を避けたいと思うものですが、避けられない現実もあります。「苦難」は単に避けたり逃げたりするものではなく、その中にこそイエス・キリストとの深い交わりが与えられ、試練を通して栄光へと導かれていくのです。なぜなら、イエス・キリストは「苦難のしもべ」として、私たちのために苦しみを受けられたお方だからです。キリストはご自身の苦しみによって私たちの罪を贖い、神との関係を回復させてくださいました。しかし、キリストの十字架の死と復活は、苦難が終わりではないことを示しています。その先にあるのは、永遠の命と栄光です。
今朝の箇所には、ヨハネに示された「数えきれないほどの大勢の群衆」が描かれていますが、これを理解するためには7章前半を確認する必要があります。1節では「四人の御使いが地の四隅に立って、地の四方の風を堅く押さえ」ているとあり、3節では「神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない」と記されています。これは、神の民とされた者の額に「印」を押し、彼らが神の怒りを免れるよう、四人の御使いが神の裁きを一時的に留めている様子を示しています。
さらに、4節には「イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった」と記されています。この「十四万四千人」が何を意味し、「数えきれないほどの大勢の群衆」とどのように関係するのかについては、様々な解釈があります。聖書的かつ福音的な立場においても考え方は分かれており、大きく分けて以下の2つの解釈があります。
(1)「イスラエルの子孫」を文字通りイスラエル民族とする立場。
(2)「イスラエルの子孫」を、イスラエル民族を含め召された神の民全体とする立場。
また、「十四万四千人」という数字についても、具体的な数字と解釈する立場と、象徴的な数として「数えきれないほどの数」を表すと解釈する立場があります。
私自身は、どちらの解釈にも差し支えないと考えていますが、天における「大群衆」と地上の「イスラエルの子孫」(「十四万四千人」)には多くの共通点があると感じます。その共通点を結び付けるのが「子羊」です。「大群衆」は「その衣を子羊の血で白くした」(7:14)と記されており、「十四万四千人」の額には「子羊の名」(14:1)が記されています。また、「子羊が牧者となり、命の水の泉に導く」(7:17)という描写と、「子羊が行くところにはどこへでもついて行く」(14:4)という記述も共通しています。
以上から、「イスラエルの子孫」と「大勢の群衆」は同じ神の民を表し、それぞれ地上と天上における神の民の姿を示していると考えるのが適切だと思います。
この7章で明らかにされているのは、地上でさまざまな苦難や迫害を経験しても、イエス・キリストによってそれを乗り越えた神の民に、やがて天上で神を賛美する時が訪れるという約束です。この幻を通して、ヨハネはその希望を示したのです。そして、地上で経験した苦難は完全な慰めと平安へと変えられ、それが天上での喜びの賛歌へとつながっているのです。
① すべての国民がイエスキリストをほめたたえる
やがて天上で神を賛美する時が訪れるという約束は、イエスがオリーブ山で弟子たちに語った「終末のしるし」に関する教え(マタイ24:14)にも示されています。それは、神の御国の福音が全世界に宣べ伝えられ、すべての国民に証されるときに実現します。
世界中から召された神の民が地上で神を礼拝しているのは、このイエスの教えが現実のものとなり、終末の時に向かって展開している姿でもあります。
地上での礼拝は、それぞれ異なる場所や状況で行われていますが、私たちは天上の礼拝を心に描きながら礼拝をささげるべきです。それがどんなに小さな礼拝であっても、家庭での礼拝であっても、迫害や戦争、飢饉、災害の中にあっても、あるいは歴史や伝統の異なる諸教会であったとしても、私たちは一つの神の民として、天上において一つの礼拝をささげているという意識を持つべきです。これこそが、私たちに与えられた終末のビジョンです。
礼拝の本質は、集まる人数やプログラムの充実度にあるのではありません。最も重要なのは、イエス・キリストによって罪が贖われ、義とされたすべての神の民が、一つ心となって神を賛美する礼拝であることです。それは、イエス・キリストの血潮によって清められ、「白い衣」をまとった者として、心から感謝と賛美をささげる行為なのです。
“その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。彼らは大声で叫んだ。「救いは、御座に着いておられる私たちの神と、子羊にある。」” 9-
② イエスキリストの血によって義とされた
「白い衣を身にまとった人たち」とは、第一義的には、大患難を経てきた人々のことです。長老がヨハネに語ったように、彼らは地上において命をかけてイエス・キリストに忠実に従い、迫害の中でもイエス・キリストの福音を力強く語り続けました。その信仰ゆえに殉教した人々を指しています。彼らは地上の患難を避けたのではなく、それを通過した上で、慰めと平安に満たされ、天上において神を礼拝しているのです。この幻は、歴史上のすべての聖徒を象徴していると考えられます。
このような人々が天上で礼拝をささげているというヨハネの幻は、私たちに何を示しているのでしょうか。それは、たとえ大きな患難を経験したとしても、私たちに与えられた永遠の命が失われることは決してないという希望です。死の向こう側には永遠の希望があり、地上の教会がどれほど苦難に直面し、これからも患難を経験するとしても、地上の死の力によって滅ぼされることはないという確信を与えてくれるのです。
ヨハネによって書き記されたこのメッセージは、この時代はもちろんのこと、この時代以降にも、大きな迫害を経験した諸教会にとって、どんなに励ましとなったことでしょう。それだけではありません。「白い衣を身にまとう」という子羊の血によって白くされるという姿は、信仰のゆえに殉教したという患難を経験しただけに終わらず、イエス・キリストの十字架によって罪が赦され、永遠の命が与えられていることを意味しています。それは、イエス・キリストを信じて、神の霊が内住することを意味しているのです。
“すると、長老の一人が私に話しかけて、「この白い衣を身にまとった人たちはだれですか。どこから来たのですか」と言った。そこで私が「私の主よ、あなたこそご存じです」と言うと、長老は私に言った。「この人たちは大きな患難を経てきた者たちで、その衣を洗い、子羊の血で白くしたのです。” 13-14
イエス・キリストが私たちのために死なれたということは、彼の血潮によって私たちが義と認められたことを意味します。私たちはイエス・キリストを救い主として受け入れることによって、神が私たちの罪を赦し、無罪宣言をしてくださったのです。この義認は、人間の行いによるのではなく、信仰と神の愛、そして恵みによるものです。イエス・キリストを信じる者は、もはや神の怒りを受けることはなく、この救いは、現在の確信と未来の永遠の平安を約束しているのです。
“しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。” ローマ5:8-9
旧約時代、人間は罪を持つがゆえに、直接神に近づくことができませんでした。そのため、雄やぎや子牛を全焼のいけにえとして祭壇にささげることで、神に近づいていました。しかし、それは一時的な手段にすぎず、人間の罪が完全に赦されたわけではありませんでした。しかし、イエス・キリストは傷のないご自身を神にささげ、その血によって、雄やぎや子牛の血では成し遂げられなかった完全な赦しをもたらしました。これは、イエス・キリストの贖いによって人間の罪が完全に清められたことを意味し、旧約時代の律法や動物の犠牲に代わる「新しい契約」の血なのです。
“しかしキリストは…、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。” ヘブル9:12
私たちは、信仰のゆえに殉教者となったとしても、そうでなかったとしても、神に熱心に仕えたり、ささげたりしたことを自分の心のよりどころにしたり、誇りに思ったりすることがあります。私たちは、信仰者の価値がそのような行いによって決定されると考えがちですが、神の御国においてはそれが決定的なことではありません。神の御国、あるいは永遠の視点において重要なのは、イエス・キリストの十字架の赦しを受けているかどうかです。正しく信仰深く熱心であることは、実はあまり重要ではありません。大切なのは、イエス・キリストの血潮によって救われ、神のあわれみと恵みに預かっているかどうかということだけなのです。
やがて私たちが神の前に立ち、神を礼拝する時、私たちが告白すべきことは、「私はあなたのために命をささげました」「私は仕えました」「私は教会に貢献しました」といったものではありません。これらはすべて、いずれ消え去るものにすぎません。私たちが告白すべきは、あの大勢の群衆が叫んだ言葉、すなわち「救いは、御座におられる神とイエス・キリストにあります」ということなのです。
③ 救いは、イエスキリストにある
私たちはクリスマスのシーズンを迎え、神がイエス・キリストを地上に遣わし、イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり死なれ、復活されたという事実を思い起こしながら、イエス・キリストのご降誕をお祝いし、礼拝をささげています。それでは、そもそも私たちはなぜ神に礼拝をささげているのでしょうか。礼拝を通じて、心に安らぎが与えられ、新しい力が与えられ、人生の在り方を確認するという意味で礼拝をささげているかもしれません。しかし、この天上での礼拝の光景は、やがて私たちが迎える礼拝の姿でもあるのです。
なぜ私たちは神に礼拝をささげるのでしょうか。それは、ただ救いが「子羊」イエス・キリストにあるという事実に基づいています。礼拝の焦点は、私たちがどのように礼拝をささげるかではなく、その礼拝の対象であるイエス・キリストに向けられなければならないのです。イエス・キリストこそが、私たちが礼拝をささげるにふさわしい唯一のお方なのです。そして、私たちはやがて来られるイエス・キリストによって、天上の恵みに招かれているのです。
イエス・キリストの十字架による救いは、クリスマスのプレゼントとして与えられたものではありません。私たちに与えられているのは、救いの約束ではなく、イエス・キリストご自身そのものです。ですから、私たちはその実物を与えられた者として、文字通りそれが自分のものとなることを知っています。たとえまだこの目で見ていなくても、やがてそれが自分のものとなることを確信しています。つまり、イエス・キリストによって救いを与えられた者には、神の御国は目に見える形で到来するのではなく、すでに信じる者たちの心の中に実現しているのです。
ハレルヤ・コーラスでは、「世の国民 今やわれらの主に 帰するに及べり」と賛美します。この歌詞は、神の支配と権威がすべての国々と人々に及ぶことを宣言しています。地上の現実では、まだこの約束は完全には成就していませんが、それを確認し、賛美することができます。そして、「全能の主 治め給わん」、「永遠(とわ)に主 永遠に治め給わん 主の主、諸王の王」と繰り返し、高らかに賛美することができるのです。まさに、イエス・キリストを信じる者が、神の御国を待ち望む賛美であり、やがてその御国が自分のものとなることを確信しています。繰り返し言いますが、私たちはすでにその招待を受けているので、これにまさる慰めと励ましはありません。
尽きることのない苦難と患難の中にあっても、私たちはこの地上にありながら、天と地を繋いでくださったイエス・キリストを通して、やがて天上で神と子羊を礼拝する時が来るのです。イエス・キリストの血潮によって義とされ、救われたことに対する感謝と喜びを、高らかに賛美することができるのです。
最初に御使いは、救い主イエス・キリストの誕生の知らせを羊飼いたちに伝えました。そのとき、まだ知る者は少なかったでしょう。しかし、イエス・キリストは確かにこの世にお生まれになったのです。同様に、イエス・キリストが再び来られることをどれくらいの人が現実的に信じているのかはわかりませんが、いずれ誰の目にも明らかな形で、イエス・キリストは再び来られるのです。少なくとも私たちはそのことを知る者であり、先取りして声高らかに賛美することができるのです。私たちは、クリスマスを単なる過去の出来事としてお祝いするのではありません。イエス・キリストによって与えられた救いを喜び、主を賛美し称えているのです。
“それゆえ、彼らは神の御座の前にあって、昼も夜もその神殿で神に仕えている。御座に着いておられる方も、彼らの上に幕屋を張られる。彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽もどんな炎熱も、彼らを襲うことはない。御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」” 15-17
Author: Paulsletter