「御国の民としてこの世を生きる」

9月1日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「御国の民としてこの世を生きる」
マタイの福音書6章5節~15節

 イエス・キリストが私たちに教えてくださった「主の祈り」を読んでいます。「主の祈り」とは、イエスが弟子たちに示された祈りの模範です。祈りとは、私たちを創造された創造主に「お父さん」と呼びかけることから始まり、心から神をほめたたえ、神の栄光を表すことのできる、神とのコミュニケーションです。私たちは、イエス・キリストを信じることによって神の子とされ、神の家族として霊的に信仰で結ばれるという恵みに与っているのです。私たちは、様々な試練や苦難に直面しますが、イエス・キリストを信じる者は、この世で無風状態に置かれるのではなく、そのような状況の中で、主によって守られ、平安が与えられるように祈り求めます。そして、神が私たちを惜しみない愛で愛してくださったように、私たちも自分をささげながら、神の救いのご計画が成就する時を待ち望むのです。

① 神の国を待ちつつ、この地にあって

 私たちは、この地にあって、「神の国」を待ちつつ、生きるものとされています(「神の国」については後述します。)。 

 「主の祈り」にある「御名が聖なるものとされますように」という言葉は、父である神の名がすべての名の中で最も尊ばれ、崇められるべきであることを意味しています。祈りは、まず父なる神の名を崇めることから始まります。私たちは時に、人間的な視点から「〇〇先生の教会」と敬意を込めて牧師や教会を称えることがありますが、それは聖書的ではありません。崇められるべきは、牧師の名ではなく、教会の頭であるイエス・キリストの名です。もちろん、教会内では自由に意見を述べることができ、経済的な理由で献金を強要されたり、教会の働きにおいて圧力を受けたりすることはありません。しかし、私たちが目指すべき教会とは、小さな意見にも耳を傾け、反対意見を尊重しつつも、それが単に民主的に運営されることを意味するのではなく、神の御心を求める場であるべきです。一人ひとりの信徒が喜びをもって神に仕え、捧げることで教会は満たされます。これが可能となるのは、教会が正しい教理を掲げているからではなく、信徒一人ひとりが霊的に成熟していくことが求められているからです。神の御心を最優先に考えるからこそ、私たちは教会において「神の御名が崇められますように」と祈るべきなのです。

 次に、「主の祈り」の中に「御国が来ますように。御心が天で行われるように、地でも行われますように。」という言葉があります。「御国」とは「神の国」のことであり、英語では「The kingdom of God」と表記されます。これは、神が王として統治される場所、すなわち神の御心が完全に行われる場所を意味します。イエス・キリストがガリラヤで宣教活動を開始されたとき、最初の言葉は「時は満ち、神の国は近づいた」というものでした。「近づいた」という表現は、神の支配が今まさに到来しつつあることを意味し、その兆しがすでに現れ始めていることを示しています。しかし、この地上では、まだ完全に「神の国」は実現されてはいません。神の御心ではなく、人々や支配者の意志がぶつかり合い、霊的な戦いが続いているのです。その中で、私たちは悔い改め、福音を信じ、神の国の到来を待ち望むとともに、父なる神のご意志や救いのご計画が完全に成し遂げられるようにと祈ります。

 イエス・キリストは「主の祈り」において、私たちが天国に入ることを祈りなさいとは教えていません。自分が神の国に入るために、神を礼拝し、修行を積み、善行を重ね、今は苦難の中にあっても、神の国に入るために忍耐をもってこの地上の人生を歩むようにとは求めていないのです。私たちは「神の国」に自分が行くことを祈るのではなく、「神の国が到来しますように」と祈るのです。そして、この地上においても、神の御意志と計画が行われるように祈ることを教えているのです。

 キリスト者の人生の目的は、この世の人生を終えて神の国に行くことではありません。もちろん、私たちはイエス・キリストの十字架の死と復活によって「神の国」の民とされ、天に国籍を持つ者とされ、「神の国」が約束されています。しかし、私たちが祈るべきは、自分が「神の国」に入ることができますようにではなく、「神の国」が到来し、御心がこの地でも行われますようにと祈り続けることなのです。

 しかし、この世に生きている限り、神の御心が地上で成し遂げられるのを妨げる力が働いています。宗教改革者マルティン・ルターは、神の御心を妨げる力として、主に次の三つの要素を挙げています。これらの力は、人間の信仰生活や神の意志の実現に対して障害となるものです。

1.サタン(悪魔):ルターは、サタンを最も強力な敵と見なし、神の御心が地上で成し遂げられるのを妨げる存在と考えました。

2.この世(世俗的な力):ルターは、「この世」をも神の御心に逆らう力として認識していました。世俗的な価値観や欲望、富や権力への執着が、人々を神から引き離し、世俗的なものに捕らわれてしまうことを指摘しています。

3.肉(人間の罪深い性質):ルターは、人間の「肉」と呼ばれる罪深い性質が、神の御心を妨げるもう一つの重要な要素であると述べています。これは、肉体的な欲望、自己中心的な思考、弱さや恐れなど、人間自身の内にある罪の傾向を指します。

 マルティン・ルターは、これらの三つの力を挙げ、私たちがこの地上で神の国の民として神の御心に従って生きようとする際に、外的にも内的にも神の御心を妨げる力が働いていることを自覚すべきだと教えています。そして、私たちは主が共におられることを意識しつつ、勇敢にこれらの力に対峙しながら生きる必要があるのです。だからこそ、繰り返しになりますが、御心がこの地でも行われますようにと祈り続けることが大切なのです。

“ですから、あなたがたはこう祈りなさい。「天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように。…” 9-

② 信じるとおりに、この世にあって

 「主の祈り」は、信仰と日常生活の必要を一つにして祈るものです。すなわち、霊的なことと物質的なことを、同じ祈りの中で共に願っているのです。

 「主の祈り」の前半は、「神の国」の到来や御心の成就を願う霊的な祈りであり、後半は「日ごとの糧」など、現実的な生活の中での必要を求める祈りで構成されています。一見すると、これらの祈りは別々のものであるかのように思えますが、それらが一つの祈りとして捧げられている点に注目すべきです。信仰者として、これらの願いを切り離して二律背反に捉えることこそ不自然であり、むしろ全てを一つの祈りとして神に捧げるのが当然のことです。

 また、私たちが「日ごとの糧」を求めるように、「負い目(罪)」の赦しや、「試み」からの守り、「悪」からの救いを祈ることも、この地で生きる私たちにとって重要です。これらは肉体的な必要と同様に、私たちの日々の生活に欠かせないものだからです。

 さらに視点を変えると、「主の祈り」と私たちが理想とする祈りには、少し違いがあるように感じることがあります。すなわち、私たちは日々の必要をその都度求めるのではなく、常に必要なものが揃い、不自由なく安定した生活を送れる社会を求める傾向があります。私たちは、将来の安心を目に見える形で約束されたいと願うことがあるのです。

 しかし、現実には、誰もが明日を約束されているわけではありません。だからこそ、神を信じることは、今日の命が与えられていることに感謝し、毎日を生かしてくださっている神に信頼することを意味します。そのため、「日ごとの糧」を祈ることが重要なのです。この世の豊かさや安定は、将来を保証するものではないのです。

“…私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。”11-

 神は私たちを「神の子」とし、神の家族として迎え入れてくださいました。そして、「私たち」という共同体へと導いてくださったのです。「私たちの日ごとの糧をお与えください」と祈るとき、これは自分自身の必要だけが満たされるように願っているのではなく、私たち全員の必要が満たされるように祈っているのです。つまり、私だけが大丈夫なのではなく、私たちの必要が満たされているから大丈夫であるということです。

 この祈りは、自分だけが満たされることを求めるのではなく、隣人もまた満たされるようにと願う心を表しています。そして、与えられた糧を共に分かち合うという精神がそこに含まれているのです。

 飛行機に乗っているとき、あるコラムを読んで考えさせられました。それは「竹筒の水」のたとえ話でした。

 ある人が、砂漠を旅していました。彼は強烈な日差しと旅の疲れでのどが渇ききっていました。やがて、彼は目の前にわずかな緑の木陰と井戸を見つけました。力を振り絞って井戸のポンプを動かしてみましたが、井戸は乾いた音を立てるだけで、水を汲み上げることはできませんでした。力尽きた彼は、その場に倒れ込んでしまいました。

 そのとき、座り込んでいた彼の指先に何かが触れました。見ると、そこには一本の竹筒が転がっていました。「何だろう」と思い竹筒を手に取って振ってみると、その中には水が入っていたのです。「ああ、助かった!」と喜んだ彼は、その水を飲もうとしましたが、竹筒には次のような文字が記されていました。

「この竹筒の水をすべてこの井戸のポンプに注ぎ込んでください。そして、次の人のためにまたこの筒に水を満たしておいてください。」

 このコラムを読んで、私は試される思いがしました。私だったらどうするだろうか、と。誰も見ていない状況で、やっと手に入れたわずかな水を井戸のポンプに注ぎ込むべきか、それとも渇いた自分の喉を潤すべきか、という選択です。もし井戸のポンプに注いだ水が無駄になったらどうしよう、と不安になるかもしれません。しかし一方で、注いだ水が呼び水となって、井戸から豊かな水が溢れるかもしれません。

 彼は、竹筒の水をすべてポンプに注ぎ込みました。そして力を込めてポンプを動かすと、「ゴボッ、ゴボッ」という音とともに、井戸の底から水が湧き上がってきました。彼はポンプからあふれる水で渇きを癒し、新たな力を得て、再び旅を続けることができたのです。もちろん、彼は竹筒に水をいっぱいに満たしておきました。

 イエス・キリストは「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」と戒めました。この愛は自己犠牲を伴い、隣人の必要を自分のことのように考えることを意味します。竹筒の水を分かち合うことは、まさにこの隣人愛の実践です。「私」の糧を得ることができたとしても、「私たち」の糧を満たすためには、自分の持っているものを手放さなければならないこともあるでしょう。「私たち」の糧、赦し、守りや救いを求めて祈ることは、これらを与えてくださる父なる神を「お父さん」と信頼して呼ぶことができるかどうか、非常に大切なことなのです。

 私たちは、自分の力ではどうすることもできない状況を歩んでいかなければなりません。人と分かち合う余裕も時間もなく、時には自分に与えられたものを手放さなければならない時があるかもしれません。しかし、たとえ自分自身がやっと手に入れた貴重で大切なものであっても、それを隣人と分かち合うとき、自分自身も豊かになり、さらに多くの人々を豊かにする道を神は備えてくださっているのです。

“愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れないようにしなさい。兄弟愛をもって互いに愛し合い、互いに相手をすぐれた者として尊敬し合いなさい。…自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。…” ローマ 12:9-

③ イエスキリストの弟子として、イエスが愛したように

“さて、過越の祭りの前のこと、イエスは、この世を去って父のみもとに行く、ご自分の時が来たことを知っておられた。そして、世にいるご自分の者たちを愛してきたイエスは、彼らを最後まで愛された。…「わたしはあなたがたに新しい戒めを与えます。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるようになります。」” ヨハネ 13:1、34-35

Author: Paulslette