「兄弟だからむつかしい?」

9月15日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「兄弟だからむつかしい?」
(それではどう生きるのか②)
マタイの福音書5章21~26節

 戦争は決して起こしてはなりません。戦争は人々の命や家族を奪い、新たな復讐とその連鎖を生むだけでなく、社会全体に深い傷を残します。「『兄弟』だからむすかしい?」と記しましたが、歴史的・文化的背景を共有する人々同士の対立は、特に悲劇的な結果をもたらします。イスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナの関係が示すように、近しい関係にあるからこそ、対立はより複雑で、解決が困難となるのです。

 今朝の聖書箇所では、二つの注目すべき点に気付かされます。一つは、イエスが「兄弟」という言葉を繰り返し用いておられることです。聖書全体を通してそうですが、特に「山上の説教」では「敵」「隣人」「兄弟」という言葉が登場し、これらの人々を一貫して愛するように教えています。「敵」とは、自分に危害を加えたり、自分の利益を阻んだりする憎むべき存在です。「隣人」は、自分の周囲にいる身近な人々を指します。そして「兄弟」は「隣人」に含まれる場合もありますが、ここでの「兄弟」とは単なる血縁者に留まらず、共通の価値観や目標を持つ仲間や、深い絆で結ばれた人々を指します。教会の中の人々もその範疇に含まれるでしょう。

 したがって、実際に「愛する」となると、その相手が「敵」なのか、「隣人」なのか、「兄弟」なのかによって、私たちの愛の表し方も異なると感じられることがあります。「敵を愛すること」、「隣人を愛すること」、「兄弟を愛すること」は、同じ愛であっても、その形や表現が一様ではないかもしれません。ここに登場する「兄弟」という言葉は一つの重要なポイントとなります。

 もう一つの注目すべき点は、「山上の説教」で繰り返し使われる、「あなたがたは〇〇と言われている(聞いている)。しかし、私は〇〇と言っておく」。という表現です。「あなたがたが聞いている」とは、古くから伝えられてきた律法やその解釈を指しています。イエスは、「あなたがたは、これまで律法によってこのように教えられてきたが、しかし私は〇〇と言う」として、律法を超えた新しい視点を提示しているのです。

 今朝は、イエスの説かれた「愛」に目を向け、その教えの真意を共に深く探ってみたいと思います。

① 「兄弟」は特別な存在だから

 「愛する」ということにおいて、「兄弟」は特別な存在であり、そのために難しさも伴います。私たちは、遠く離れた「敵」ではなく、身近な「兄弟」だからこそ、相互の期待や甘えが生まれますが、その一方で、ありのままの本当の姿をさらけ出すことができるのです。

 律法では、殺人は明確に禁じられており、殺人を犯した者は裁かれるべきとされていました。この教えは、イエスの時代のユダヤ教においても基本的な道徳律でした。殺人については、誰もがそれを重大な罪であり、裁かれるべきだと認めるでしょう。しかし、イエスはこの外面的な律法を超えて、心の中にある態度や感情にも目を向けます。つまり、殺人という極端な行為にとどまらず、兄弟に対する怒りや侮辱もまた、神の前では罪であり、同様に裁きを受けるべきだと指摘しているのです。

 「殺してはならない」と理解していても、現実には殺人が起こり、戦争が絶えません。聖書は私たちに「殺してはならない」理由を教えています。それは、人の命が神のものであるからです。どんなに小さな命であっても、創造主である神が与えたものであり、その命を生かしているのも神です。したがって、誰もその命を奪う権利はなく、自分の命さえも尊重しなければなりません。神は、神の与えた命を尊重して生きるために、律法(十戒)で「殺してはならない」と明確に規定しました。律法のすべては、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」という教えに集約されています。そして、「殺してはならない」という戒めは、「神を愛し、自分を愛するように隣人を愛する」ことの具体的な表れなのです。逆に言えば、「隣人を愛する」とは、単に殺さないことだけではなく、十戒における「殺人」「姦淫」「盗み」「偽証」「貪り」といった行為すべてが、「神を愛し、隣人を愛する」ことに通じています。そして、「兄弟」を軽蔑したり、怒りや憎しみを抱いたりすることも、同様に神の戒めに背く行為です。イエスは、私たちにそのことを深く問いかけています。

 人類が罪を犯したとき、アダムはエバを「この女」と呼び、その息子カインは弟アベルを怒りから殺してしまいました。殺人は遠いところで始まったのではなく、最も近い関係の中で始まったのです。私たちが「兄弟」を愛することができないなら、どうして「敵」を愛することができるでしょうか。妻を侮蔑し、兄弟に怒りを抱くところから、殺人は始まるのです。しかし、イエス・キリストは、最も愛することが難しい「兄弟」のために、十字架で血潮を流し、死んでくださいました。ですから、私たちが「兄弟」を愛することが難しいと感じるときには、それ以上にイエス・キリストの愛が注がれていることを覚えたいのです。

“昔の人々に対して、『殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に対して怒る者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に『ばか者』と言う者は最高法院でさばかれます。『愚か者』と言う者は火の燃えるゲヘナに投げ込まれます。” 21-22

“友はどんなときにも愛するもの。兄弟は苦難を分け合うために生まれる。” 箴言 17:17

② 礼拝を後回しにしてでも

 私たちは、人を侮辱したり馬鹿にしたりしていないと思っているかもしれませんが、気付かないうちにその言動で人を傷つけている可能性があります。イエス・キリストは、人を侮辱や馬鹿にしないことを求めるだけでなく、さらに現実的な教えをしています。それは、私たちが罪を犯さないように注意を払い、そのような行為を未然に防ぐことも大切ですが、万が一罪を犯してしまった場合にどう対応するかが重要であるということです。罪を犯してしまったとき、その取り扱い方がわからず、そのまま罪の状態であり続けることもあります。現実には、知らず知らずのうちに人を侮辱したり馬鹿にしたりし、傷つけることがあるのです。このような状況を想定し、人から恨まれることもあるでしょう。その際にどう対処すべきかを、イエスは教えています。

 すなわち、イエスは、対人関係における対立や未解決の問題がある場合には、まずは神への礼拝や供え物を置いたままにし、人との和解を優先すべきだと教えています。神への礼拝や供え物を捧げること自体も重要ですが、それよりも、相手の姿勢や態度がどうであれ、対立の原因がどちらにあるかに関わらず、まず自らが相手方のところに行って和解するべきだと教えています。人間関係の修復が神の意志にかなっており、神との関係を深める前に、人との和解を優先するべきであると強調しています。

“ですから、祭壇の上にささげ物を献げようとしているときに、兄弟が自分を恨んでいることを思い出したなら、ささげ物はそこに、祭壇の前に置き、行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから戻って、そのささげ物を献げなさい。”23-24

 キリスト者は、イエス・キリストの十字架の死と復活を信じることによって、新しい命を受け取りました。すなわち、霊的な死から霊的な生命に移行し、新生したのです。愛は、キリスト者の霊的な変化と新しい命の証しです。したがって、「兄弟」を愛することは、神の愛が私たちの中に働いている証拠であり、私たちが神のもとに存在し、愛の実を結んでいることを示しています。愛があるところには命があるのです。一方で、愛がない者は霊的な死の状態に留まっています。神の愛を経験し受け入れた者だけが新しい命に生きることができ、愛がなければその人は霊的な死の状態にとどまるのです。 

“私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛さない者は死のうちにとどまっています。兄弟を憎む者はみな、人殺しです。あなたがたが知っているように、だれでも人を殺す者に、永遠のいのちがとどまることはありません。”1 ヨハネ 3:14-

 私たちは、神を礼拝することと「兄弟」と和解することが別のことだと考えるかもしれません。また、神を愛することと「兄弟」を赦すことを区別してしまうこともあります。私たちは、自分自身を神に探っていただきながらも、信仰のことと実際の行動を分けて考えてしまうことがあるかもしれません。自分自身の中で矛盾を抱えながらも、神を愛することが自分の中で確かなものとなることが大切です。しかし、キリスト者が「兄弟」を愛することができるのは、神がまず私たちを愛してくださったからです。この愛は無条件であり、神が私たちに示した愛、すなわちイエス・キリストの十字架による救いを通じて示された愛です。私たちは神の愛に応答して愛するのであり、愛の起源は神にあります。神を愛していると言いながら、自分の「兄弟」を憎む者は偽り者です。なぜなら、目に見える兄弟を愛していない者が、目に見えない神を愛することはできないからです。神を愛する者は、「兄弟」も愛すべきなのです。

“私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は兄弟も愛すべきです。…” 1 ヨハネ 4:19-21

③ 愛する関係を「つくる」こと

 「兄弟」を憎むことは心の中での殺人と見なされ、神の命と愛に反する行為とされています。愛が欠けた心は霊的な死をもたらし、神の愛がないところには永遠の命も存在しません。私たちは、イエス・キリストの十字架による死によって示された神の愛を知りました。キリストが私たちのために命を捨てたという犠牲の愛は、愛の極みの表現です。ですから、キリストの愛に応答する形で、私たちも隣人のために、キリストの愛を模範として、犠牲的な愛を実践することが求められています。

 「兄弟」との対立や争いが生じた場合、できるだけ早く和解するよう勧めています。私たちは、和解を「いつかできればよい」と思いがちで、つい先延ばしにしてしまいます。しかし、イエスはたとえ神を礼拝している最中であっても、捧げ物を献げる最中であっても、その行為を中断してでも、まず兄弟と和解することが賢明だと教えています。相手がどのように受け止めるかはわからない場合もありますが、和解を後回しにしない姿勢が大切です。私たちは、完全に体得するのは難しいかもしれませんが、人との関係の修復を後回しにせず、しっかりと関係を築いていくことが求められているのです。 

 最後に確認したいのは、兄弟を軽蔑したり、怒りや憎しみを抱いたりしながら、同時に神を愛していると言っても、それには何の説得力もないということです。もし自分の言動で誰かを傷つけていると気付いたなら、まず自分から進んで謝罪するべきだとイエスは教えています。私たちはこの地上で、「神の国」や「神の平和」を築いていく使命を負っています。キリスト者として、主の再臨を待ち望みつつ、そのための小さな働きを積み重ねていくのです。

“あなたを訴える人とは一緒に行く途中で早く和解しなさい。そうでないと、訴える人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれることになります。” 25

“平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるからです。” 5:9

“…キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。” 1 ヨハネ 3:16

Author: Paulsletter