「あなたこそ栄光と誉れと力を受ける方」

12月1日メッセージ
小平牧生牧師
「あなたこそ栄光と誉れと力を受ける方」
(二つの時を待つアドベント①)
ヨハネの黙示録4章1~11節

 本日は、待降節第一主日礼拝です。待降節(Advent)は、キリスト教の教会暦における特別な期間です。「Advent」はラテン語で「到来」や「来臨」を意味します。この言葉は、古代ローマにおいて皇帝や高位の人物が公式に訪問することを指して使われていました。このように、待降節はイエス・キリストの降誕、すなわちキリストが人としてこの世に来られた出来事(初臨)を迎える準備をする重要な季節です。しかし、この期間は単にキリストの初臨(降誕)を記念するだけでなく、キリストが終末に再び来られる(再臨)という希望を待ち望む時でもあります。待降節には、これら二つの「来臨」を覚え、心を整えるという深い意義があります。

 今朝の聖書箇所であるヨハネの黙示録は、1章の序文と22章の末尾の数節を除き、当時の小アジアにある7つの教会に関する記述と、やがて起こるべき出来事に関する記述の2つの部分に分かれています。黙示録は、パトモス島に流されていたヨハネに対し、イエス・キリストが幻を通して示された神の啓示です。この黙示録が難解で神秘的であるとされる理由は、その独特な文学的特徴、象徴的な表現、そして未来的かつ予言的な内容にあります。

 黙示録は、当時のキリスト教徒に対する厳しい迫害の時期に書かれたと考えられています。特に、ローマ皇帝ドミティアヌスの治世下では、キリスト教徒に偶像礼拝を強要し、信仰を拒否する者には死刑を科すような迫害が行われていました。実際に、ヨハネがパトモス島に流されたことも記録されていることから、黙示録はドミティアヌスの治世末期、すなわち紀元95年から96年に執筆されたとする説が有力とされています。

 今朝の聖書箇所は黙示録4章からです。場面は、黙示録1章から3章までの「地上の教会」の描写から、4章における「天の御座」へと劇的に転換します。この転換は、神の臨在とその栄光を深く味わうための導入として、非常に重要な意味を持っています。4章では、しもべヨハネが天に開かれた扉を通して、神の栄光に満ちた御座の光景を目撃します。御座に座しておられる方は、創造の主として全能の権威を示しており、その御前にはエメラルドのように輝く虹がかかっています。さらに、御座を取り囲む二十四人の長老や4つの生き物が、絶え間なく神を賛美しています。この場面は、神の主権、栄光、そして聖さを際立たせ、読者に深い畏敬の念を抱かせるものです。

 また、この転換は黙示録の中心テーマである「神の救済計画」と「終末の完成」を示す準備段階でもあります。地上の教会の現実から天の視点へと移ることで、神がすべてを支配しておられること、そしてその計画が確実に進行していることが明らかにされます。この天上のビジョンは、困難な状況にあるキリスト者たちに希望と励ましを与えるものであり、すべての栄光が神に帰することを示唆しているのです。

① 天における礼拝の中心 イエスキリスト

 4章1節から2節では、天上での神を礼拝する様子が幻として描かれています。そこには一つの「御座」があり、その御座に座しておられる方がいます。また、その周囲には二十四の座が設けられていると記されています。「御座」とは、神の主権と統治の象徴であり、万物の創造主である神、後に再臨されるイエス・キリスト、そして聖霊を指すものです。

 ヨハネが見たその光景は、地上のものとは全く異なるものでした。地上では、悪が蔓延し、罪が増し加わり、神を神として崇めることなく、自らを神とする皇帝によって支配され、教会は迫害され、傷ついていました。このままでは、教会の存在やキリスト者の命さえも抹殺されていくのではないかという危機的な状況にありました。特に、先に紹介された小アジアの七つの教会では、「最初の愛」を失ってしまった教会、迫害に直面していた教会、偶像礼拝や異教的な行為に引き寄せられた教会、貧しく、偽預言者の教えが教会内で広がっていた教会、外見的には生きているように見えたが実際には霊的に死んでいた教会、物質的には豊かでありながら霊的に「ぬるい」状態にある教会がありました。もちろん、忠実で霊的に真実な教会も存在していました。そんな中で、ヨハネは天上での礼拝の光景を幻として見せられました。そして、罪と悩みの中にあり、弱っている教会に対して、「天上を見上げよ、御座におられるお方がいらっしゃる」と励ましのメッセージを送っているのです。

“その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。” 4:1-2

② 御座、巻物、そして小羊

 ヨハネは、神の領域へ通じる天の門が開かれるのを見て、ラッパのように荘厳で力強いイエス・キリストの声を聞きました。そして、その後に必ず起こることが幻で示されました。まず、見せられたのは、天上の「御座」の存在です。「御座」には、万物の創造主である神、すなわち、昔もおられ、今もおられ、やがて来られる方が座しておられました。

 地上では、ローマ皇帝が教会やキリスト者を迫害していましたが、そのような権力を振るう者たちも、やがては滅び去る存在に過ぎません。私たちも、消え去る者たちではなく、昔も今も変わることなく、やがて来られる真の神を見上げることができるのです。万物を創造し、普遍的に、永遠に変わることなく統治されるお方を賛美し、礼拝することができるのです。『ハレルヤ・コーラス』の歌詞にもあるように、神は「王の中の王、主の中の主、そして永遠に統治される」お方なのです。この歌詞には、私たちの信仰を告白する意味が込められています。神は生けるお方であり、私たちはそのお方を待ち望んでいるからこそ、この地上で希望を失うことがないのです。

 余談ですが、『ハレルヤ・コーラス』は、1743年に初めてロンドンで演奏された際、国王ジョージ2世が「ハレルヤ」の途中で王座を立ち、この賛美を聴いたとされています。この逸話によれば、大英帝国の王が王座を降りてまで真の神を礼拝する姿勢を見せたため、観客は一斉に立ち上がったと言われています。

 次に、ヨハネが見せられたのは「巻物」です。ヨハネは、「御座」に座しておられる方の右手に「巻物」を見ました。その「巻物」には、内側にも外側にも文字が書かれており、七つの封印で封じられていました。そして、ヨハネは、子羊(イエス・キリスト)がそれぞれの封印を順次開けていくのを見ることになります。封印が開かれるごとに、この後に必ず起こることが明らかにされていきます。黙示録全体を通して読むことで、神の人類に対する広大な救済計画と、終末における神の国の完成が明らかになるのです。

 最後に、ヨハネが見せられたのは子羊(イエス・キリスト)です。イエス・キリストが七つの封印を開け、この後に必ず起こることが明らかにされていきますが、その詳細については、次回の礼拝メッセージでお話しすることにいたします。

“その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」たちまち私は御霊に捕らえられた。すると見よ。天に御座があり、その御座に着いている方がおられた。” 4:1-2

“また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。” 5:1

“また私は、子羊が七つの封印の一つを解くのを見た。そして、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを聞いた。” 6:1

③ 二つの時の間を生きる私たち

 4章8節では、「四つの生き物」が、創造主なる神、すなわち昔おられ、今もおられ、やがて来られる方を絶え間なく礼拝し続ける姿が描かれています。「四つの生き物」とは神の御使いを指すとされ、神の栄光を宣言する存在として描かれています。さらに11節では、「二十四人の長老たち」が御座に座しておられる方の前にひれ伏し、礼拝したと記されています。「二十四人の長老たち」とは、イエス・キリストを信じて救われ、栄光の冠を与えられた聖徒たち(いわゆる「普遍的教会」、または神の家族として一つに結ばれた共同体)の代表として描かれてています。

 私たちは永遠に生きておられるこのお方を礼拝して生きており、やがて完成される「神の国」を待ち望んでいます。私たちは、二つの時間軸の間に生きていることになります。すなわち、二つの時間軸とは、イエス・キリストの十字架以降と、イエス・キリストの再臨以前のことです。この時間軸が明確でなければ、私たちは信仰者としての緊張感を失ってしまうでしょう。イエス・キリストの十字架の死と復活という、すでになされた御業を忘れてしまうならば、救いを確信する信仰に立つことはできません。同時に、この地上に終わりがあることを認識しなければ、将来に希望をもって生きることはできないでしょう。

 物質的な世界が消滅し、肉体的な死で終わるのではなく、朽ちない栄光のからだに変えられて永遠の秩序に入れていただくことを知らなければなりません。私たちは、すでになされた十字架の御業と、いまだ成し遂げられていないものの、やがて成し遂げられるイエス・キリストの再臨という時間軸の間に生きており、その中でイエス・キリストの救いを喜びつつ、完成のときを待ち望んでいるのです。

 最後に、パウロがピリピの教会の人々に書き送った手紙(ピリピ1章3-6節)で締めくくりたいと思います。ピリピの教会の人々は、パウロの伝道に最初から積極的に協力してきました。神の救いの計画は、神によって始められ、神によって完成されます。私たちは、イエス・キリストが再び来られるときまでに、その完成を待ち望んでおり、それこそが私たちの目標であり、励ましなのです。

 栄光と誉れと力にあふれる主を仰ぎ見ながら、完成に向かって進んでいきたいと思います。

“この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」” 4:8

“二十四人の長老たちは、御座に着いておられる方の前にひれ伏して、世々限りなく生きておられる方を礼拝した。また、自分たちの冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ、私たちの神よ。あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。あなたが万物を創造されました。みこころのゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。」” 4:11

“私は、あなたがたのことを思うたびに、私の神に感謝しています。あなたがたすべてのために祈るたびに、いつも喜びをもって祈り、あなたがたが最初の日から今日まで、福音を伝えることにともに携わってきたことを感謝しています。あなたがたの間で良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださると、私は確信しています。” ピリピ1:3-6

Author: Paulsletter