「地の塩、世の光とされて」

10月6日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「地の塩、世の光とされて」
(それではどう生きるのか④)
マタイの福音書5章13~16節

 イエスが宣教活動を開始された当初から、彼はすでにガリラヤ地方で広く知られ、多くの人々が彼の教えを聞き、癒しや奇跡を求めて集まっていました。その噂はシリア、デカポリス、エルサレム、ユダヤなど広範囲に広がり、イエスの活動は地方的なものから次第に広域的なものへと発展していきました。こうした状況の中で、イエスは「山」に登り、弟子たちや群衆に向けて教えを始めました。この教えは、「山上の垂訓」(または説教)として知られる有名な箇所です。

 イエス・キリストは、ご自身に従う者たちを「地の塩」および「世の光」と呼ばれました。これは単なる理想や目標を示すものではなく、すでに私たちがそのような存在であることを宣言しています。つまり、私たちはイエス・キリストの弟子として、この世において「塩」や「光」として生かされている、かけがえのない存在なのです。「塩」と「光」は、日常生活に欠かせないものであり、イエス・キリストは、誰もが知る身近なものを用いて、神の栄光を示す生き方をするよう教えられたのです。

 今朝は、この御言葉の恵みを心に留めながら、私たちキリスト者が人々の間でどのような存在であり、どのようにあるべきかを考えたいと思います。そのために、「地の塩、世の光」としての私たちの役割と使命について学んでまいりましょう。

① 自分ではなく、人々を活かすために

 「地の塩」の「地」とは、私たちが生かされている世俗のことであり、家庭や職場、学校や地域社会を指します。

 パレスチナには、死海の南西部に広がる丘陵地帯に「ソドムの山」と呼ばれる巨大な岩塩の山があり、塩の豊富な供給源となっています。塩は防腐や浄化の効果があり、調味料としても重要な役割を果たします。塩自体には匂いがなく、他のものと混ざっても外観に特に影響を与えず、塩気を誇張することもありません。それは、他のものを引き立たせ、生かすための存在です。しかし、塩は風化したり、空気中の水蒸気を吸収して潮解したりすることがあります。このように塩が「味を失う」と、もはや肥料としても役立たず、無用のものとして道に捨てられてしまいます。

“もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけです。” 13

 「塩気」という表現は、私たちが自分自身を主張するのではなく、隣人や他者に良い影響を与え、最終的には神の栄光を表すことを指しています。これは、私たち自身の性質が優れているからではなく、私たちの内におられる神の性質がそれを可能にしてくださるからです。したがって、これもまた私たちの努力や頑張りによって成し遂げられるものではありません。私たちは小さく、弱い存在かもしれませんが、神によって生かされていることを忘れてはならないのです。そして、自分ではなく、人々を活かすために用いられるのです。

“あなたがたのことばが、いつも親切で、塩味の効いたものであるようにしなさい。そうすれば、一人ひとりにどのように答えたらよいかが分かります。” コロサイ 4:6

② 自分ではなく、神の光を輝かせるために

 「世の光」の「光」とは、暗闇を照らす輝きであり、同時に殺菌作用も持っています。しかし、この「光」も「塩」と同様に、私たち自身の性質そのものが発するものではなく、イエス・キリストに照らされた結果として輝くものです。そして、その光は私たちを通して隣人をも輝かせることができます。世界は霊的な「暗闇」、つまり罪や不義、神からの疎外によって覆われています。私たちは、その暗闇を照らす存在となり、神の臨在や栄光を通して、人々が神を信じ、崇めるように期待されています。

 ここで、「明かりをともして升の下に置いたりはしません」と記されているのは、キリスト者が周囲に隠れず、目立つ存在であるべきことを示しています。当時、「升」は家庭でパンを作る際に麦粉を量る道具として使われていました。婦人たちは市場で麦粉を買うとき、商人の不正を防ぐために、自分の「升」を持参していました。その升をベールや外套の中に隠して運ぶ習慣があったのです。この比喩は、「光」が「升」の下に隠されるものではなく、燭台に置かれて部屋全体を照らすべきものであることを示しています。ちなみに、当時の灯火は手燭にオリーブ油を入れ、麻布の燈心を浸して火を灯していたとされています。

“山の上にある町は隠れることができません。また、明かりをともして升の下に置いたりはしません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです。” 14-

 いずれにせよ、「地の塩」や「世の光」の性質や役割が私たちにあるとするなら、それらは神からのものであり、私たち自身にはこれらの性質を持ち合わせていませんし、そのような力もありません。もしそれが可能であるとすれば、それは私たちの内におられる方がなしてくださる業であることを、繰り返し心に留めておく必要があります。

“飢えた者に心を配り、苦しむ者の願いを満たすなら、あなたの光は闇の中に輝き上り、あなたの暗闇は真昼のようになる。” イザヤ 58:10

③ かけがえのない存在であることを忘れずに

 私たち一人ひとりが、イエス・キリストの弟子として「地の塩」や「世の光」であるように言われているのは、これらが守るべき目標や戒めではありません。前述のとおり、これらはイエス・キリストの性質が私たちに内住していることによって、すでにそのような存在であることを宣言しています。

 マタイによる福音書5章の冒頭では、八つの至福の教えについて記されています。私たちは、本当の幸せとは何かを考えなければなりません。幸せには二つの意味があります。

 一つは「ハッピー」や「ハッピネス」と呼ばれる幸せです。これらの言葉の語源は、一般的に古ノルド語(古北欧の言語)の「happ」(機会)とされており、「happen」(起きる、偶然出くわす)という動詞も起源は同じです。「hap-」は「運命」や「偶然」を意味し、つまり「何が起こるか」という不確定性に関連しています。したがって、「ハッピー」や「ハッピネス」は、幸せや幸福が偶然や運命によってもたらされることを示しています。これらはやがて消え去り、無くなってしまうものです。

 もう一つの「幸せ」は、「blessing you」という意味を持ちます。これは、「幸せはあなたへの祝福である」ということです。「祝福」とは、私たちがどんな状況にあっても、神からの好意や良い事柄がもたらされることを示しています。幸せは、神からの恵みや祝福の結果であるという考え方です。つまり、幸せは神の恵みによって成り立ち、個人の幸せが他者にも良い影響を与えることを示しています。

 したがって、本質的な「幸せ」とは、イエス・キリストが私たちを心から愛してくださっているということです。イエス・キリストは私たちのために命の血を流され、その祝福の恵みを私たちは享受しています。そのような祝福があるからこそ、私たちは「地の塩」や「世の光」という使命を肯定的に捉えることができるのです。「ハッピー」あるいは「ハッピネス」志向の生き方には、肯定的な価値観は生まれてこないのではないでしょうか。他者の存在を活かし、輝かせ、神の栄光を表す生き方とは正反対の生き方になってしまうかもしれません。良い行いをしても、その努力が結局は自分に還ってくることを求めているのではないかと思うのです。

 本当の意味で「地の塩」や「世の光」として生きることは、神の祝福を喜びとして目指すものだと思います。私たちは神に生かされており、かけがえのない存在として、大切な役割と使命を持っています。

“あなたがたは地の塩です。…あなたがたは世の光です。” 13,14

“イエスは再び人々に語られた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます。」” ヨハネ 8:12

“「起きよ。輝け。まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く。見よ、闇が地をおおっている。暗黒が諸国の民を。しかし、あなたの上には主が輝き、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちを歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。” イザヤ 60:1-3

Author: Paulsletter