「私には資格はありませんが」

7月28日礼拝メッセージ
小平牧生牧師
「私には資格はありませんが」
(イエス・キリストの生涯⑫)
ルカの福音書7章1~10節

 イエス・キリストはカペナウムを宣教活動の拠点としました。カペナウムはガリラヤ湖の北西に位置する村であり、イエスのホームタウンとも言える場所でした。ここでイエスは多くの奇跡を起こし、その一つが「百人隊長のしもべの癒し」です。

 当時、ヘロデ・アンティパスはガリラヤとペレアの領主としてこれらの地域を統治していました。これらの地域はローマ帝国の支配下にありましたが、ローマの政策に従う一方で、ヘロデ・アンティパスはある程度の自治権も有していたのです。百人隊長は百人編成の部隊を率いる指揮官であり、ローマ軍の代表としてアンティパスの統治を支援し、地方の治安と秩序を維持する役割を果たしました。一部の状況では間接的にアンティパスの命令や影響を受けていた可能性も考えられます。イエスがカペナウムを訪れたことを知った百人隊長は、ユダヤ人の長老たちをイエスのもとに遣わし、瀕死のしもべ(奴隷)の癒しを懇願しました。

 新約聖書には、複数の百人隊長が登場しますが、いずれも好意的に描かれています。特に、今日の箇所に登場する百人隊長の信仰は、イエスを深く感嘆させました。注目すべきは、4節と6節に繰り返し現れる「資格」という言葉です。ユダヤ人の長老たちは、異邦人である百人隊長に「資格がある」と主張し、一方、百人隊長自身は「資格はありません」と謙遜しています。これは、当時のユダヤ人と異邦人の関係性からすると、一見矛盾しているように思えます。

 今日の説教では、この「資格」という言葉に焦点を当て、以下の3つの点について考察したいと思います。

① 資格があるのか、ないのか

 私たちが神に祈り、何かを懇願するときには、異邦人かどうかを意識することはないでしょう。意識するとすれば、自分が神に祈りを聞いてもらえるだけの信仰生活を送っているか、神に祈りや願いを聞いてもらえるだけの生き方をしているか、その資格があるのかということです。

 イエスの元に来たユダヤ人の長老たちは、百人隊長にはイエスの癒しを懇願する資格があると熱心に訴えました。一般的にユダヤ人とローマ人は対立関係にありましたが、この百人隊長はユダヤ人の長老たちと良好な関係を築いていたようです。長老たちは百人隊長の人柄を高く評価し、彼がユダヤ人たちのために会堂を建てたことを好意的に捉えていました。そのため、ユダヤ人の長老たちは、百人隊長にはその資格があるとして、イエスに癒しを依頼するために熱心に働きかけました。

 しかし、一方で、百人隊長自身は、イエスを自分の家に迎える資格がないばかりか、自分がイエスに会いに行くことすら失礼だと考えていました。百人隊長は異邦人であり、割礼を受けた改宗者ではなく、モーセの律法や口伝律法も遵守していませんでした。当時のユダヤ人たちは異邦人を忌み嫌っており、ユダヤ人と異邦人が直接接触することはあり得ないことであり、百人隊長もそのことを理解していました。そのため、イエスを家に招くどころか、外でお会いする資格がないと言ったのです。

“イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。私たちの国民を愛し、私たちのために自ら会堂を建ててくれました。」” 4-5

“そこで、イエスは彼らと一緒に行かれた。ところが、百人隊長の家からあまり遠くないところまで来たとき、百人隊長は友人たちを使いに出して、イエスにこう伝えた。「主よ、わざわざ、ご足労くださるには及びません。あなた様を、私のような者の家の屋根の下にお入れする資格はありませんので。…” 6

② 神のことばを求める

 百人隊長は、自分がイエスに会うに値しない者であると謙遜しながらも、イエスとの関係を避けたわけではありません。彼はただ、イエスの「言葉」を求めたのです。この「言葉」とは、単なるおまじないや占いのようなものではなく、イエスの癒しの権威ある言葉でした。百人隊長は、イエスの一言さえあれば、自分のしもべが必ず癒されると信じていたのです。

 百人隊長が求めたのは、神に励まされる「言葉」や名言のような特別な言葉ではありません。なぜならば、百人隊長は異邦人であっても、旧約聖書に記された神の存在を信じており、イエスが癒しの権威あるお方であることを深く理解していたからです。百人隊長自身も軍隊の指揮命令の中で生きており、上官の命令に従うことを体験的に熟知していたため、イエスが絶対的権威を持つお方であることを認め、イエスの言葉さえあればそれで十分だと信じることができたのです。

 私たちは、目に見える奇跡を経験したとき、その結果を見て神は生きていると確信することができますが、結果を見るまでは信じられない愚かなものです。しかし、百人隊長は、結果を見る前に、イエスの権威ある言葉で十分だと信じたのです。これは、結果が出るまで信じない私たちとは対照的です。しもべを深く案じる主人の心は十分に賞賛に値しますが、百人隊長はさらに、イエスに「癒しの言葉」を謙遜に求めたのです。

 神の言葉は、神の権威であり、神の力そのものです。万物は神の言葉によって創造され、神の言葉が万物を支え、その秩序を維持しています。すべての存在は、神の意志や言葉によって生かされており、神の語る言葉どおりに生きるのです。

“ですから、私自身があなた様のもとに伺うのも、ふさわしいとは思いませんでした。ただ、おことばを下さい。そうして私のしもべを癒やしてください。” 7

③ イエスが驚かれる

 通常、イエスの奇跡を目にした人々が驚く場面が多い中、ここでは、百人隊長の発言にイエスが深く感銘を受けられたことが特筆されます。「イスラエルの民の中にも、これほどの信仰を見たことがない。」イエスは、周囲の人々にそう告げられました。旧約聖書に精通したユダヤ人ですら、心の底からイエスの言葉を信じ、その権威を認める者は少なかったのです。しかし、異邦人の百人隊長は、イエスの教えに心から共鳴し、深い信仰を示すことができたのです。

 百人隊長は、ローマの軍人として数々の戦場を経験し、人間の脆さや無常を目の当たりにしてきたことでしょう。その中で、イエスの教えは、彼に生きる希望と慰めを与えたのかもしれません。百人隊長の信仰は、民族や社会的な地位を超えて、神への信頼がいかに純粋で力強いものであるかを示しています。

 私たちは、百人隊長のように特別な「資格」は持っていなくても、「お言葉をください」と神に語りかけることができます。百人隊長の信仰は、私たちに大きな勇気を与えています。

“イエスはこれを聞いて驚き、振り向いて、ついて来ていた群衆に言われた。「あなたがたに言いますが、わたしはイスラエルのうちでも、これほどの信仰を見たことがありません。」” 9

 

 以下は、説教の内容をまとめたものではなく、筆者個人の見解を述べたものです。あらかじめご了承ください。

 余談ですが、ルカによる福音書5章では、百人隊長がユダヤ人の長老たちをイエスのもとに遣わしたと記されていますが、並行箇所であるマタイによる福音書8章では、百人隊長自身がイエスに直接懇願したと記されています。一見すると、これらの記述は矛盾しているように見えるかもしれませんが、これはルカとマタイの視点の違いからくるものです。両者ともイエス・キリストの生涯と教えを記録することを目的としており、その内容には本質的な違いはありません。付け加えると、ルカによる福音書は異邦人を含む広い読者層に向けて書かれており、イエスが普遍的な救い主であることを強調しています。一方、マタイによる福音書は特にユダヤ人向けに書かれており、イエスが旧約聖書の預言を成就するメシアであることを強調し、旧約聖書の預言の成就を示すことを目的としているのです。

 筆者の私見ですが、ユダヤ人の長老たちが百人隊長の代理としてイエスに癒しを懇願したことは、民法の代理制度に似ていると考えます。民法第99条には「代理人がその権限内において本人のためにすることを示してした意思表示は、本人に対して直接にその効力を生ずる。」と規定されています。つまり、代理人の意思表示の法的効果は本人に直接及ぶということです。これと同様に、ユダヤ人の長老たちが百人隊長の代理としてイエスに懇願した意思表示も、百人隊長に直接帰属しているのであり、しもべを癒してほしいという懇願(法律行為)の効果は、百人隊長に帰属していると言えるのです。