「天にいます私たちの父よ」

8月18日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「天にいます私たちの父よ」
マタイの福音書6章5節~15節

 祈りは信仰(宗教)の根源であり、祈りのない信仰は存在し得ません。なぜなら、祈りは人間の存在そのものと深く結びついているからです。そして、祈りがその人の人生を長い年月をかけて築き上げていきます。イエス・キリストが模範を示してくださった「主の祈り」は、単なる宗教的な儀式ではなく、キリスト者がどのように生きるべきかという根本的な問いに対する答えを示唆しています。それは私たちの存在意義を示し、人生の歩み方を教えてくれるものです。

 「主の祈り」については、新約聖書の二つの福音書で言及されています。一つはマタイによる福音書(6:5-15)であり、もう一つはルカによる福音書(11:2-4)です。マタイの記述では、イエスがパリサイ派の人々の行動を非難する場面から始まります。当時の信仰者にとって重要だったのは、①施し(善行)、②祈り、③断食の三つでした。イエスは、これらに対する彼らの態度を批判しました。

 特に祈りに関して、当時は人に見られることを目的として、会堂や通りの四つ角で祈ることが好まれていました。つまり、公の場で人々の注目を集めるような祈りが行われていたのです。しかし、イエスは祈りの本質が、人前でどのように祈るかではなく、神との個人的な関係から生まれるものであると教えました。「祈るときには、自分の奥まった部屋に入り、戸を閉めて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」という教えは、公的な場での祈りを否定するものではありません。公の場で祈る際にも、祈りは神に向けられるべきであり、人に聞かせるためのものではないということです。重要なのは、祈りの背後にある動機です。心から神との個人的で深い交わりの中で祈り、偽善的な祈りを避けるべきだとイエスは教えました。

 今朝は三つのポイントを挙げましたが、時間の許す限り、祈りの在り方についてさらに考察したいと思います。

① 私たちは神に「あなた」と語りかける

  「主の祈り」を通して私たちが教えられているのは、祈りの対象として「私たちの父よ」と神を二人称で呼ぶことができるということです。これは、私たちが神との関係において「お父さん」と呼ぶことのできる親しい関係に生かされていることを示しています。祈りにおいて大切なのは、巧みな言葉で神に語りかけることではありません。重要なのは、祈りの対象である神の前で、私たちが誰であり、どのような存在であるかをまず理解することです。このことが、「天にいます私たちの父よ」という祈りの言葉に表れています。

 「イエス・キリストによって救われる」というテーマは、キリスト教の中心的な教えです。このテーマを理解するために、「信仰によって義と認められる」や「新しく生まれ変わる」といった神学的または教理的な説明がありますが、その最も重要な意味の一つは、「神の子とされる」ということです。「神の子」とされることで、私たちは神を「お父ちゃん」と呼べる特権を与えられます。天地万物の創造者である神は、私たちを愛し、子として迎えてくださいました。そんな神を、私たちは「お父ちゃん」と親しく呼ぶことができるのです。

“ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように、地でも行なわれますように。” 9

 イエスが弟子たちに示された「主の祈り」を英語で読むとき、あるときふと気づいたことがありました。「御名が聖なるものとされますように」は、父であるあなたの名が聖とされることを、「御国が来ますように」は、父なるあなたの国が実現することを、「みこころが天で行われるように」は、父なる神のご意志やご計画が成し遂げられることを願うことです。祈りとは、他人事のように祈ることではなく、ほかでもない私たちの父なる神に対して、親しい関係の中で、強く崇める意識で祈る心から神に向けられた真摯な行為なのです。

“Our Father in heaven, hallowed be your name. your kingdom come, your will be done.” 9

 イエスもまた自身の祈りの中で、神に対して「父よ」と祈られた場面が一度だけあります。それは、十字架の死を目前にしたゲッセマネの祈りです。「アバ、父よ。あなたにできないことはありません。どうか、この杯を私から取り除けてください。しかし、私の願うことではなく、あなたの御心がなされますように。」(マルコによる福音書14:36)

 「アバ、父よ」という言葉は、アラム語で子どもが父親に呼びかける「お父ちゃん」や「パパ」に相当する表現です。アラム語はバビロン捕囚後、ユダヤ人社会で広く使用され、イエスもガリラヤでこの言語を話していました。「アバ、父よ」という呼び方は、イエスと父なる神との非常に親しく、人格的な関係を示しています。

 イエスは、自分の願いをなんでも聞いてくださる神が、イエスの思いや考えを超えたところで、ご自身の意志や計画を進めようとされていることを理解していました。「アバ、父よ」という言葉は、イエスがその神の意志や計画を信頼して呼びかけた言葉です。同様に、神の子とされた私たちも、聖霊の働きによって神との親密な関係を築くことができ、「お父ちゃん」と呼ぶことができるのです。

“そして、あなたがたが子であるので、神は「アバ、父よ」と叫ぶ御子の御霊を、私たちの心に遣わされました。” ガラテヤ 4:6

② 「私たち」の交わりの中に生きる

“あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸をしめて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。…『天にいます私たちの父よ。…』”6-

“もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。”14-

③ 永遠の視点でものごとを見る

“御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。” 10

“人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと天におられるあなたがたの父から報いを受けられません。…施しをするとき…、祈るとき…、断食をするとき…” 1-

Author: Paulslette