「行け、あなたのその力で」 

9月22日礼拝メッセージ
吉田正明役員
「行け、あなたのその力で」 
士師記6章11〜24節

 旧約聖書の『ヨシュア記』は、イスラエルの民がカナンの地を征服する過程を描いたもので、「勝利の書」として知られています。モーセの後継者であるヨシュアが神の導きに従い、カナンの地を攻略し、ついに「約束の地」を手に入れるまでの道のりが記されています。この勝利は、イスラエルの民が神の指示に従い、信仰を守り続けた結果もたらされたものでした。

 一方、『士師記』では、ヨシュアの勝利の後、イスラエルの民が次第に神との契約を守れなくなり、信仰から離れていく様子が描かれています。カナンの地に定住した後、彼らは周囲の異民族と混じり合い、その文化や宗教の影響を受けました。これにより、イスラエルはバアル崇拝をはじめとする偶像崇拝に走り、神に背いてしまいます。そのため、『士師記』は「堕落の書」とも呼ばれています。また、イスラエルの民の不忠により、さまざまな敵が彼らを脅かし続けることから、この書は「敗北の書」とも呼ばれるのです。

 今朝は、「士師」の時代に生きたギデオンの話です。「士師」とは、ヘブル語で「さばく」または「治める」という動詞から派生した名詞で、聖書の本文では「さばきつかさ」と訳されています。士師記における「士師」は、政治的・軍事的指導者であり、敵から部族を解放する解放者、さらには救済者でもありました。

 イスラエルはカナンの地を占領したものの、統一された王国ではなく、12部族がそれぞれ独立して散在していました。そして「士師」と呼ばれる指導者たちは、自分の部族が敵に襲われたとき、神の召命を受けて立ち上がり、部族を勝利へと導き、民を治めました。たとえば、ギデオンはマナセ族、デボラはエフライム族、サムソンはダン族から出た士師です。ギデオンは、わずか300人のイスラエル軍を率いて、13万5千人のミディアン人を打ち破った勇士として称賛されていますが、彼はもともと小心者で、非常に慎重な人物でした。士師記6章11節には「ギデオンが酒舟の中で小麦を打っていた」と記されています。通常、小麦を打つ作業は風通しの良い場所で行われますが、彼はミディアン人に見つからないようにと、隠れた場所であるぶどうの酒舟を選んで作業をしていたのです。

 今朝は、神の召命に対して最初は否定的で猜疑心を抱いていたギデオンが、確信に至るまでの過程を学んでいきたいと思います。

※参照聖書個所:士師 3:5-6、ヘブル 11:32-34

1.今のあなたを

 神の召命の詳細については後述しますが、神が人を召されるとき、その人に特別な修行や苦行を求められるわけではありません。神は、今生きているありのままの姿で人を呼び、受け入れてくださるのです。すでに召命に相応しい力をその人に与えておられるからです。神がギデオンを召された際、主の使いが彼のもとに現れ、「勇士よ。主があなたとともにおられる」と告げました。神の召しは、ギデオンが力ある「勇士」であることを認めたところから始まっています。

 ギデオンは後にミディアン人を打ち負かし、名実ともに力ある「勇士」となります。しかし、神が「あなたのその力で行き、イスラエルをミディアン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか」と召されたとき、ギデオンは「私の属する氏族はマナセの中で最も弱く、私は家族の中でいちばん弱小です」と、消極的な態度を示しました。ギデオンは、目の前に現れた者がただならぬ存在であることは理解していましたが、それが主なる神ご自身であるとは確信していなかったのです。

 士師記6章6節以降の記述では、『主』という文字が「太字」と「普通の文字」で区別されています。「太字」は「主なる神」(ヤーウェ)を意味し、「普通の文字」は神ではなく、「ご主人様」などの敬称を表しています。したがって、ここでの御使いとの会話では「太字」でない部分があり、ギデオンにはまだ「主なる神」の確信がなかったことがわかります。

 成人分級の「サマースペシャル」で、戦争時代を生き抜いた方々のお話を伺いました。当時、天皇の御真影は最大限の敬意をもって取り扱われ、直視することは許されなかったとのことでした。同様に、古代イスラエルでも「神を直視することは死を意味する」と信じられていました。ギデオンも、もし直接神と会話すれば死んでしまうという恐怖を抱いていたかもしれません。しかし、神への捧げ物である肉と種なしパンが瞬時に焼き尽くされる光景を目の当たりにしたことで、彼は目の前にいるのが真の神であると確信したのでしょう。そして同時に、ギデオン自身の偶像崇拝や不信仰の心も、その場で焼き尽くされたのです。

 この項では、以下のことが分かります。

① 人は創造の時より被造物を支配する能力(力)が与えられている。
② 神は今生きているありのままの人を呼ばれ、受け入れてくれる。
③ 神の方から声をかけてくれるのに、人はなかなか素直に受け入れない。
④ 人は問題を責任転嫁し、できない理由を考えようとする。
④ それでも神は人に思いを起こさせ、能力を引き出してくれる。

※参照聖書個所:創世記 1:26、ヨハネ 15:16、ローマ 8:28、I コリント 1:26-29

2.あなたとともにおられる主

 ギデオンに対する神の召しが確かなものとなったのは、神とギデオンとの関係が個人的で深いものであると確信できたからです。士師記6章12節と16節では、神はギデオンに「私はあなたと共にいる」と語りかけています。ここでの「あなた」は単数形であり、神は「あなたたち」とは言わずに、個人的な関係を強調しています。

 しかし、ギデオンは神から「私はあなたと共にいる」と語りかけられた際、神に対して「主が私たちと共におられるのでしたら、なぜこのようなことが私たちに降りかかったのですか」と疑問を呈します。ギデオンは、神が過去にエジプトから解放した偉業を思い出しつつも、ミディアン人による圧迫を受け、収穫を奪われている現在の苦境に対して、神の存在とその約束に疑念を抱いています。実際には、イスラエルが神に背いたことが、このような状況を招いたのですが、ギデオンはその点を見落としています。そのため、神の言葉を信じることが難しいと感じ、責任の所在を転嫁しているのです。それでも、神は諦めずに根気よくギデオンの疑問に応答し、彼が印を示せと要請する際にも応じています。

 パリオリンピックに出場したクリスチャンアスリートが、「信仰とは筋肉である」と語っていました。アスリートにとって筋肉は不可欠なものであり、信仰も彼にとって重要なものであることを示したかったのでしょう。あなたにとって信仰とは何でしょうか?

 救世軍士官(牧師)である山室軍平は、『信仰』とは「神と二人連れで旅することだ」と述べています。彼にとって信仰とは、神が常にそばにいて、人生の旅路を共にしてくれる存在であるという、神との個人的な関係を意味しているのでしょう。

 スイスの神学者カール・バルトは、「神を信じるということは、『私は独りではない』という告白である」と言いました。この言葉は、信仰を持つことによって、自分が孤立しているのではなく、神が共にいてくれるという安心感を示しています。

 さらに、「Footprints」(足跡)という詩があります。この詩では、人生の道を歩む中で、砂浜に残された2組の足跡が描かれています。最初は神と共に歩んでいる2組の足跡が示されていますが、困難な時期には1組の足跡しか見えないことに気づきます。主人公は、「なぜ私が一人の時に足跡が一つになったのか」と神に問いかけます。すると神は「それは私があなたを抱き上げていたからだ」と告げます。この詩は、信仰において、人生の試練に直面する時、自分が一人だと感じることがあっても、実際には神がそばにいて私たちを支えているというメッセージを伝えています。信仰の力を感じ、神の愛と存在に対する安心感を思い起こさせる作品です。

 この後、新聖歌 198 番の2 番『God bless you』 を皆で賛美します。

※新聖歌 198 番『God bless you』2 番 “God be with you”
※参照聖書個所:マタイ 1:23

3.召しは他人事ではない

 主はギデオンに向かって仰せられた。「あなたのその力で行き、イスラエルをミディアン人の手から救え。わたしがあなたを遣わすのではないか。」

 ここでの神の応答の「鍵」は、「あなたの力」という言葉です。ギデオンは自分の民のことなのに傍観者になっており、ギデオン自らが行って、その手でイスラエルを救えと決断を迫ったのです。

 P・ブリューゲルが描いた『十字架を担うキリスト』(ゴルゴタの丘への行進)という絵画があります。

 この作品は、キリストが十字架を背負い、ゴルゴタの丘に向かう道のりを描写しています。絵画の中央には「白い馬」に跨った人物が描かれていますが、ヨハネの黙示録では、白い馬に乗った者はしばしば勝利や征服を象徴すると解釈されます。この場合の勝利は、戦いや戦争の象徴でもありますが、特に神の意志が成し遂げられることを示していると考えられています。また、黙示録には、キリストが白い馬に乗って現れる場面があり、白い馬に乗った者はイエス・キリストを象徴するとも言われています。つまり、白い馬の近くにはイエス・キリストがいることが暗示されています。

 「白い馬」の少し上には、十字架を担うキリストが描かれていますが、その周囲には単に見物する人や商売をする人、さらには喧嘩をしている人々が見受けられます。ほとんどの人々がキリストの苦しみに対して無関心な表情を浮かべており、日常の雑事や関心事に気を取られ、中心にいるキリストの悲劇を無視しています。この絵画は、キリストの受難という重いテーマを扱いながらも、日常生活における人々の無関心を鋭く描き出しています。

 作者もひっそりとこの情景を見つめているようですが、この絵画を通して、「あなたは、十字架を背負い私たちを救おうとしているイエス・キリストの姿を、ただの傍観者として見ているのではないか」と問いかけているのです。

 最後に神からの「召命」とは何かを考察してみたいと思います。

 士師記におけるギデオンのようなドラマティックな「召命」を受ける場面を見ると、自分には関係のないことと思われるかもしれません。しかし、「召命」とは、これまでの生活を捨てて献身し、聖職者になることだけを指すのではありません。もっと一般的な意味として、「神を信じること」を意味しています。これまで神を知らなかった人が、神に呼ばれて神を信じ、従うこと、つまり回心することなのです。

 召し(召命)は原語で「呼ぶ」という意味であり、英語の聖書でも“calling”と表記されています。つまり、キリスト者とは神に呼ばれた者、呼び出された者、すなわち召された者であるということです。そして、神に呼ばれた者の名は「いのちの書」に記されています。「いのちの書」には、神の国に属する者、つまり信仰を持ち、神の恵みによって救われた者の名前が記されています。これは、キリストを信じる者が神の恵みによって永遠の命を得ることを示す重要な象徴です。

 すべてのキリスト者が等しく与えられている「召命」への応答は、儀式的には「洗礼」を受けることから始まりますが、神への礼拝そのものが「召命」への応答であると言えるでしょう。神は私たちに、「霊とまことによって礼拝する」ことを求めておられるのです。

 正教会では、神を礼拝する行為を総称して「奉神礼」と呼び、これを正教徒の務めとしています。これは単なる儀式ではなく、神の民として果たすべき任務です。「奉神礼」に集う信者は皆、それぞれ役割を与えられています。その中でも最も重要な役割は、賛美を捧げることです。正教会では楽器を用いず、声のみで賛美を行います。「奉神礼」は、霊性を高めるための重要な要素です。

 神を礼拝することは、神と人間が深く結びつく霊的な行為です。神学的には、礼拝は神と人間の両方の視点から理解することができます。神の視点から見ると、神は礼拝を通じて人間の言葉や行為を用い、ご自身の御心と御業を実現し、人々に恵みを与えます。礼拝の場には聖霊が臨在し、その働きによって「召命」が与えられます。

 一方、人間の視点から見ると、イエス・キリストの救いを受けた者は、神との交わりを通して神に似た者へと変えられ、霊性を高めていく過程にあります。各自がそれぞれの「賜物」と「召命」に応じて、礼拝や奉仕に携わります。そのため、礼拝においてはすべての人が奉仕者として役割を担うことができるのです。説教だけでなく、司会、賛美、祈り、聖書朗読、受付、案内、音響、映像など、さまざまな奉仕が神からの「召命」として与えられているのです。

 また、必ずしも礼拝堂に集まることが礼拝のすべてではありません。それぞれの状況に応じて、それぞれの場所で神を礼拝することも可能です。たとえば、預言者ダニエルは異教の地バビロンに住んでいましたが、彼の心は常にエルサレムに向かっており、遠く離れた地からもエルサレムを思いながら神に礼拝を捧げていたのです。

 私たちは、それぞれ神から独自の「召命」や「任務」を与えられています。体の各器官が異なる役割を果たすように、私たちもまた異なる役割を担っています。神から与えられた賜物を生かし、可能な限りその役割を全うすればよいのです。礼拝を捧げることは、キリスト者としての「召命」であると同時に、社会におけるキリスト者としての任務を果たすことでもあります。私たちは、この社会において、どのようにキリスト者としての役割を果たすべきかを模索することが大切です。その探求を通して、より大きなビジョンの実現に繋がっていくのです。

 私たちは、必ずしもギデオンのようになる必要はありません。しかし、神が私たちに何を期待しているのかを祈り求め、他人事ではなく、自分自身の問題として考える機会にしたいと思います。そして、神の「召命」に応える者となることを心から願っています。

※ 参照聖書個所:ヨハネ黙示録 3:5、II テモテ 1:9、ローマ 12:4-8

Author: Paulsletter