「哀歌」はヘブル語で「エイハ」(אֵיכָה, Eikha)と呼ばれ、直訳すると「どうして」や「なぜ」という意味です。これは、哀歌の冒頭で著者が「ああ、どうしてこのようなことが起こったのか?」と問いかけるところに由来しています。
聖都エルサレムは、元来神の都とされていましたが、イスラエルの民の不誠実と背信のゆえに神の裁きを受け、預言者エレミヤの預言どおり、神の主権のもとでバビロニア帝国によって破壊され、その民は捕囚とされるという悲惨な状況に至りました。
「哀歌」3章19~25節では、エレミヤが愛するエルサレムが包囲され、焼き尽くされたことを嘆き悲しんでいる様子が描かれています。しかし、その中でエレミヤは希望を見出します。どれほど悲惨で絶望的な状況にあっても、神を信じる者には神への信頼と希望の光が輝いていることを、この歌は訴えています。イスラエルの民が滅びずに済んだのは、ひたすら主の恵みによるものであり、主のあわれみは尽きることがないとエレミヤは心境を述べています。これは、神がイスラエルの民と結んだ祝福の契約が誠実に履行されていることを示しており、神の愛と恵み、そして真実が変わることがないことを表しています。
ここでは、「主の恵み」、「主のあわれみ」(22節)、「あなたの真実」(23節)、「主はいつくしみ深い」(24節)と記されています。これらはいずれも「主の恵み」と言い換えることができます。神の恵みは朝ごとに新しく、私たちに与えられるものであり、明日もまた新しい恵みが備えられているのです。
「主のあわれみは尽きることがない」とありますが、「あわれみ」とは、具体的な行動を伴い、頼りがいのある神の支えです。主のあわれみは、「ああ!どうして」という状況の中で、弱さや惨めさ、助けのない状況にある私たちに示されるものなのです。
「天地は滅び去ります。しかし、私の言葉は決して滅びることがありません」(マタイ24:35)とあるように、天地万物やすべての被造物は永遠に続くものではなく、いずれは消え去るものであり、私たちの永遠の支えにはなりません。しかし、神の愛に基づく言葉や約束は決して変わることなく、永遠に存在し続けるからこそ、揺るぎない支えとなるのです。
スイスの精神科医ポール・トゥルニエは、彼の著書の中で「私たちは他人を成功や失敗で判断しがちですが、私の体験から言えることは、人間の成熟は成功よりもむしろ失敗や試練を通して実現される」という考えを述べています。彼は、真の人間の成熟や幸せは成功や富、健康にあるのではなく、むしろ失敗や試練、病気といった苦難を通じて得られることが多いと伝えています。成功を追い求めるあまりかえって不幸になる人がいる一方で、困難を経験している人の中には、人生を深く味わい、真の幸せを感じている人が多いと述べています。
パウロは、第二コリント12章で、自分の肉体に「とげ」(病)があり、それを取り除いてくださいと何度も祈ったと記されています。パウロにとって、この病がなければ、もっと大きな働きができ、より快適な生活が送れると考えたことでしょう。彼は「そのとげを取り除いてください」と繰り返し祈りました。しかし、主は「わたしの恵みはあなたに十分である。なぜなら、わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからだ」とパウロに告げたのです。これを受けて、パウロは「私はキリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ります」と告白しました。パウロのこの告白は、病気をただ受け入れることを意味しているわけではありません。病の癒しのために適切な医療を用い、ケアを行い、祈りつつ癒されることを願うのは大切なことです。しかし、現実には、思うようにいかないこともあるのです。
倉敷の河野進牧師の「祈りの塔」という詩集の中にこんな詩があります。
病まなければ ささげ得ない祈りがある
病まなければ 信じ得ない奇跡がある
病まなければ 聞き得ないみ言葉がある
病まなければ 近づき得ない聖所がある
病まなければ 仰ぎ得ない聖顔がある
おお 病まなければ 私は人間でさえもあり得なかった
誰もが健康を願っています。しかし、どんなに健康を願っても、病気をしない人はいません。しかし、病むことによってこそ得ることのできるものがあります。その得るべきものこそが神の恵みです。すべてが順調にいくことが恵みではありません。困難や挫折、悲しみ、「なぜこんなことが起こるのか?」という苦しみの中でこそ見出すことのできる恵みがあるのです。しかも、その恵みは朝ごとに新たに与えられるものです。
主の真実は、私たちがどんな状況にあっても変わることなく信じて頼ることができるものです。そのような神から与えられる恵みは、揺らぐことのない、頼りがいのある支えなのです。
「彼は、罪を犯したことがなく、口にうそもなかった。」とペテロが語ったように、イエス・キリストはうそや偽りのない真実のお方です。また、ヨハネは福音書の中で、「ことばは人となって私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」と語っています。私たちは、真実で恵みに満ちておられるイエス・キリストによって支えられているからこそ、生きていくことができるのです。さらに、「私たちは、約束された方は真実であるからこそ、信仰の告白を揺るがすことなく保持し、望みを抱いて動揺せずに生きるべきです。」(ヘブル人への手紙)とあるように、私たちも不安や試練に直面することがありますが、そのようなときこそ、神の真実な約束に立ち、希望を告白しつつ、永遠を見つめながら生きることができるのです。
その昔、イスラエルの民は荒野で40年間さまよい、その後、約束の地に入ることができました。そして、各部族にその地を分けて与えられました。しかし、主の宮で奉仕する祭司やレビ人には土地が割り当てられませんでした。神は彼らに「わたしがあなたの割り当ての地であり、あなたの相続地である。」(民数記18章20節)と言われたのです。つまり、神ご自身が祭司やレビ人の割り当てであり、相続地であるということです。このことを思い起こした「哀歌」の著者は、「主こそ、私の受ける分です。」と告白したのです。エレミヤは、自分の愛する国がバビロニア帝国によって滅ぼされ、すべてを失ったように見えました。しかし、エレミヤは、決して失われることのない、誰にも奪われることのない「割り当て」があることを知っていました。それは、神ご自身が「私の受ける分」であるということなのです。
キリストによって生かされているこの時代において、キリストを信じる者は皆、神のものとされ、神に仕える祭司としての役割を担っています。私たちも同様に、「主こそ、私の受ける分です」と大胆に告白する者として生きることができます。すなわち、天地を創造された偉大な神こそが、私たちにとって最も高価な相続財産であるのです。
さらに、私たちは主の真実な愛と恵みをこの地上で受け続けながら、やがて永遠の秩序へと移されていくのです。だからこそ、主の恵みを待ち続ける姿勢がキリスト者の生活の中に現れるのです。「待つ」という行為は、一見消極的に見えるかもしれません。しかし、闇雲に焦っても良い結果を生むことはできません。「待ち望む」ということは、決して諦めることでも、現状を甘んじて受け入れることでもありません。神の真実な約束があるからこそ、私たちはその約束を信じ、期待をもって待つことができるのです。
「患難は忍耐を生み、忍耐は練られた品性を生み、練られた品性は希望を生み出します。」とパウロは言いました。神は、私たちを成長させるために、時に忍耐を強いることがあります。忍耐を通して、霊的な成長がもたらされ、神に従って生きる力と希望を得ることができるのです。
Author: Paulsletter