10月27日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「わたしはあなたをさばかない」
(それではどう生きるのか⑤)
マタイの福音書7章1~5節
今朝は「人を裁かない」というテーマです。新約聖書における「裁き」という概念は、さまざまな文脈で使われていますが、その意味は次のように分類できます。
(1)「裁く」「判断を下す」
(2)「区別する」「識別する」
(3)「審査する」「吟味する」
イエスは、弟子たちに「人を裁いてはいけません」と命じました(マタイの福音書7章1節)。ここでの「裁く」とは、単なる判断や意見ではなく、自分を正しい立場に置いて他人を責めたり批判したり、見下すような態度を指しています。そこには、人のためになるという思いや敬意が欠けており、同情や愛情もありません。むしろ、自分の中にある満たされない感情を解消するためだけに裁いているのです。おそらく、イエスは弟子たちの間で互いに裁き合う姿を感じたか、そのような状況を目にしたのかもしれません。
この箇所を読んだ印象として、イエスがこの教えを語りながら、少しずつ興奮していく様子が伝わってきます。2節では、弟子たちに対して、「あなたがた」と一般的に語りかけていますが、3節になると「あなたは」に変わり、さらに5節では、まるで「どうして気付かないのか」と問いかけるかのように、「偽善者よ」と語調が一段と強くなっていきます。イエスの言葉を間近で聞いていた弟子たちは、次第に伏し目がちになり、最後にはイエスとまともに目を合わせられない様子が目に浮かびます。
しかし、イエスは、私たちが兄弟姉妹や同じ共同体に属する仲間として、互いに過ちを指摘し合い、教え合うことを否定しているわけではありません。新約聖書の他の箇所を見ても、互いの罪を戒め合い、教え合うことは非常に大切だと記されています。私たちは、指摘されなければ気づけないことも多いですが、その際には愛を持って示されなければなりません。また、愛情が感じられなければ、受け止める側も素直に受け入れることが難しくなるものです。表面的には同じ行為に見えても、それが「裁き」として伝わるのか「愛」として受け止められるのかは異なるのです。
こうしたことを心に留めつつ、今日も三つのことを考えてみたいと思います。
① 私もさばかれるべき者であることを忘れない
『裁いてはいけません。自分が裁かれないためです』という教えは、一見わかりやすい内容ですが、表面的な理解で終わってしまいがちです。ここだけを読むと、自分が裁かれたくなければ他人を裁くべきではない、と単純に解釈されてしまうかもしれません。しかし、ここでイエスが伝えようとしていることは、そのような消極的な内容ではありません。7章12節の「人にしてもらいたいと思うことを、あなたがたも人にしなさい」という教えが「黄金律」と呼ばれるように、これは単なる倫理ではなく、価値ある普遍的な道徳原理として弟子たちに深く刻まれたのです。
私たちは、やがて神の裁きの座に立つことを忘れてはなりません。もちろん、私たちが受けるべき罪の刑罰をイエス・キリストがすべて負ってくださっていることを知っています。神の前に立つときが来ても、私たちはイエス・キリストの血潮によって、誰一人罪に問われることなく、神に受け入れられるのです。問題は、そのように罪を赦された私たちが、赦された者として神に与えられた人生をどのように生きるかという点にあります。そして、やがて人生の決算の時が来るということも忘れてはなりません。しかし、そのように理解していても、私たちはいつでもどこでも人を裁いてしまうことがあるのです。
“さばいてはいけません。自分がさばかれないためです。” 1
後にパウロがローマの教会の人々に語ったように、私たちは神によって赦されていると知りながらも、他人の些細な過ちや欠点を指摘し、必要以上に批判してしまいがちです。人を裁いているとき、私たちは自らを義(正しい者)とし、本来の裁き主である神の立場に立とうとしているのです。つまり、正しいか正しくないかではなく、そもそも間違った立場に自分を置いているのです。
イエスは、「あなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか」と言われました。これは、兄弟の目の中のちりのような小さな欠点ばかりに目を向ける一方で、自分の目にある、ちりとは比較にならない梁のような大きな欠点や罪には気づかないのか、と問いかけているのです。イエスは、他人の小さな欠点を指摘する前に、自分の中の重大な問題に気づくことが大切だと教えています。
“ですから、すべて他人をさばく者よ、あなたに弁解の余地はありません。あなたは他人をさばくことで、自分自身にさばきを下しています。さばくあなたが同じことを行っているからです。” ローマ2:1
“それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな神のさばきの座に立つことになるのです。”ローマ14:10
② 私たちが「兄弟」であることを忘れない
マタイによる福音書7章の冒頭では、「兄弟」という言葉が繰り返されています。パウロも「どうして、自分の兄弟を裁くのですか」と語っています。キリスト者は清く生きることを目指しており、それ自体は素晴らしいことですが、しばしばその視線が「兄弟」に向けられがちです。遠くにいる自分とはあまり関係のない人には寛容で、赦すことができる一方で、身近な親、兄弟、友人、そして教会内の人たちに対しては、つい厳しくなってしまうことがあります。国と国の争いも同様です。イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナの関係が示すように、歴史的・文化的背景を共有する人々同士は、本来ならば互いに愛し合い、仲良くすべきですが、悲劇的な結果をもたらしています。近しい関係であるからこそ、対立はより複雑で、解決が困難になるのです。
ここで、牧生牧師は学生時代のY氏との出来事を涙ながらに語られました。この話は、牧生牧師が牧師としての在り方に深みをもたらすきっかけとなったものであり、独立して感動的な物語として成立しています。詳細はここでは割愛させていただきますが、いずれ何かの折に別稿でしっかりと書きたいと思っています(筆者)。
このエピソードは、牧生牧師が学生時代にY氏と共に下宿生活を送り、教会生活を送っていたときのことです。牧生牧師は次第にY氏に対して劣等感を覚えるようになり、最も身近で愛すべき親友であったY氏を否定し、侮辱するような言葉を口にしてしまいました。それも、皆の面前でのことでした。
その後、Y氏は牧生牧師のもとを去り、教会にも来なくなりました。そして、牧生牧師の結婚式の当日、7年ぶりにY氏から電話がありました。その電話を受けた牧生牧師は、当時のことを悔い改め、深く赦しを求めました。すると、Y氏は「牧生君、あのときのことは僕はすべて赦しているよ」と言ってくれました。牧生牧師は、イエス・キリストの赦しを教義として理解していました。しかし、Y氏を通しての経験は、その概念を単なる知識から、心の奥底に響く生きた信仰へと昇華させるものでした。
神の存在を信じていても、「あなたを赦している」という神の声を聞き、実感していますでしょうか。本日の説教の表題は「わたしはあなたを裁かない」というものであり、それは私たちに対する神の言葉です。神は私たちを愛し、赦してくださり、裁かないことを語ってくださっています。聖書が語っているのは、「裁いてはいけません」という単なる倫理的な教えではありません。それはもちろん大切なことですが、その教えで終わるものではありません。神は私たちを愛しているがゆえに、ご自分を私たちのために裁かれたのです。姦淫の場で捕らえられた女性に対して、イエスが「あなたを罪に定めない」と言われたように、私たちにも罪に問われないことを宣言してくださっているのです。
“信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。ある人は何を食べてもよいと信じていますが、弱い人は野菜しか食べません。食べる人は食べない人を見下してはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったのです。” ローマ14:1
③ 大切なのは「見えるようになること」であることを忘れない
繰り返しになりますが、他人の目の「ちり」を取り除くこと自体を否定しているわけではなく、「あなたも似たり寄ったりで裁く資格がない」と言っているわけではありません。そうではなく、何よりもまず、自分の目の中にある大きな過ちや欠点を取り除き、見えるようになることが必要だと言っているのです。「見えるようになる」とは、心の目が開かれることを指します。それは、神から与えられているものを知ることができるようになるということです。私たちは、人の足りない点や世の中の過ちを指摘しますが、それは目が肥えて分析力が高まることではなく、霊的な洞察力や理解力を通じて、神が与えている恵みの素晴らしさに気づくことなのです。
私のような失敗の経験を通じて学ぶこともあれば、神によって示されることもあるでしょう。神の赦しと愛の豊かさを知ることができるように、心から望んでいます。
“兄弟に向かって、『あなたの目からちりを取り除かせてください』と、どうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取り除きなさい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取り除くことができます。” 4-5
“また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。” エペソ1:18-
Author: Paulsletter