「私たちの父よ」と祈る

8月25日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「私たちの父よ」と祈る
マタイの福音書6章5節~15節

 先週、私たちは『主の祈り』を通して、全知全能の神を『父』や『お父さん』と呼ぶことができることを学びました。イエス・キリストの十字架による救いは、私たちの罪を赦すだけでなく、私たちを「神の子」とし、神の家族として迎え入れてくださることを意味します。天地万物の創造者である全知全能の神を「お父さん」と呼び、祈ることができるのは、私たちが神の子として与えられた特権なのです。そして、「教会」は、この神の家族として生きる者たちが集まるところなのです。

 「空の鳥をよく見なさい。彼らは種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めることもありません。それでも、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださいます。」(マタイによる福音書 6章26節)

 私たちは、足りないものをどう満たそうか、どのように帳尻を合わせようかと心配しがちです。しかし、私たちを養ってくださるのは天の父です。以前、「安息」について語った際に、ケン・シゲマツ師のメッセージを紹介しました。そのメッセージによると、「安息」とは、神を完全に信頼することで得られる内的な安定感や満足感を指し、その結果、平安や喜びを見いだすことができるとされています。しかし、私たちはしばしば神を十分に信頼せず、目に見える他のもので安定感や満足感を求めてしまいます。信仰の基盤は、父なる神を信頼することであり、真の平安をもたらすのは、神との信頼関係です。だからこそ、私たちは「私たちの父よ」と呼びかけることができる関係に導かれていることに感謝したいと思います。

 皆さんは、先週の生活の中で、どれくらい神を「お父さん」と呼ぶことができましたか。私たちが「お父さん」と呼ぶことのできる神との親しい関係は、私たちを互いに「隣人」とし、さらに私たちを文字通り「私たち」として結びつけるのです。

① 「ひとり」となることから

 すべては、神の前に「ひとり」になることから始まります。「ひとり」になるとは、孤立することではなく、神と二人だけの時間を持つことを意味します。私たちは日常生活で多くの人々と関わりを持ちますが、その中で神と一対一の時間を確保することが非常に重要です。この時間は、神と私との間に誰も介入しない、二人だけの特別な瞬間です。

 当時の信仰者にとって、①施し(善行)、②祈り、③断食(修養)の三つは重要な行為でした。しかし、イエスはこれらの行為が他人に見せるための偽善的なものとなり、神との個人的な関係から生まれるものではなくなっていることを批判しました。イエスが説いたのは、これらの行為が単なる儀式ではなく、神との一対一の対話を通じて関係を深めるためのものであるということです。これらの行為を人に見られること自体が問題ではありませんが、その内的な動機が神に向けられているかどうかが重要なのです。

 一方で、静かに一人で祈ることに抵抗を感じる人もいるでしょう。また、神との個人的な時間を確保できない人もいるかもしれません。しかし、神との真摯な対話は、一人で心を静め、「お父さん」と語りかけることから始まるのです。

“人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。…施しをするとき…、祈るとき…、断食をするとき…” 1-

 6節には、「あなたが祈るときには、あなたの父に祈りなさい。そうすれば、あなたの父が報いてくださいます」と記されています。一方で、9節には、「あなたがたは、こう祈りなさい。『私たちの父よ、私たちの日ごとの糧をお与えください。私たちの負い目をお赦しください』」と記されています。神との信仰の関係において、私たちは「私と父」の関係を持っていますが、その関係に基づく祈りや信仰の歩みについては、「私たちの父」と呼びかけ、「私たちの・・・」と祈るのです。

 「ひとり」になることを大切にするあまり、一人で祈るときに「私の・・・」と祈るべきではないかと思う方もいるかもしれません。しかし、私たちは一人静かな部屋で「私のお父さん」と祈るときでも、「私たちの・・・」と祈ります。これは、私一人のためだけでなく、全世界のすべての人々のために「私たちの・・・」と祈るという意味があります。ここに、私たちの信仰の重要なポイントがあるのです。

 私たちの信仰自体は個人的なものですが、その実践は決して個人に留まりません。私たちは、自分の願いが叶えられるためだけに祈り、礼拝を捧げているのではなく、他者と共に、そして他者のために祈り、礼拝を捧げているのです。

“あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。…『天にいます私たちの父よ。…』”6-

② そして、「隣人」となり

 聖書は私たちに大切な生き方をさまざまに教えていますが、一言で言えば、「神を愛し、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という教えに集約されます。私たちが神に「私たちの・・・」と祈るのは、神の子とされているのが私一人ではなく、数多くの神の子たちの中の一人として私が加えられているからです。私たちは、互いに神の家族であり、兄弟姉妹であるということなのです。

 しかし、今も昔も問題となるのは、この「私たち」という関係です。イエス・キリストは「あなたの隣人を自分自身を愛するように愛しなさい」と言われましたが、この「隣人」が誰かということが、いつも問題となります。そのことを説明しているのが、主の祈りの前に記されているマタイの福音書5章43節以降の教えです。

 私たちは「隣人を自分自身のように愛しなさい」と命じられていますが、その中には、自分の敵も含まれます。隣人を愛するということは、自分の敵ではない人だけを愛することではないのです。しかし、私たちはしばしば、自分の隣人の中で敵を分離し、善人と悪人、正しい人とそうでない人、自分を愛してくれる人とそうでない人とを区別しています。しかし、イエスが「自分自身のように愛しなさい」と言われたのは、自分に良くしてくれる人だけを愛するということではありません。天の父は、悪人の上にも善人の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる、区別をしないお方です。「良きサマリア人のたとえ」にもあるように、隣人愛の本質は、敵と見なされる者であっても、困っている人を助ける行為こそが真の隣人愛なのです。隣人の中には、私たちが憎しみ、怒り、恨み、復讐心を抱く人がいるかもしれません。

 私たちはかつて神から離れていた罪人でしたが、イエス・キリストの十字架の死と復活によって、神との関係が回復され、新たに生まれ変わることができました。この神の恵みに応えて、私たちは隣人を赦すという新たな霊的生き方が求められています。私たちは祈りを通して、自分の罪を深く悔い改め、神の赦しを願うと同時に、隣人に対する憎しみ、怒り、恨み、復讐心を取り除き、愛することができるように求めます。なぜなら、イエス・キリストの十字架の力によらなければ、私たちの力では隣人を愛することはできないからです。イエス・キリストの十字架は、そのような隣人との隔たりの壁を打ち砕いてくださるのです。

 罪を赦すことができるのは神だけですが、隣人の過ちを赦すのはあなたがた自身の役割です。もし隣人を赦さないならば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならないのです。私たちは神によって赦され、「神の子」とされました。「神の子」とされているのは、単に立場上「神の子」として登録されているだけではなく、本当に「神の子」として生きるように導かれているからです。私たちが積極的に「神の子」として生きるならば、できるかできないか、したいかしたくないかではなく、神のように分け隔てなく隣人を赦し、愛さなければならないのです。

“もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。”14-

“また、もしあなたの兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで指摘しなさい。その人があなたの言うことを聞き入れるなら、あなたは自分の兄弟を得たことになります。” マタイ18:15

③ 「私たち」となることを

 「隣人」との関係は、敵対する人との関係ではありません。神は、私たちを「私と隣人」という関係を超えて、「私たち」という共同体へと導いてくださるのです。この「私たち」の姿を地上で表しているのが「教会」です。確かに、この世にある教会は完全ではありません。しかし、神がこの世においてその恵みを表そうとしている場所が、神の家族である「教会」であることを忘れてはなりません。

 一人静かに部屋で「お父さん」と祈るとき、神は私たちの内に愛を注ぎ、「私たちの・・・」と教会や社会を思い起こして祈る力を与えてくださいます。神との交わりの中で生きる者たちが、「私たち」として共に生きる関係を教会(小さなエクレシア)の中に築き上げていくことこそ、キリスト者のビジョンなのです。そして、その交わりこそが、この社会を変える力になると信じています。

 私たちが生きる社会において、敵も味方もなく、神にあって「私たち」として共に生きるように導かれているのです。そのために、私たちができることは、自ら積極的に隣人を赦し、隣人に歩み寄り、共に祈り始めることです。そうすれば、私たちは平和を創り出すことができるのです。

“『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。…” 5:43-

“あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。…『天にいます私たちの父よ。…』”6-

Author: Paulslette