「天の幸い 地の幸い」
10月20日礼拝メッセージ
小平 恵牧師
「天の幸い 地の幸い」
マタイの福音書5章1~12節

星野富弘さんの詩「よろこびが集まったよりも」という作品があります。この詩には、表面的な幸福や強さではなく、苦しみや弱さの中にある深い意味や価値を見つめる視点が描かれています。詳しい解説は省きますが、この詩は、よろこびや幸福が集まることよりも、悲しみを共有することにこそ本当の幸せがあり、強さや力に頼るよりも、弱さや脆さを認め合うことで、より本質的な真実に近づけるというメッセージが込められています。彼の人生観やイエス・キリストに対する信仰が深く反映された作品であると思います。富弘さんの詩を読むたびに、さまざまな思いがこみ上げてきます。私たちの人生には、貧しさや病、痛み、争いがあり、時に傷つけ、また傷つけられることがあります。問題や悩み、失敗のない人生は存在しません。私たちの人生は、外面的な苦しみだけでなく、内面的にも、自分の弱さや過ちに悩むことが多いものです。これもまた人生だと感じる方もいるかもしれません。
詩篇34篇12節には、「いのちを慕い、幸せな日々を愛する者はだれか」というダビデの賛美の詩があります。これは、人生における充実感や幸福を求める者に向けた問いかけであり、その答えは神との親しい関係にあると示されています。すなわち、物質的な満足や外面的な成功ではなく、神の御心に従い、平安のうちに生きることが真の「幸せ」であるということです。このダビデの詩は、新約聖書の1ペテロ3:10-12でも引用されています。
イエスは、公の生涯を始めるにあたって、バプテスマのヨハネから洗礼を受けました。このとき、イエスは「すべての義を成就する」ことがご自身の使命であることを明確にされました。「義」とは、神に適った行為や完全な従順を意味し、それは律法を文字通りではなく、その精神に従って完全に成し遂げることを指しています。受洗の後、イエスは荒野で四十日間断食し、悪魔の試みに打ち勝たれました。そして、ガリラヤ地方のカペナウムを拠点に宣教を始められました。マタイによる福音書4章17節には、「悔い改めなさい。天の国は近づいた」という言葉とともに、イエスの宣教の始まりが記されています。イエスは、弟子たちと共に各地の会堂で教えを説き、病人を癒やされました。その働きに感銘を受けた多くの人々がイエスに従い、彼の教えに耳を傾けました。このような状況の中で、イエスは弟子たちを伴い、群衆の前で説教を行うために「山」に登られました。この説教が、「山上の垂訓(教え)」として広く知られています。
イザヤ書53章には、イエス・キリストの苦しみと救いの業を象徴する「メシア預言」が記されています。また、福音書を読み進めると、イエスは弟子たちに裏切られ、彼らはことごとくイエスの元から去っていくことがわかります。さらに、パリサイ派の人々や律法学者たちから妬まれ、憎まれ、命まで狙われます。
「人の子には枕する所もない」という言葉通り、イエスの福音宣教の旅は想像をはるかに超える過酷なものでした。痛み、渇き、飢えといった肉体的な苦痛だけでなく、精神的な負担も大きかったでしょう。イエスは、そのような状況の中で、人間としての弱さや悲しみを経験されました。そして、究極的には十字架の苦しみを背負い、私たちの罪のために命を捧げられたのです。
“彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。”イザヤ書53章3節
今朝の聖書箇所は、「山上の垂訓」の中でも特に重要な教えである「至福の教え」または「八福の教え」と呼ばれる部分です。受難の人生を経験されたイエス・キリストが、山上で語られた「幸せ」とはどのようなものだったのでしょうか。本日は、真の「幸福」について心を向けてみたいと思います。
① 幸いの意味
イエス・キリストは、「山上の垂訓(教え)」の中で、八つの「幸せ」について教えました(マタイの福音書5章3節~10節)。
① 心の貧しい者
② 悲しむ者
③ 柔和な者
④ 義に飢え渇く者
⑤ あわれみ深い者
⑥ 心のきよい者
⑦ 平和をつくる者
⑧ 義のために迫害されている者
ここには、私たちが思い描いているような「幸せ」の要素はありません。むしろ、逆に不幸と思われることばかりが列挙されています。10節には、「義のために迫害されている者」の「幸せ」の理由として「天の御国はその人たちのものだから」と記されています。ここでの「天の御国」とは、死後に行くことのできる「天国」を意味するものではありません。むしろ、神が王として統治される場所、すなわち神の御心が完全に行われる場所を指しています。私たちは今、神の支配の現実の中に生き、神の愛と守りの中で生活していることを示しているのです。したがって、義のために迫害されているとしても、それは神の御旨の中で生かされていることを意味し、それこそが真の「幸せ」であると教えられています。
「心の貧しい者」は謙遜な者や遜った者とされがちですが、実際にはそういうことではありません。「心の貧しい者」とは、単なる物質的な貧困を指すのではなく、自分の力や能力を過信せず、神の恵みに頼ることを意味しています。たとえ物質的に豊かで、思い通りの生活を送っていても、神が共におられないのであれば何の意味もありません。ですから、「心の貧しい者」とは、神が共にいてくださることを渇望する姿勢を意味し、霊的に飢え渇いている状態を表しています。
「悲しむ者」、すなわち罪と苦しみの現実に対する深い悲しみを抱く者は、最終的に神の慰めと回復を受けることが約束されています。
自己中心的な野心や欲望に駆られることなく、神に従順である「柔和な者」は、神が支配する「神の国」において神の豊かな祝福を受け継ぐことが約束されています。
「義(正しいこと)に飢え渇いている者」とは、神の正義や真理を渇望する者を指します。私たちは、自分の考えや経験をもとに「これが正しい」と決めつけがちですが、さまざまな価値観によって正しさが氾濫しています。私たちは、神が意図する「義(正しさ)」が何であるかを熱心に求めるべきであり、この求めによって「満ち足りる」ことが約束されています。
私たちは、神からどれほどの憐みを受けている存在でしょうか。そのことを深く認識する時、私たちも「憐み深い者」とされます。
「心の清い者」とは、神を第一に求め、偽りや罪から遠ざかり、神の前に誠実な心を持つ人を指します。彼らは「神を見る」と約束されており、霊的に神と直接交わり、神の臨在を経験することを意味しています。
「平和をつくる者」も同様です。私たちが争いや対立の中にあっても、神は私たちに平和を与えてくださいます。神の和解の使命を担う者として、私たちは平和をつくり出す者とされるのです。「義のために迫害されている者」は、理不尽に苦しむことがあるかもしれませんが、神の支配の中で忘れられることはありません。これらは、イエス・キリストが十字架の死と復活によってもたらした、罪が赦され神の子とされるという事実に基づく結果であり、真の「幸い」なのです。
“「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。” 詩篇 16:2
“シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」するとイエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。」”16:16~17
② 作るものと与えられるもの
私たちは誰もが「幸せ」になりたいと願っています。苦しみや悲しみといった「不幸」を求める人はいないでしょう。「幸せ」になるために、私たちは何をすれば良いのか、さまざまなことを思い巡らせます。物質的に豊かになるには、どうお金を稼ぎ、どのように財テクをすればいいのか。また、人間関係に平和を保つためには、気の合わない人とは距離を置くべきだと、人間的な知恵であれこれ策を講じます。貧困や病、人との不和は確かに辛く悲しいことです。しかし、物質的に豊かになることも、結局は虚しさを覚えることがあります。最終的には、どこかで折り合いをつけ、「人生とはそういうものだ」と達観し、あるいは諦めてしまうのです。
旧約聖書には、ヨブという人物が登場します。彼は潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかって生きていました。ヨブには七人の息子と三人の娘がいて、羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭、さらに非常に多くのしもべを持つ、東の一地方で一番の富豪でした。ところが、ある日、家族も家畜もすべての所有物をサタンによって奪われてしまいます。サタンは、ヨブの信仰が彼の富や祝福によるものであり、すべてを失えば神を呪うだろうと考えたのです。さらに、ヨブ自身も頭からつま先まで悪性の腫瘍に苦しむことになります。それでもヨブは、「主(神)は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と言い、その試練を受け入れます。ヨブはこのような厳しい状況にありながら、不平を言うことなく、罪を犯すこともせず、幸福も不幸も神からのものであり、共に受け入れるべきだと、強く信仰を表明したのです。
“私たちは幸いを神から受けるのだから、災いも受けるべきではないか。” ヨブ記 2:10
ヨハネの手紙には、「たましいの幸い」について言及されています。この手紙は、伝統的には使徒ヨハネが著したものとされていますが、近年の研究では、使徒ヨハネ本人によるものか、別の者によるものかについて議論があります。いずれにせよ、手紙が「長老」としての立場から送られたことは明らかです。
この手紙に「あなたのたましいが幸いを得ているように」と記されています。この「幸いを得ている」という表現のギリシャ語は「εὐοδόω(euodoo)」で、もともとは「良い道を進む」「旅が無事に成功する」「繁栄する」という意味があります。この言葉は、物理的な旅の成功や繁栄を指すこともあれば、霊的な繁栄や祝福、魂の健康を意味することもあります。一方で、ローマ書15章32節では、パウロが宣教の旅に関して「道が開かれる」ことを祈り求めています。ここでも「εὐοδόω」に似た概念が用いられており、パウロは自分の宣教活動や旅路が神の導きのもとで進展することを願っています。結論として、第三ヨハネ2節の「幸いを得る」と、ローマ書におけるパウロの宣教の「道が開かれる」という表現には共通点があります。どちらも、神の導きのもとで無事に目的に達することを意味しています。
イエスは、私たちの人生の旅路も神の支配と導きの中で歩むべきものだと教えておられます。神から与えられる「幸せな」人生こそが、真の祝福なのです。
“愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。”ヨハネの手紙第三 2
“幸いなことよ。主を恐れ、主の道を歩むすべての人は。あなたがその手で労したみのりを食べること それはあなたの幸い あなたへの恵み。” 詩篇 128:1,2
“…しかし、誠実な人たちは幸せを受け継ぐ。” 箴言 28:10
③ 幸いであり続けるためには
私たちが「幸い」であり続けるためには、神の支配の中にいることが重要です。すなわち、天の御国が自分のものであるという信仰を持ち続けることです。それは、私たちがイエス・キリストの十字架の死と復活を信じ、受け入れ、罪を悔い改めて、その赦しを得て生きているかどうかにかかっています。
ヨシュア記7章には、アカンに関する罪が記されています。イスラエルの民がエリコを攻略した後、神の命令に反して禁じられたものを盗んでしまったのです。戦利品は「主に捧げられるもの」とされ、誰もそれを手に取ってはならないとされていたからです。アカンは罪を犯した後、自分の行いを悔い改めることなく、盗んだ物を隠していました。神は彼の罪を明らかにし、最終的にアカンは自らの罪を認めざるを得なくなりましたが、その時にはすでに手遅れでした。アカンの罪は個人の罪にとどまらず、イスラエル全体にも影響を及ぼしたのです。
聖書には、さまざまな罪を犯した人物が登場します。イスラエルの王ダビデは、姦淫と殺人の罪を犯しました。ペテロは自己保身のためにイエスを三度知らないと否認しました。彼らの罪は神によって赦されましたが、アカンの罪は赦されませんでした。アカンとダビデとの違いはどこにあるのでしょうか。ペテロとダビデは、神に対して重大な罪を犯しましたが、それぞれの罪を通じて深い後悔と悔い改めの過程を経て、神との関係を回復しました。神の慈しみと赦しを求めることで、信仰の道を歩み続けることができたのです。一方で、アカンは罪を犯した後、自分の行いを悔い改めることなく、盗んだ物を隠していました。彼は神を軽んじていたのです。アカンは神の怒りを招き、家族と共に石で打ち殺されました。神には、隠し通せるものは何もありません。目に見える物だけでなく、私たちの心の内にあるものもすべて、神はご存じなのです。
人類は神に背いたことにより、神との正しい関係を失いました。その結果、誰もが罪人となり、正しいことを行うことができず、不法に生きる者となりました。しかし、イエス・キリストの十字架によって、その罪は赦されました。この赦しによって、人は神との平和な関係に入ることができたのです。この赦しは、私たちの力や行いによるものではなく、神の一方的な恵みによって与えられたものです。罪が赦されることこそ、最大の祝福であり、真の幸いです。私たちは、変わることなく、失われることのないこの「幸い」の中に生かされているのです。
“「幸いなことよ、不法を赦され、罪を覆われた人たち。幸いなことよ、主が罪をお認めにならない人。」”ローマ人への手紙 4:7、8
“幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、嘲る者の座に着かない人。主の教えを喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさむ人。その人は、流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結び、その葉は枯れず、そのなすことはすべて栄える。”詩篇1:1~3
“試練に耐える人は幸いです。耐え抜いた人は、神を愛する者たちに約束された、いのちの冠を受けるからです。” ヤコブの手紙 1:12
“「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、口に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。」” ペテロの手紙第一3:10~11
Author: Paulsletter