「私たちは心配しない」

9月29日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「私たちは心配しない」
(それではどう生きるのか③)
マタイの福音書6章25~34節

 「神を信じて生きるとはどういうことなのか」というテーマで学んでいます。
 確かに、信仰が必ずしも物質的な豊かさや健康をもたらすわけではないことは、多くの人が経験を通じて理解しているでしょう。神を信じていても病気になることはありえますし、心の苦しみを抱えることもあるかもしれません。しかし、信仰の真価は、そのような困難な状況においてこそ問われるのではないでしょうか。病や苦しみの中にあっても、信仰は私たちに生きる希望を与え、困難を乗り越える力を与えてくれます。それは、苦難の中にこそ神の存在を感じ、その愛に支えられているという確信を持つことができるからです。

 新約聖書には、イエスが盲目の人を癒す場面がありますが、その盲目は本人や両親の罪の結果ではなく、神の栄光を現すためであると説明されています。つまり、病気は必ずしも罪や裁きの結果ではなく、信仰の有無とも無関係である場合があります。むしろ、神の御心によって、特定の目的のために与えられることもあるのです。

 今朝の聖書箇所で強調されたキーワードは「心配」です。25節、27節、28節、31節、そして34節で「心配する」という言葉が繰り返し使われています。私たちはしばしば、未来や明日のことを心配します。「心配する」という言葉の語源は「心が分裂する」という意味で、心が乱れることを表しています。

 イエスがマルタとマリアの家を訪れたとき、マルタはもてなしの仕事で忙しくしていました。彼女は、マリアが自分を手伝わないことに不満を感じ、イエスに「妹が私にだけ仕事をさせているのを何とも思わないのですか?手伝うように言ってください」と訴えました。マルタは、多くのことに心を悩ませ、心が乱れていたのです。しかし、イエスはマルタに対し、「もっと大切なことがある」と教えました。

 もう一つの重要なキーワードは「あなたがたの天の父」です。私たちが神を「父」と呼んで祈ることは、神への深い信頼を表しています。日常生活では、さまざまな心配や不安に直面しますが、その中には健全な心配もあるかもしれません。しかし、過度に思い悩む必要はありません。神を信じるとは、私たちのすべての心配や不安を神にゆだね、神の配慮と愛を信頼することです。それによって、私たちは平安と安心を得ることができるのです。

① 心配しても心配しすぎない

 「明日のことまで思い悩むのはやめなさい」というイエスの教えは、将来のために準備をしなくても良いという意味ではありません。また、どれほど十分に準備をしても、それが完全であるとは限らず、心配な部分が残ることもあるでしょう。大切なのは、十分に準備をしたのであれば、あとは神に委ねることです。その根拠は、25節に記されている通り、以下の二つの点にあります。

◯いのちを与えているのは神だから

 「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと心配してはいけません。」私たちに命を与え、身体を与えてくださった神が、私たちの命や身体に必要なものを与えないことがあるでしょうか。ですから、創造主である神が私たちに命と身体を与えてくださったという事実をしっかりと心に留めておきたいと思います。私たちが神を信じるということは、私たちの存在そのものが神から始まっていることを意味します。したがって、私たちの存在の根幹に関わることについて心配する必要はないのです。

 「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。」神によって養われるという点では、空の鳥も野の花も、私たちも同じです。心配したからといって、自分の命を少しでも延ばすことができるでしょうか。私たちの地上の生涯がどこまで続くかはわかりません。しかし、わかっているのは、すべては神から始まり、神が私たちに存在の意味を与えてくださっているということです。私たちができることは、神が私たちを生かしてくださっていることに感謝し、その信頼に生きることなのです。だからこそ、心配する必要はないのです。

“あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。”27

◯神は私たちに無関心ではおられないから

 神が私たちのすべての必要を私たち以上に知っており、備えてくださるということです。私たちは、必要なものがあるから安心するのではありません。神が私たちの必要を十分に知っているからこそ安心でき、その安心をもって平安が与えられるのです。

 以前、「主の祈り」について、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」と祈ることを学びました。神は日ごとに必要なものを与えてくださいますが、私たちはその日々の必要を満たされてもなお、安心できずに明日に必要なものを求めてしまいます。そして、明日になればまた次の必要が生まれ、さらに明後日のもの、さらには老後に至るまで、これらが十分に備えられない限り安心できないのです。しかし、神は私たちの今日の必要も、明日の必要も、将来にわたる必要もすべてご存じであり、その日の糧を与えてくださいます。ですから、私たちは今日与えられた命に感謝し、毎日を生かしてくださる神をもっと信頼すべきなのです。

“ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。…” 31-

 イエスが湖の向こう岸へ渡るために弟子たちと舟に乗っていたとき、突如として激しい嵐が起こりました。しかし、イエスは嵐の中でも安らかに眠っておられました。一方、弟子たちはガリラヤ湖という自分たちの慣れた漁場でありながら、恐怖に圧倒され、イエスが自分たちの危機を気にかけていないのではないかと不安を抱きました。弟子たちの目には、イエスが困難に直面している彼らに関心を示していないように映ったのです。結果として、弟子たちは困難な状況の中で、神に対する信仰と信頼を保つことができなかったのです。

“ところがイエスは、船尾で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生。私たちが死んでも、かまわないのですか」と言った。” マルコ 4:38

 しかし、そんな弟子のひとりのペテロでありましたが、彼の生涯最後の手紙には次のように書かれています。神は私たちを愛し、私たちの心配をしてくださっています。人は私たちの必要を忘れてしまうことがありますが、神は決して私たちの必要を忘れることはありません。ですから、私たちは抱えるすべての不安や問題を神に委ね、神の配慮と愛に信頼することで、平安と安心を得ることができるのです。この手紙の一節は、日常生活の中で不安や悩みに直面するすべての人にとって励ましとなり、神への全面的な信頼によって思い煩うことがなくなるというメッセージを伝えています。

“あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。” 1 ペテロ 5:7

② 永遠の視点をもって今日を生きよう

◯自分に本当に必要なことのために生きよう

 イエス・キリストは、山上の説教において、「自分のために地上に宝をたくわえてはいけません。むしろ、天に宝をたくわえなさい」と大切な真理を教えています。私たちは、さまざまなことを心配していますが、本当に必要なものは何かを考えるように促されているのです。すなわち、「宝」についての考え方や、どこに焦点を置くべきかを「地上」と「天」との対比を通して示しています。共通している点は「蓄積する」ということですが、どちらに蓄積するのが自分のためになるのかが問われています。

 「地上」に蓄える「宝」は物質的なものであり、一時的で、最終的には朽ちていくものです。一方で、「天」に蓄える「宝」は神との関係や信仰によって得られる霊的なものであり、永遠に価値のあるものです。イエス・キリストは、私たちを救い、永遠の命を与えてくださいました。これこそが永遠に残る価値あるものではないでしょうか。私たちにとって大切なのは、心が物質的なものではなく、霊的で永遠に価値のあるものに向けられるべきだとイエス・キリストは教えているのです。

 私たちにとって重要な視点は、「現在」と「永遠」です。「永遠」という視点は、自分が将来天国に行けるということだけではありません。「永遠」の意味を捉えて考えることは重要ですが、死んでも天国に行けるということだけでは、地上での人生を全うすることはできません。一方で、「現在」だけを見ているなら、確固たる歩みを持つことはできません。私たちは、「永遠」というゴールを見据えながら現在を生き、今日を歩みながら永遠を目指すのです。

 聖書は私たちを「旅人」にたとえていますが、「神の御国」というゴールを目指しながら今日の道のりを歩んでいくことを意味しています。ゴールがわからなければ、今日の一歩の目的もわからず、どちらを向いて歩めばよいかわからなくなります。しかし、一歩を踏み出さなければゴールにはたどり着けません。ですから、「現在」と「永遠」という視点がなければ、人生は刹那的になってしまいます。私たちは、「神の御国」に国籍を持ち、地上では「旅人」であることを忘れてはならないのです。

“自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです。” 20-21

◯今日の労苦を全力で生きぬこう

 福音書が書かれた時代、一般の人々は今日のために精一杯生きており、明日のために蓄えを持つ余裕がある者は少なかったと思われます。そのため、「何を食べるか、何を飲むか、何を着るか」ということは贅沢なことではなく、人々にとっては切実な問題だったのだと思います。したがって、明日のことまで心配することは、まさに思い煩いを意味しているのです。

 イエス・キリストは、「明日のことまで心配する必要はありません。今日の糧は与えられるので祈りなさい。明日のことは明日が心配し、その日の苦労はその日で十分です」と教えています。その日その日の糧は必ず与えられ、明日はまた明日で備えられるのです。私たちは豊かな環境に生きているにもかかわらず、明日のことを心配し、それ以上のものがなければ安心できなくなってしまっています。その結果、自分の思いや力を出し惜しみしてしまうのです。神は、その日その日の命を与え、生かしてくださいます。

 私たちは、さまざまな問題を抱えて生きています。しかし、神はそのすべてをご存じです。将来の心配も大切ですが、私たちは今日一日与えられているもの、委ねられているものを、神を愛し、隣人を愛するために惜しみなく捧げ、自分の人生を全うしたいと思っています。なぜなら、私たちのいのちは神に定められており、今日一日で人生が終わることになったとしても、その人生を使い切って終えたいと願っているからです。

“ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。” 34

Author: Paulsletter

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