「神を信頼して生きる」

11月3日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「神を信頼して生きる」
(それではどう生きるのか⑥)
マタイの福音書6章25~34節

 本日のメッセージのタイトルは「神を信頼して生きる」です。
 神を信頼して生きるとは具体的にどのようなことであり、それが私たちの人生にどのような違いをもたらすのでしょうか。

 「神を信頼して生きる」ためには、信仰の対象となる神がどのような存在であるかを正しく理解し、その存在に心を委ねる姿勢を持つことが不可欠です。日本人はしばしば、信じる対象そのものよりも「信じる心」自体を重視する傾向にあります。つまり、信じる対象の確かさよりも、信仰の深さが重んじられるのです。しかし、信仰が熱心であったとしても、その対象が間違っていれば、信仰が深ければ深いほど危険になりうることを、歴史は繰り返し教えてきました。

 神がどのような存在であるかを正しく理解するために、私たちに与えられた最も重要な書物は聖書です。聖書には、私たちが神を知るために必要な真理がすべて網羅的に記されています。聖書は、1600年以上の年月をかけて、40人以上の著者によって書かれた66巻からなる書物です。その多くは、パレスチナ地域、小アジア、ギリシャ、およびローマで記され、成立した年代も古代とかなり古い時代のものです。このため、その背景にある歴史、文化、思想は、私たちにとって非常に遠いものであり、そのため、聖書は難解な書物といえるでしょう。しかし、はっきりしているのは、聖書がイエス・キリストという救い主に関する一つのテーマで貫かれており、矛盾することのない神から与えられた書物であるということです。

 現在、聖書は世界中の約3,500の言語に翻訳されています(2023年現在のデータに基づく)。内訳は、聖書全体(旧約・新約両方が含まれるもの)が736言語、新約聖書のみが1,658言語、聖書の一部(福音書など一部の書)で約1,100言語です。世界には約7,000の言語が存在するとされています。つまり、聖書は現在の言語のうち約50%以上の言語に少なくとも一部が翻訳されていることになります。このような書物は、いまだかつて存在していないでしょう。なぜ、聖書が多くの言語に翻訳され、多くの人に読まれているのでしょうか。それは、聖書が私たちに伝える神の言葉として、特別な位置づけと深い意味を持っているからです。

 今朝は、イエス・キリストの「山上の垂訓(教え)」から、「神を信頼して生きる」とはどいうことなのか、二つのポイントを挙げて考察したいと思います。

 イエスが宣教活動を開始された当初から、彼はすでにガリラヤ地方で広く知られ、多くの人々が彼の教えを聞き、癒しや奇跡を求めて集まっていました。しかし、マタイによる福音書5章の冒頭には「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と記されており、イエスが群衆を避けて山に登ったのではないかと推察されます。もちろん、それでもイエスに従う群衆が後を追ったことは否定できません。
 続いて、「イエスが腰を下ろされると、弟子たちが御もとに来た」とありますが、ユダヤ教のラビが正式に教える際には座ることが一般的でした。そのため、この教えが重要かつ核心的な内容であることが示されています。つまり、イエスはこの説教を通して、弟子たちが真の神を信頼し、神の国の働き手として生きるための「使命」や「価値観」を示し、弟子としての役割を教えたかったのではないかと考えられます。

① 心配しない

 今朝の聖書箇所のキーワードは、「心配しない」ということです。誰でも何らかの心配ごとがあります。心配すること自体は、聖書も悪いことではないと語っています。パウロは、自身の手紙において、「私には、なお毎日のように、すべての教会への心配がある。」(Ⅱコリ 11章28節)と語っています。ここでパウロが言う「心配」とは、教会の成長や信徒たちの信仰が正しい方向に進んでいるかということへの愛情深い配慮です。あるいは、Ⅰペテロ5章7節には、「神はあなたがたのことを心配してくださるからです」という描写があります。この箇所でも、「神があなたがたを思って配慮してくださる」という意味が込められています。つまり、聖書において、「心配する」ことは必ずしも悪いこととされているわけではありません。他者を思いやり、愛情をもって配慮する心配は大切なものです。

 しかし、私たちは、本来心配しなくてもよいことまで心配しているのではないでしょうか。不安が原因の心配や、相手を信頼できないための心配、心配すべきなのに無頓着でいるケースもあります。また、マルタの心配という例もあります。マルタは、イエスのもてなしに忙しくしていました。彼女は、マリアが自分を手伝わないことに不満を感じ、イエスに「妹が私にだけ仕事をさせているのを何とも思わないのですか?手伝うように言ってください」と訴えました。マルタは、多くのことに思い煩って、心が乱れていたのです。しかし、イエスはマルタに対し、「必要なことはただ一つである。」と言われました。マルタが抱えていた「思い煩い」とは、多くの仕事や責任に対する心配であり、それらに追われるあまり、神との交わりや霊的なことが後回しになっていました。イエスは、神との交わりがどんな仕事よりも優先されるべきであり、その交わりこそが私たちにとって「必要なこと」であると教えたのです。

 キリスト者が「心配せず、平和な心でいられる」とされるのは、神への信頼に基づいた信仰を持つからです。しかし、それは単に「楽観的である」とか「問題をないがしろにする」という意味ではなく、人生の根源的な部分において、心配をしないということです。その理由は、マタイによる福音書6章34節の「明日のことまで心配しなくてよい」という教えにあります。これは、将来のために準備をしなくても良いという意味ではありません。また、どれほど十分に準備をしても、それが完全であるとは限らず、心配な部分が残ることもあるでしょう。

 「明日のことまで心配しなくてよい」というその根拠を、ここに三つ挙げました。

◯神が私たちを生かしている

 私たちが生きるためには、確かに食べ物や衣服が必要です。しかし、そもそも私たちに命を与え、生かしてくださっているのは誰なのでしょうか。神を信じるとは、私たちを生かしているのが神であると信じることを意味します。だからこそ、私たちは心の底から神の前にひざまずき、感謝しつつも、明日をどう生きるかを心配する必要はありません。神が私たちを生かし、人生を支えてくださっているからです。

“自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。”25

◯神はすべてを知っておられる

 異邦人、すなわち神を信じない人々とは、人間が造った偶像を信じる人々を指しています。果たして、人間の都合によって造られた偶像が私たちのことを知っているのでしょうか。知っているどころか、そもそも生きているのでしょうか。私たちが信じる天の父なる神は生きており、私たちのすべてを知り、私たちの必要を把握し、私たちが求めるものを理解しておられます。私たちは、神が私たちに必要なものを備えてくださることを確信し、安心して神に委ねることができるため、心配から解放されるのです。

“ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。” 31-32

◯私たちの必要はすべて与えられる

 イエス・キリストが弟子たちに教えた「主の祈り」の中で、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈ります。私たちは、神が日々必要なものを与えてくださるにもかかわらず、その必要が満たされていても安心できずに、明日に必要なものを求めてしまいます。そして、明日になれば次の必要が生まれ、さらに明後日のもの、さらには老後に至るまで、これらが十分に備えられない限り安心できないのです。しかし、神は私たちの今日の必要も、明日の必要も、将来にわたる必要もすべてご存じであり、その日の糧を与えてくださいます。ですから、私たちは今日与えられた命に感謝し、毎日を生かしてくださる神をより一層信頼すべきです。

“まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。” 33-

② 神の国を信じる

 「神を信じる」ということは、「永遠を信じる」ということです。つまり、私たちの人生は肉体の死をもって終わるものではないということです。このことを考えると、本当に大切なものは何かを考えさせられます。自分にとって大切なものは、霊的、肉体的、心的、社会的な側面において必要かつ重要であり、私たちの現在と未来に関わるものです。未来とは、私たちが生きている間だけでなく、肉体的な死の後も含みます。

 マタイによる福音書6章19-21節には、「自分の宝を地上に蓄えるのをやめ、自分のために天に宝を蓄えなさい」と記されています。私たちはさまざまなことを心配しますが、本当に必要なものが何かを考えるよう促されています。ここでは、「宝」についての考え方や、どこに焦点を置くべきかが、「地上」と「天」の対比を通して示されています。「地上に蓄える宝」は物質的で一時的なものであり、いずれ朽ちてしまいます。それに対し、「天に蓄える宝」とは、善行や献金を意味するのではなく、私たちの心がどこに向いているかが重要なのです。

 人生にとって必要な視点(軸)が二つあります。一つは、「永遠」という視点です。これは肉体的な死が終焉ではないということです。もう一つは、「現在(今)」という視点です。視点が「永遠」だけであるならば、地上の責任ある人生を全うすることはできないでしょう。一方で、「現在」の視点だけで生きるならば、永遠を含む確かな人生を歩むことはできないでしょう。この二つの視点、すなわち、私たちは、「永遠」というゴールを見据えながら「現在」を生き、「今日」を歩みながら「永遠」を目指すのです。

 聖書によれば、イエス・キリストを信じる者は新しく生まれ変わり、神の子とされ、神の民となり、天に国籍を得るとされています。つまり、私たちは地上の生涯を旅人や寄留者として生きており、私たちの本籍は現在も「神の国」にあります。地上での人生は仮の住まいですが、本当の居場所は「神の国」にあります。キリスト者の人生とは、死後に天国に行くことを漠然とした将来の希望として持つことではなく、今この世界に生きながら、すでに神の国の民とされているということなのです。

“自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。” 20-21

◯今日の労苦を感謝して生きぬこう

 先日、呼吸法について学びました。呼吸法はリラックスやストレス軽減を目的としたもので、心を静めて落ち着くことが大切だそうです。具体的には、5秒間かけて鼻からゆっくりと息を吸い込み、次に30を数えながら口からゆっくりと息を吐き出します。このとき、全ての空気を吐き切ることが重要だと言われました。このことを学びながら、「吐き切る」とはどういうことなのか考えました。私たちは、人生における幸せの条件を「いかに多くを吸うか」と考えがちですが、実は「吐くこと」が大切だというのです。与えられているものを出し切ることが重要なのです。今日与えられたものを明日のために残しておくのではなく、今日のために使い切る。つまり、今日を精一杯生きるということです。与えられた生命を最後の一息まで吐き切って生きるのです。私たちは、今日の必要を満たしてくださる神を信じ、今日の恵みに感謝しながら生きるべきです。そのようにして、神の国を目指していきたいと思います。

“ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。” 34

Author: Paulsletter