「わたしがいのちのパンです」

12月31日礼拝メッセージ
吉田正明執事
「わたしがいのちのパンです」
聖書:ヨハネの福音書6章34〜35節

 福音書には、5つのパンと2匹の魚を用いて5000人を養った奇跡の記事が記されています。この記事はすべての福音書に掲載されていることから、多くの人々がその出来事を見聞きし、それが記憶に刻まれたであろうことを想像させます。

 ヨハネは、福音書を書いた目的を明確に述べています。その目的は、イエスが救い主であり、神の子であることを読者が信じること、そしてその信仰によって「いのち」を得ることでした。

 今日の聖書の箇所は、「5つのパンと2匹の魚」の奇跡の翌日に行われたイエスと群衆の一部の人々との会話を描いています。ここでは奇蹟を経験したにもかかわらず、イエスを信じない人々が登場します。なぜ彼らはイエスを信じなかったのでしょうか。私たちも考えてみましょう。

“これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。”ヨハネ20:31

1.群衆の期待と失望

“人々はイエスがなさったしるしを見て。「まことにこの方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。イエスは、人々がやって来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。ヨハネ6:14-15

“そして、湖の反対側でイエスを見つけると、彼らはイエスに言った。「先生、いつここにおいでになったのですか。」ヨハネ6:25

 これまで多くの人々がイエスの行った奇蹟、すなわち、多くの人を癒し、パンと魚を用いて大勢の人を食べさせたなどという話を聞いていたため、当時のユダヤ人たちの間では、イエス・キリストがローマ帝国の圧政から解放するメシヤ(救い主)として期待されていたと考えられます。 

 人々はイエスを王様に担ぎ上げようとしましたが、実際には彼らは自分たちの都合に合わせてイエスを利用しようとしただけであり、それはイエスの本意ではなく、一人で山に退かれました。人々は、自分たちの期待に添わないイエスに失望し、翻意させようとして追いかけます。人々は、奇蹟の意味も考えようとせず、ただパンを食べて満腹感を得たからです。イエスは、彼らの心の内を見抜き、一時的なものでやがて消え去る物質的満足を追い求めるのではなく、神の永遠のいのちに至るパンのために働くべきだと教えたのです。

 彼らにとっては、現世の安楽よりもっと高次元のものを目指すべきであることは理解できたかもしれませんが、実際に神の与えるいのちのために働くという意味が理解できなかったでしょう。そこで、「神のわざ」を行うには何をすべきかという質問をイエスにぶつけたのです。

 ここで「わざ」と訳されていますが、「しごと」という意味です。「神のわざ」(しごと)は、私たちが神の子である救い主イエス・キリストを信じさせることなのです。それは私たちの仕事ではなく、神の仕事なのです。つまり、主語や主体は神であって、私たちではないのです。しかし、人々は信じるか信じないかは自分たちで決めることであると主張し、それを判断するためには、出エジプトの時代の天からのマナを引き合いに出して、もっと奇跡を示すべきであるとイエスに要求します(ヨハネによる福音書6章30節以下)。

 カルヴァンの新約聖書註解によると、「彼らがこのとき見たすべての奇蹟を無視しているのは、疑いもなくイエスが彼らの思いのままにならず、彼らが勝手にでっち上げたとおりにならなかったからである。もしイエスが彼らに日常的に至福の望みを叶えていたならば、常にイエスは歓迎され、異論なく尊敬され、預言者、メシア、神の子と唱えられていたことであろう。しかし、彼らが余りにも肉の思いに囚われすぎるとイエスに非難されると、彼らはもうイエスに耳を傾ける価値がないものと見なしたのでる。」とあります。
 彼らがさらなる奇蹟を見た場合、本当にイエスを信じることができたのでしょうか。彼らはほんの一日前に「5つのパンと2匹の魚」の奇蹟を経験しているのです。カルヴァンは、彼らの突然の忘却が彼ら自身の悪意から生じて盲目になっていると述べています。マナは当時のイスラエルの民200万人を養ったとされています。モーセがこれほど素晴らしい奇跡を示してくれたのだから、イエスもそれ以上の奇跡を起こしてくれるだろうと、人々はイエスとモーセを比較して奇跡を要求しているのです。しかし、彼らの求めているマナは物質的な必要を満たすためにモーセを通して供給されたものに過ぎず、真の意味での天からのマナは世の人々にいのちを与えるものなのです。そして、イエスは信じない彼らに対して「私こそがそのいのちのパンである。」と宣言するのです。

2.信心と信仰について

 ユダヤ人たちは、奇蹟を見たら信じるとイエスに「しるし」を要求しましたが、私たちの信仰は、「~だったら」という仮定法(あるいは条件つき)の信仰ではないはずです。信仰とは、人間が主体の一方通行のものでなく、神が主体であり、神との信頼関係のうえに成り立っているものであり、双方向的な関係であると思います。神が私たちを選び、私たちと共におられるのです。そして、その中で神の愛が私たちに伝わったとき、私たちは神を信じることができるようになるのです。神を信じる信仰とは、「神のわざ」、すなわち「神のしごと」であり、神の愛によって生み出されるものなのです。 

神がお遣わしになったかたをイエス・キリストを信じることは「神のわざ」なのです(ヨハネによる福音書6章29節)。

 信仰するものの信じる経緯はそれぞれ違うかもしれませんが、神のなされたわざであり、その働きに私たちは呼応してはじめて信じることができるのです。

 聖書の「信仰」は「ピスティス」というギリシャ語の日本語訳で信頼関係、忠実さなどを意味し、神と人との間の双方向的な関係がある時に成立するものなのです。
 「鰯の頭も信心から」という日本の諺がありますが、ここでいう「信心」は、先に述べた信仰ではありません。「鰯の頭」との間に信頼関係はなく、相手が何であっても、対象があれば成立するものであり、信じる主体は人間なのです。それに対し、本来の信仰や信頼関係「ピスティス」は、誠実(忠実)を尽くす神を信頼することであり、その誠実さに対する応答なのです。

 二つの図があります。一つは鉄棒にぶら下がっている図、もう一つは二本の腕に抱かれている赤ん坊の図です。 「信心」とは、鉄棒に頑張ってぶら下がっている状態であり、「神」というバーに「信心」という人間の手で落ちないようにしがみついている状態のイメージです。それに対し、「信仰」とは、二本の腕にしっかりと受け止められているイメージです。赤ん坊は全体重を委ねて、抱いている人に支えられている状態なのです。

マルティン・ルターは、

『信仰』とは、ちょうど物乞いが差し出す、何も持たない手のようなものである。

と表現しましたが、その手に神が『信仰』を与えてくださるのです。『信仰』は神の約束と、これらを与えてくださる神の完全さと誠実さに、自分自身の信頼を委ねる用意をすることに等しいのです。

 もし「信仰」が鉄棒にぶら下がっているようなものなら、いつか耐え切れなくなって落ちてしまい、落ちたらまたぶら下がるという負のループに陥ってしまうでしょう。信仰の対象となっている鉄棒のバーは落ちそうになっても何もしてくれないので、自分で何とかするしかありません。

 それに対して、真の意味での「信仰」とは自分の力ではなく、反射反応のようなものです。頑張って信じようとするのではなく、自分には信じることのできる力はないが、自分にはできないと認めるところから生まれてくるものです。信仰のもたらす効果は、私たちの信じる熱心さに依存するものではありません。私たちの信じる熱心さは頑張りではなく、私たちの信じる方(=神)が持つ信頼性から生まれるものです。「信仰」は私たちを愛し、旧約時代からの約束を守り、真実を尽くしてくださる神を信頼して、全体重を委ねても大丈夫だという信頼関係の中で生み出されます。神との双方向的な関係を構築しているからです。

3.今のからだと復活のからだ

“兄弟たち、私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。”Iコリント15:50
“ですから、私の愛する兄弟たち。堅くたって、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは、自分たちの労苦が主にあって無駄でないことを知っているのですから。”Iコリント15:58

“兄弟たち、私は、自分がすでに捕らえたなどと考えてはいけません。ただ一つのこと、すなわち、うしろのものを忘れ、前のものに向かって身を伸ばし、—その賞をいただくために、目標を目指して走っているのです。ピリピ3:13-14

 私たちは復活により永遠のからだが与えられます。そして、それで終わりではなく、その後も永遠のからだでの生活が待っています。

 パウロは、「血肉のからだは神の国を相続できません。」と述べています。これは、今ある人間のからだでは永遠の神の国に入ることができないということを示しています。私たちは復活の時、新しい世界で生きるための新しいからだが与えられ、神と共に御国を治めていくことが約束されています。

 私たちのこの地上における苦労は決して無駄ではありません。私たちの労苦は神に覚えられており、神の国を相続したときに報いられるのです。それは新天新地での新しい生活に繋がる希望を示しており、今はその希望を先取りして生きているのです。私たちの地上での人生がうまくいったかどうかの結果は問われてはいません。むしろ、労苦を神が覚えておられることに慰めを感じています。
 
 パウロは過去の成功に満足するのではなく、過去の失敗や障害にこだわらず、自分がまだ完成されていないことを認めつつ、キリストの模範に従い、成長し続けることが重要であると示唆しています。私たちは、神の目的と計画の完成を目指して生きているのです。

Author: Paulsletter