「山上の垂訓(教え)」をとおして、この地上において生きるとはどういうことなのか、イエス・キリストを信じて神の子とされていることの意義を学んでいます。
イエスはこの箇所で「あなたがたは聞いています」・・・「しかし、わたしはあなたがたに言います」という同じフレーズを繰り返し用いています。イエスが旧約聖書の御言葉をそのまま引用する際には「・・・と書いてある」と語りますが、古くから伝えられてきた教えを示す場合には「あなたがたは聞いています」と表現しています。モーセの律法(トーラー)は「書かれた律法」として知られていますが、これとは別に、モーセから長老たちに伝えられ、世代を超えて伝承されてきたとされる「口伝律法」も存在しました。この口伝律法は時代とともに膨大かつ複雑になり、イエスの時代にはまだ文書化されておらず、「言い伝え」として人々の間で受け継がれていたのです。
律法学者たちは、モーセの律法を詳細に研究し、その解釈を提供することで、ユダヤ人の生活と信仰を導く重要な役割を担っていました。彼らは律法を文字通りに解釈し、安息日の規則を厳守するなど、律法の遵守を生活の中心に据えていました。また、自らの行動を厳しく律し、周囲の人々に模範を示すことを重視していたのです。
モーセの律法(トーラー)と口伝律法は区別されつつも、口伝律法はモーセの律法を補完するものとして、時に同等、またはそれ以上の実践的価値を持つとされていました。しかし、律法学者たちは形式的な律法の遵守に固執するあまり、律法の背後にある神の愛や赦しの精神を見失うことがありました。さらに、律法を自らの権威や地位を守る手段として都合よく解釈し、歪曲する場合もあったのです。
たとえば、「隣人を愛しなさい」という戒めを、血縁関係や同族に限定して解釈し、異民族や社会的弱者への共感を欠いた結果、差別や排斥を正当化していました。しかし、聖書にはそのような教えは一切記されていません。この狭い解釈に対し、イエスは厳しく批判し、律法の本来の意味を明らかにしました。イエスの教えの中心は、「神を愛し、隣人を愛すること」です。ここでいう「隣人」とは、民族や宗教を超え、すべての人を指しています。さらにイエスは、「敵を愛し、迫害する者を祝福しなさい」と教え、従来の価値観を覆す新しい愛の実践を示しました。
今朝は、イエスの教えに倣い、すべての人を愛をもって受け入れることについて考えてみたいと思います。この愛こそが、神の国を築くための私たちの使命だからです。
① 自分の兄弟、自分の隣人、自分の敵…という分け方をしない
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と記されています。人間関係の中には、「兄弟」や「隣人」、「敵」といった関係があり、その中に、それぞれの距離感があります。「兄弟」というのは、肉親に限らず、自分たちの仲間ということであり、ユダヤ民族などの同胞も含む意味で使われています。律法学者にとって、律法を遵守する人たちもこの範疇に含まれると考えていたでしょう。また、「隣人」は、「兄弟」ほど親密ではないものの、比較的近しい関係を指します。これに対し、「敵」は、「兄弟」や「隣人」とは相容れない、正反対に位置する遠い存在です。律法学者たちは、「敵」と交わることを避け、それが汚れを招くと考えていました。
ここでは、「兄弟」「隣人」「敵」に「あなたの」という表現を加えることで、「自分にとっての隣人」や「自分にとっての敵」といった個人的な視点を強調しています。このような表現を用いることで、関係の距離感を自分自身の視点から捉えています。相手がどう感じているかは別として、自分にとって「兄弟」「隣人」「敵」とは誰を指すのか。言い換えれば、ある特定の人が自分にとって「兄弟」「隣人」なのか、それとも「敵」なのかを区別しているということです。その中には、「あの人のことは思い出したくもない」と感じるような、明らかに「敵」であり、少なくとも「隣人」とは言えない存在もいるでしょう。たとえ意識していなくても、無意識のうちにそのような区別をしているのです。そして、この「あの人は『兄弟』『隣人』それとも『敵』か」という区別が、今日の紛争や戦争の状況に繋がっているのではないかと思うのです。
イエスは、このような枠を取り払うよう教えています。なぜなら、神は愛する人と愛さない人を区別しているわけではないからです。神は、正しい人にも正しくない人にも偏りなく愛を注ぎ、すべての人に平等に恵みを与えるお方です。そのため、神ご自身が私たちを枠にはめて見ておられない以上、私たちもそのような枠を取り払うべきだとイエスは語っています。
“『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いてい ます。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。” 43-44
口伝律法には「あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め」という戒めがあったとされていますが、旧約聖書の律法にはそのような記述は見当たりません。しかし、「敵」という言葉に関連する教えは多く見受けられます。例えば、出エジプト記23章では、「あなたの敵」とは自分が敵意を抱く相手を指し、そのような相手が困難な状況にある場合、財産を奪ったり無視したりすることは許されないとされています。具体的には、憎む相手のろばが荷物の下敷きになっているのを見たとき、その人とろばを見捨てず、助けなければならないと教えています。このような教えは他の箇所にも見られます。つまり、旧約聖書の律法は「敵を憎め」どころか、むしろ「隣人」や「敵」に関係なく平等に接することを求めています。しかし、これらの戒めは後に歪められ、新たな解釈が付け加えられてしまったのです。
“あなたの敵の牛やろばが迷っているのに出会った場合、あなたは必ずそれを彼のところに 連れ戻さなければならない。あなたを憎んでいる者のろばが、重い荷の下敷きになってい るのを見た場合、それを見過ごしにせず、必ず彼と一緒に起こしてやらなければならな い。” 出エジプト記23:4-5
私たちはどうでしょうか。自分を振り返ると、律法学者と同じような在り方ではないでしょうか。確かに、私たちは互いに愛し合っていますが、それは「兄弟」たちを愛することと同じであり、その愛は非常に限定的です。私たちは、どこかで愛する対象を「兄弟」と「敵」に分け、自分の尺度で区別しているのではないでしょうか。しかし、イエス・キリストは、自分を愛してくれる人を愛することは当然であり、それは当時罪人とされていた取税人でさえも行っていることだと語っています。つまり、仮に私たちがイエス・キリストによって生かされていなかったとしても、自分に良くしてくれる人を愛することは、誰にとっても自然なことだというのです。ですから、イエス・キリストを信じる者としては、自分の「兄弟」、自分の「隣人」、自分の「敵」という分け方をしないで、すべての人を愛することが大切なのです。
② 愛せない?、愛したくない?、愛さない?
私たちは、自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈ることは、なかなかできることではありません。では、どうすればよいのでしょうか。神は、敵対する人もそうでない人も、分け隔てなく愛を示されるお方です。神の子とされた私たちも、神の性質を自分の生き方に反映させる特権を与えられています。ですから、私たちはその人を愛することができるかどうかではなく、その力を持っているかどうかでもなく、そのような状況で自分が敵対する人と対峙するのではなく、まずは神のもとにその問題を持ち帰るべきだと教えられているのです。私たちは、自分の力では「敵」を愛することができないことを認めることから始めなければならないのです。
「愛する」とはどういうことなのでしょうか。私たちは「愛する」こともできますし、「愛さない」こともできます。「愛する」とは、愛することを選択する意思表示なのです。例えば、妻に「どうして私を愛してくれるのか」と聞いて、「それしか選択しようがなかったからだ」と言われると、なんとなく寂しい気持ちになります。私は、「愛する」「愛さない」の選択肢があった中で、「私はあなたを愛することを選んだ」と言われたいのです。考えるべきことは、愛することはその対象によって変わらないということです。好きか嫌いかは、その対象によって変わるかもしれません。しかし、神の愛は、その対象が何であれ愛することができるということです。
“しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。” 44
「愛する」ということは、生涯の重要なテーマです。イエス・キリストが「自分を侮辱し、迫害し、ありもしない悪口を浴びせられても、それは幸いであり、それを喜びとしなさい」と教えているのは、私たちに無理難題を課しているのではありません。確かに、自分の力で敵対する人を愛することはできないかもしれませんが、神は私たちに敵を愛する道を開いてくださるのです。愛することは感情ではなく、意思なのです。しかし、私たちは意思よりも感情に動かされやすい存在です。経験を積んだ理性的な人でも、感情に左右されることが多いのです。赦せない、赦さないのではなく、赦したくないという思いがあるのです。それは、私たちの中に赦すべきでないという「律法」が存在するからです。ありもしないことで悪口を浴びせられても喜ぶことができるのは、イエス・キリストにあって、私たちを怒らせ、悲しませるものによって支配されず、そこから解放されているからです。この御言葉を通して、私たちは完全な自由を得ることができるのです。イエス・キリストによって救われることによって、そのような喜びを経験できるのです。いつもそうでないとしても、失敗を繰り返しても、神の子とされるプロセスを経て、その喜びを経験することができるのです。
“わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせ るとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがた の報いは大きいのですから。…” 11-12
ヤコブの手紙に、次のような言葉があります。
「また、船のように、大きなものでも、風が強いところを進むために舵で動かすように、舌もまた、小さな器官であっても、大きなことを成し遂げる。」(ヤコブ3:4)
ヤコブは、舌(言葉)を「船の舵」に例えています。船の舵は非常に小さな部分ですが、その舵を動かすことで大きな船を思い通りに進めることができるのです。同様に、舌(言葉)も小さな器官でありながら、私たちの行動や人生に大きな影響を与えることができるということです。つまり、私たちの言葉は小さなものであっても、神の前に持っていくことで、大きな祝福や恵みが与えられるのです。それは、神の子としての特権であり、恵みの道を歩むように導かれているのです。
“あなたを告訴して下着を取ろうとする者には、上着も取らせなさい。あなたに一ミリオン 行くように強いる者がいれば、一緒に二ミリオン行きなさい。” 40-41
③ 自分と異なる人を愛して、神の子どもである生き方をめざそう
“天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人 にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。”45
“愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。”1ヨハネ4:7
Author: Paulsletter