ある安息日、イエス・キリストが弟子たちとともに麦畑を通られた際、弟子たちは道端で麦の穂を摘み始めました。すると、パリサイ派の人々がそれを見て、安息日に麦の穂を摘むことは律法に違反しているとイエスに指摘しました。通常であれば、他人の土地に入り、勝手に麦を取って食べる行為は非難されると考えられがちです。しかし、旧約聖書の時代から、貧しい人々や寄留者、孤児、未亡人などの社会的弱者に対する福祉的な救済策として、落穂拾いが一定の条件のもとで律法によって認められていました。したがって、パリサイ派の人々が問題視したのは、この点ではありませんでした。
安息日はユダヤ教において、神が六日間で創造の業を終え、第七日目を特別な日として聖別し、安息されたことを記念する日です。これは旧約聖書の創世記に由来しており、シナイ山でモーセが授かった十戒には、「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」という戒めが含まれています。この戒めは、神とイスラエルの民との契約の一環として守られてきました。安息日を守ることは、イスラエルの民にとって神からの命令であり、律法に基づく義務でした。そのため、安息日には仕事や日常の活動を避け、神を礼拝し、神との交わりを深めることが求められていました。安息日は、イスラエルの民にとって、単なる休日ではなく、生活と神への礼拝を一体化させる特別な日であり、彼らのアイデンティティを形成する重要な要素でした。このため、パリサイ派の人々は、弟子たちが麦の穂を摘む行為を「収穫」とみなし、安息日に行うべきではないと批判しました。
一方、イエス・キリストは、ダビデ王が飢えた時に神殿の奉献のパンを食べた出来事を引用しました。このパンは安息日ごとに取り替えられ、通常は祭司だけが食べることを許されていました。しかし、ダビデとその従者たちはこのパンを食べました。一見すると律法に反する行為ですが、イエスはダビデの行為を非難するのではなく、むしろ神の憐れみの心を肯定的に捉えました。イエスは律法の文字通りの解釈にとらわれず、律法の本来の精神を重視し、安息日に関する律法の厳格な適用を批判しました。イエスはまた、パリサイ派の人々が安息日の規則を形式的に守ることに固執し、神の意図を理解していないことを指摘しました。イエスは、安息日は人間のために設けられたものであり、人間が安息日のために生きるべきではないと説きました。つまり、安息日を守ることは単なる契約の義務や律法の厳格な規則に縛られるものではなく、神との関係を深めるために必要であり、守るべきものであると教えたのです。
ここで、律法における安息日の解釈をめぐり、イエスとパリサイ派の人々との間で対立が生じます。イエスは律法の精神を重視し、単なる形式的な遵守を超えて、その真の意義を説き始めます。今朝は、イエスが教えた安息日の真の意味について考察したいと思います。
① 安息は、私たちが何かをしないことによって与えられるのではない
安息日の戒めは、単に「休み」や「労働の停止」の日を意味するものではありありません。イエス・キリストは、安息日の本当の目的は人間の心と神の関係を深めることにあると教えました。すなわち、安息日の戒めは形式的にただ休むことではなく、その日の真の意義を理解し、神とのつながりを重視することが大切だと教えているのです。つまり、安息日は「休み」だからと言って、「何かをしない日」ではなく、「何かをしない」ことによって与えられる日でもないのです。
“すると、パリサイ人たちがイエスに言った。「ご覧なさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか。」” 24
「安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ」というモーセが神から授かった戒めは、安息日を意識し、特別に注意を払うべきであるという意味です。この戒めは、その日を他の日とは異なる特別な日として取り分けて扱うことを求めています。この戒めの目的は、私たち自身のためにあります。つまり、安息日には、他の6日間に働いた後に、7日目を聖別し、喜びと感謝をもって礼拝を捧げ、時には反省し、新しい1週間を迎えるための積極的な意味が込められています。ですから、安息日がなかったら、どのように神との関係を深め、日常生活を充実させることができるだろうかと考えさせられます。
安息日は、本来、神を礼拝するために心を込めて礼拝を捧げる積極的な教えであるにもかかわらず、その目的が消極的な意味に置き換えられてしまうことがあります。安息日の本来の目的は、神を礼拝するためにその日を守ることにありますが、いつの間にかその意義が神への礼拝を超えて、仕事や勉強をしてはいけない、さらには、筆者の経験からすると、安息日にピアノの練習や運動会への参加まで禁止するような消極的な規則に変わってしまうことがあります。つまり、安息日の意義が形式的な規則にすり替えられ、神に向けられるべき目が、人間に焦点を当てるようになっているのです。
パリサイ派の人々から見ると、彼ら自身は律法をきちんと守っている一方で、イエスの弟子たちは律法を破っていると見なしています。これは、律法の本来の目的を超えて、形式的な部分にばかり目が行ってしまうためです。このような考え方では、本来の意味での安息日が実現されることはありません。誤解がないように申し添えますが、「何かをしない」ということ自体を否定しているわけではありません。もちろん、聖書の教えに従い、「何かをしない」ことも重要です。
“安息日を覚えて、これを聖なる日とせよ。” 出エジプト 20:8”
② 安息は、私たちが何かを行うことによって与えられるのでもない
安息日が単なる律法の規則や形式的な守りのために設けられたのではありません。安息日が神によって設けられた本来の目的は、私たち一人ひとりのために、神に目を向けるために定められたものです。ですから、安息は私たちの努力や成し遂げたことによって得られるものではありません。それは神からの賜物であり、恵みです。また、安息は神との正しい関係の中で得られます。神を信頼し、従うことによって、私たちの心は平安と安息に満たされるのです。どんな状況にあっても、神は平安を与えてくださいます。この平安は、世の中の騒がしさや困難から私たちを守り、心の奥底に安らぎをもたらします。
2024年8月号の「いのりのとも」に、工藤公康先生の巻頭言「立ち止まって考えよ」が掲載されていました。良い仕事をするためには、目の前の仕事を一旦休め、自分自身をケアすることが必須であると書かれていました。マルコによる福音書 6章31節には、イエスが弟子たちに安息と休息を促す場面が描かれています。この場面は、イエスの宣教活動があまりにも多忙で、弟子たちが食事を取る暇もなかったことを示しており、イエスは弟子たちの過労を気遣い、今後の働きを続けられるように、また神との関係を深め、霊的に充電するために意識的に休息を取るよう勧めたものと推察されます。イエス自身も孤独な場所に退いて祈ることが記されています。すなわち、安息は私たちが何かを行うことによって得られるものではなく、肉体的、精神的、霊的に癒され、満たされる神が与えた休息の時なのです。
神に礼拝を捧げるということは、全身全霊をもって自分自身を捧げることであり、そのために神と交わるために備えられているのが安息日なのです。
“そして言われた。「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。…” 27
“こうして、天と地とそのすべての万象が完成された。それで神は、第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。” 創世記 2:1-3
③ 安息は、私たちを創造された神から与えられるのだ
「人間は考える葦である」という言葉は、ブレーズ・パスカルの遺稿集『パンセ』に記された名言です。パスカルは、数学者、物理学者、哲学者として広く知られていますが、神学者やキリスト教弁証家としても高く評価されています。「人の心の中には、神が作った空洞がある。その空洞は創造者である神以外のものによっては埋めることができない」という言葉も、『パンセ』に登場する有名な一節です。
この言葉は、人間の心や魂の中には内的な空虚さや不満足感が存在しており、その空洞を満たすことができるのは、創造者である神だけであると述べています。人間は「神のかたち」として造られた存在であり、この空虚さを埋めるためにさまざまなものを追い求めますが、それらは決して心の空洞を満たすことはできません。この真理に気づくことで、私たちの信仰の在り方は大きく変わるでしょう。
逆に、このことに気づかないとき、私たちは神に対して自分を満たしてくれる何かを求めがちです。そして、それが神との関係であり、信仰の力だと誤解してしまいます。しかし、本来の信仰とは、神ご自身を自分の心に迎え入れる生き方へと変わることです。神は私たちに何かを与える存在ではなく、神ご自身を与えてくださるお方なのです。
カナダの牧師、ケン・シゲマツの「『安息』とは、神を信頼することそのものである」という言葉に強く心を動かされました。『安息』とは、神を完全に信頼することから生まれる内的な安定感や満足感を指し、それによって平安や喜びを見いだすことができるのだと言います。しかし、私たちはしばしば神を十分に信頼せず、目に見える他のもので安定感や満足感を得ようとしてしまいます。
神への信頼(信仰)は、単に聖書の教えに同意することや、聖書を読んだり、賛美を捧げたりすることだけではありません。むしろ、神ご自身との個人的な関係を築くことが重要です。したがって、私たちが行うべきことは、聖書の教えをただ勉強することではなく、神の言葉に耳を傾けることです。神を信頼しているならば、その言葉に聞き従うべきなのです。
“ですから、人の子は安息日にも主です。” 28
「人の子」という表現は、旧約聖書においてメシア(救い主)を指す言葉として用いられており、ここではイエスご自身がメシアであることを示唆しています。つまり、イエスこそが安息日を含むすべての律法の主であり、その解釈と適用についての最終的な権威者であることを示しているのです。神は私たちを創造された方であり、私たちにとっての最善を知っておられます。そして、神は私たちが本当に必要としているものを惜しみなく与えてくださいます。
“すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。” マタイ 11:28-30
近年、戦争や自然災害の頻発により、「世の終わり」という終末観が広まり、多くの人々がその答えをYouTube動画に求めるようになっています。しかし、イエス・キリストによる救いは、単に苦しみから解放されて楽園に行くことを意味するだけではありません。むしろ、聖書は、この世の苦難や試練の中にあっても、神の平安と真の安息を得られると教えています。ダビデの言葉を借りるなら、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」。
イエス・キリストは、十字架の死と復活を前に、最後の晩餐の後に弟子たちに慰めと励ましの言葉をかけました。イエスはこれから弟子たちが経験するであろう苦難や試練を予見し、この世の苦しみを克服し、永遠の命と平安を約束されました。イエスは十字架の死と復活を通して、すでにこの世の罪と死の力に打ち勝ち、私たちを永遠の命へと導いてくださったのです。ですから、どんな困難に直面しても、イエスが常に私たちと共にいて支えてくださるという確信を持つことができます。
“あなたがたは…世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」”ヨハネ 16:33
Author: Paulsletter