「黙示」とは、隠された秘密が明らかにされることを意味します。特に『ヨハネの黙示録』では、神の意志や計画、つまり将来必ず起こる出来事が記されています。ヨハネがパトモス島で見た幻は、まさに神の啓示そのものです。
イエス・キリストは最後の晩餐の際、弟子たちにこう語られました。「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネの福音書16章33節)。この言葉は、十字架の受難と復活が父なる神の計画の成就であることを示しています。ヨハネがパトモス島で幻を見せられた時代も、キリスト教徒に対する厳しい迫害が続いていましたが、神が示された啓示を通じて、人々は希望を見出し、生きる力を得ることができたのです。
「黙示録」という言葉に、多くの人は「世界の終わり」や「破滅」を連想しがちです。しかし、聖書の終末論は破滅を本質とするものではありません。それはむしろ、新しい創造、すなわち神の国の到来を告げる、希望に満ちた完成論なのです。
「わたしはすぐに来る」というイエス・キリストの言葉が示す再臨は、この世の終わりの始まりではなく、「新しい天と新しい地」の幕開けを告げるものです。この新しい創造の世界では、死も悲しみも苦しみも消え去り、私たちは神と共に永遠の命を分かち合うという約束が与えられています。私たちキリスト者は、この約束を信じ、「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈りつつ、その日を待ち望みます。
① 神の歴史を開くことができるものがどこにもいない
黙示録5章は、希望に満ちた終末論を象徴的に描いています。ヨハネは幻の中で、神が座しておられる天の光景を目にします。そこには七つの封印で封じられた巻物がありました。この巻物には、神の計画、すなわち人類の歴史における神の働きが記されています。しかし、その巻物を開くことができる者は、天にも地にも見当たりませんでした。
ヨハネは、巻物を開く者がいないことに絶望し、激しく泣きます。この涙には、神の計画が実現しなければ人類の救いと歴史の完成が成し遂げられないという切迫感、そしてその計画の全容を早く知りたいという強い思いが込められていました。
すると、長老の一人がヨハネを励まします。神の計画を成就し、巻物を開く資格があるのはただ一人、ほふられた小羊、すなわちイエス・キリストです。そのイエス・キリストがヨハネの目の前に立っていたのです。
小羊は、神の愛によって世の罪を背負い、十字架で死に、復活されたお方です。その犠牲を通して、私たちは神との和解を得て、神の家族の一員とされました。黙示録5章8節で長老たちが小羊を賛美しているのは、彼らがイエス・キリストを信じて救われた聖徒たちを代表し、この救いの業に対する深い感謝と喜びを捧げているからです。
“しかし、天でも地でも地の下でも、だれ一人その巻物を開くことのできる者、見ることのできる者はいなかった。私は激しく泣いた。その巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見つからなかったからである。” 3-4
② ユダ族から出た獅子、ダビデの根、屠られた子羊こそ
一人の長老がヨハネにこう言います。「泣いてはいけません。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」
「ユダ族から出た獅子」と「ダビデの根」はどちらもイエス・キリストを指しており、旧約聖書におけるメシア預言の成就者としての彼を描いています。ユダ族はイエスの血統であり、ダビデ王もその出身でした。「獅子」は力強さ、王権、勝利を象徴する動物であり、旧約聖書ではその象徴としてしばしば登場します。この表現は、ダビデの家系から現れたイエスが、罪と死に打ち勝ち、神の国を治める王として来られることを示しています。
“すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族から出た獅子、ダビデの根が勝利したので、彼がその巻物を開き、七つの封印を解くことができます。」また私は、御座と四つの生き物の真ん中、長老たちの真ん中に、屠られた姿で子羊が立っているのを見た。” 5-
“ユダは獅子の子。わが子よ、おまえは獲物によって成長する。…王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない。” 創世記49:9-
エッサイはダビデ王の父の名です。ダビデの王朝はやがて分裂し、敵国によって滅ぼされましたが、その切り倒された根株から新芽が生えるように、メシア(救い主)が登場するという預言があります。これは、ダビデの子孫からイエス・キリストが誕生することを指しています。イエス・キリストは、十字架の死と復活を通して罪と死に打ち勝ち、私たちを罪の支配から贖い出(買戻)してくださいました。
筆者の余談ですが、旧約聖書の律法によれば、封印された買戻し証書は、正当な買戻しの権利者だけが開封することを許されていました。この買戻し証書には、当該土地の所有権や関連する権利が誰に帰属するのかが詳細に記録されていました。その所有権等の移転手続きは、長老たちなどの証人の立会いのもとで公に行われるのが通例でした。この背景を考えると、イエス・キリストこそが封印を解くにふさわしい方であることが、さらに明確に理解できると思います。※買戻しの権利についてはルツ記2章20節などを参照してください。
“エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に主の霊がとどまる。…その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。” イザヤ11:1,10
③ この地にありながら、天の礼拝のように
ヨハネの黙示録5章7節と8節では、天上での礼拝の光景が描かれています。御座の近くにいた「四つの生き物」と「二十四人の長老たち」が、子羊であるイエス・キリストを礼拝しています。「四つの生き物」は、被造物を代表する存在として描かれており、一方、「二十四人の長老たち」は、イエス・キリストを信じて救われ、栄光の冠を与えられた人々の代表として登場します。
続く9節以降では、この礼拝の規模が劇的に拡大します。無数の天使たちがこれに加わり、さらに天と地、海、そしてその中のすべての被造物が神と子羊を賛美し始めます。キリストの勝利に対する感謝と喜びの賛歌は、宇宙全体、すなわち神が創造されたすべてのものに広がり、壮大な大合唱となるのです。
天上における礼拝の光景の描写において、注目すべき言葉が二つあります。一つは、8節の「香は聖徒たちの祈り」であり、もう一つは、「彼らは新しい歌を歌った」です。
「新しい歌」とは、新曲を意味するものではありません。それは、イエス・キリストによって新しく造られた者たちの歌を指します。この「新しさ」とは、神が私たちの内に成し遂げた救いのわざによって私たちが新しくされることを意味します。その救いのわざに対する応答として歌われるのが、この「新しい歌」です。つまり、イエス・キリストによって新しくされるとは、新しい命が与えられ、新しい人生を歩むことができ、やがて完成される「新しい天と新しい地」を待ち望む喜びと感謝の歌であるということです。
もう一つの「香は聖徒たちの祈り」に関しては、旧約時代からの伝統に基づき、礼拝の中で祈りの際に香炉が使用され、その中に香り高い乳香が入れられていました。この「香」は、物質的な香りが空中に消えるのではなく、天に昇り、神の前に届く香りを意味しています。つまり、聖徒たちの神への祈りは、まさに昇華された祈りであると言えるでしょう。私たちキリスト者の祈りも、神に対する礼拝の特別な香りとして、香り高い献げ物となり、神に喜ばれるものとなるのです。
私たちの地上での祈りは、時には自己中心的であったり、「神様、どうしてですか」と泣き言のように訴えたりすることがあります。また、何の手ごたえもなく、神が応えてくれないと感じ、祈りをあきらめることもあるかもしれません。時には、祈った内容を自分自身が忘れてしまうこともあります。しかし、地上でのすべての祈りは天に届いています。祈りは香り高い献げ物として天に昇り、神に捧げられているのです。
イエス・キリストは、人類の歴史における神の働きを紐解いてくださるお方です。私たちは、イエス・キリストが代価を支払って買い戻された者であり、すでに救いを経験しています。そして、やがて完全な救いを完成させるために再臨されるイエス・キリストを待ち望みつつ、天上の天使だけでなく、すべての被造物が主を賛美するそのときに、私たちも共に賛美し、祈ることのできる恵みを感謝し、地上においても祈り続けたいと願っています。
“彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱい入った金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。」” 8-
“彼らは新しい歌を歌った。「あなたは、巻物を受け取り、封印を解くのにふさわしい方です。あなたは屠られて、すべての部族、言語、民族、国民の中から、あなたの血によって人々を神のために贖い、私たちの神のために、彼らを王国とし、祭司とされました。彼らは地を治めるのです。」” 9-
“「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」” 12
“また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」” 13
Author: Paulsletter