10月13日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「神よ、私たちに勇気を与えてください」
歴代誌第一28章9節~10節
一般的に「自信」は、自分自身の能力や資質、経験に基づくものです。しかし、これには限界があり、過剰な自信は傲慢さや自己中心的な思考を生み出し、他者との関係や神とのつながりを疎遠にする危険性を伴っています。人は不完全な存在であり、誰もが失敗や弱さを抱えています。これは「自信」の負の側面であり、自己過信や過大評価に繋がることもあります。一方で、「勇気」は神から与えられるものです。これは自分自身に根拠を置くのではなく、神の力と導きを信頼することから生まれるのです。
聖書には、神がたびたび人々に「恐れるな」「勇気を出せ」と語りかける場面が頻繁に登場しますが、「自信」という言葉は一度しか出てきません。しかも、この「自信」という言葉も、安心しきった心の状態や揺るぎない信頼を意味しており、自己中心的な自信ではなく、神に対する完全な信頼に基づく平安や確信を指していると考えられます。
“悪しき者は追う者もいないのに逃げるが、正しき者は若獅子のように自信に満ちている。”箴言 28章1節
「自信」と「勇気」の違いは、自分の能力や力に頼るのではなく、神の約束と導きに基づき、神の力を信頼し、神が共におられることに安心して行動する心を持つことだと考えます。私たちにとって大切なのは、自分の限界を理解しながら、神に依存する勇気を持つことです。
歴代誌第一28章の冒頭では、ダビデが神殿建設に関する重要事項を伝えるために、全イスラエルの指導者、部族の長、軍の将校、国の高官、さらに息子たちを含む多くの人々を集めました。ダビデ自身は、神のために神殿を建設することを強く望んでいましたが、彼は多くの戦争を経験し、多くの血を流したため、神からその役割を許されませんでした。神は、父ダビデではなく、息子ソロモンを選び、彼をイスラエルの王とし、神殿を建設する者と定められました。この啓示は神の約束に基づいており、ソロモンが神に従い、律法を守るならば、神の祝福が続くことが約束されています。
今朝の聖書箇所では、イスラエルの王ダビデが、神殿建設の準備を行い、次の王となる息子ソロモンに大切な教えを授けました。それは、神から「勇気」がどのように与えられるのか、その秘訣についての教えでもありました。
“わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。もし、あなたが神を離れるなら、神はあなたをとこしえまでも退けられる。今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるためあなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。”28:9-10
① 勇気は、「神を知る」ことから与えられる
私たちは、何かプロジェクトを始めるとき、自分の能力や計画がしっかりしているか、また、それを実行するための費用が十分に用意されているかを慎重に考えます。しかし、考えれば考えるほど「自信」を失うこともあるでしょう。このように計算することは重要ですが、まずは、そのプロジェクトが神のご計画や導きによって与えられているかどうかを確認することが大切です。ダビデはまず、ソロモンに「神を知る」ことを命じています。この「知る」とは、単なる知識の習得ではなく、神との深い関係を築くことを意味します。自分の力に頼るのではなく、神からの守りと導きに対する揺るぎない確信によって「勇気」が与えられるのです。
“わが子ソロモンよ。今あなたはあなたの父の神を知りなさい。” 9
私たちには、二人の先生が与えられています。一人は「経験」という先生です。「経験」は、多くのことを教えてくれる素晴らしい先生ですが、欠点もあります。それは、この授業料があまりにも高いことです。高い授業料を払って身に付くこともあれば、ただ無駄に終わってしまうこともあります。もう一人の先生は、神の「御言葉」です。こちらは「経験」と違って無料です。「経験」で学ぶべきことも、聖書の御言葉を通してあらかじめ知ることもでき、授業料は必要ありません。
18世紀のイングランド国教会の司祭で、後にメソジスト運動と呼ばれる信仰覚醒運動を指導したジョン・ウェスレーは、「聖書」「伝統」「理性」に「経験」を加えた4つの神学的判断基準(ウェスレーの四辺形)を理論化しました。彼はこれらの4つを同列に並べるのではなく、神の御言葉である「聖書」を至高の基準、唯一の権威とし、他の「伝統」「理性」「経験」を聖書の教えを支持するためのしもべのようなものであると位置づけました。
神は私たちの人生において、歩むべき道や使命を与えてくださいますが、それだけではなく、それを全うするために必要な力も与えてくださいます。神を知ること、すなわち神の「御言葉」である「聖書」によって教えられることが多く、それが「勇気」の源となるのです。
② 勇気は、心を尽くして仕える者に与えられる
さらに、ダビデはソロモンに対して、「全き心」と「喜ぶ心」を持って神に仕えるよう勧めています。「全き心」とは、完全で誠実な心のことであり、これは形式的に仕えることではなく、真心からの献身と信仰に基づくものです。「喜ぶ心」とは、自発的で喜びをもって仕える姿勢を示しています。神を知り、全き心と喜びをもって神に仕えることが、ソロモンが王として成功するための鍵となるのです。したがって、ダビデは、ソロモンに立派な神殿を建てることを求めたのではなく、心を尽くして神のために宮を建設するよう勧めたのです。また、「勇気」は、困難な状況にあっても実行しようとする人に与えられるものであり、勇気が与えられるまで待つ者には、いつまでも与えられません。自分にはそのような能力や資質がないと感じることがあるかもしれませんが、心を込めて献身的に自らを犠牲にし、尽くす人に対して、神は「勇気」を与えてくださるのです。
“全き心と喜ばしい心持ちをもって神に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いの向かうところを読み取られるからである。もし、あなたが神を求めるなら、神はあなたにご自分を現される。…”9
私の大好きな「竹筒の水」のたとえ話があります。ある人が砂漠を旅していると、強烈な日差しと旅の疲れでのどが渇ききっていました。やがて彼は、目の前にわずかな緑の木陰と井戸を見つけました。力を振り絞って井戸のポンプを動かしてみましたが、井戸は乾いた音を立てるだけで水を汲み上げることができませんでした。力尽きた彼は、その場に倒れ込んでしまいました。
そのとき、彼の指先に何かが触れました。見ると、そこには一本の竹筒が転がっていました。「何だろう」と思い、竹筒を手に取って振ってみると、その中には水が入っていたのです。「ああ、助かった!」と喜んだ彼は、その水を飲もうとしましたが、竹筒には次のような文字が記されていました。
「この竹筒の水をすべてこの井戸のポンプに注ぎ込んでください。そして、次の人のためにまたこの筒に水を満たしておいてください。」
このような状況で、皆さんならどうするでしょうか? 誰も見ていない中で、やっと手に入れたわずかな水を井戸のポンプに注ぐべきか、それとも渇きを癒すために自分で飲むべきか、という選択です。もしポンプに注いだ水が無駄になったらどうしよう、と不安になるかもしれません。しかし、もしかすると、その水が呼び水となり、井戸から豊かな水が溢れ出すかもしれないのです。彼は竹筒の水をすべてポンプに注ぎ、力を込めてポンプを動かしました。すると、「ゴボッ、ゴボッ」という音とともに、井戸の底から水が湧き上がってきました。彼はポンプから溢れる水で渇きを癒し、新たな力を得て、再び旅を続けることができました。もちろん、彼は竹筒にもたっぷりと水を満たし、それを元の場所に戻しました。
このたとえ話のポイントは、自分自身の渇きを癒すだけなら「勇気」は必要ないということです。他者の渇いた喉を思い、彼らのために自分を犠牲にする愛があるかどうかが重要なのです。小さな共同体やグループに参加するだけでは、犠牲は伴わないかもしれません。しかし、誠実な心を持って自分のあるものを喜んで捧げるところに、神から与えられる「勇気」が必要なのです。
③ 勇気は、自分に与えられた召しに応えて生きる者に与えられる
②と関連する部分があるかもしれませんが、神がソロモンに神殿を建てさせようとしておられるという特別な使命は、神の選びによって召されていることを意味しています。それは、もしかすると自分が望んでいることではなく、自分には不可能だと思うことかもしれません。自分のやりたいことだけをしている間は、「勇気」は不要かもしれませんが、神が私たちに与えられた使命に応えようとするとき、神からの「勇気」が必要となるのです。そのためには、神の御心を知り、それが神から与えられた使命であると確信することが大切です。神から与えられた使命に挑戦するとき、私たちは「勇気」を与えられ、それを乗り越える力も授けられるのです。
“今、心に留めなさい。主は聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。勇気を出して実行しなさい。”10
Author: Paulsletter