コロナ禍が過ぎ去った時に

*新年1/2の礼拝メッセージの原稿です。

ルカの福音書14章25〜35節

・礼拝にようこそ。昨日は、各家庭において礼拝をおこなった。元旦礼拝を会堂で行わなかったのは、60年で初めての経験。年末年始ゆっくり新しい年のための備えをされただろうか。

・年末に妻とコーヒーを飲みながら、お互いにとって「安息」はどのようなものかという話をした。もちろん休息をとることも大事なことだ。しかし完全なオフの時を持つことは現実的には難しい。むしろ忙しい通常生活の中にあって、良いリズムを作ることが大事かと思った。聖書や良い本を読むようなインプットも大事だし、また、私などは自分のことを発信したりするアウトプットによって安息を得ていることにも気がついた。またそんな話をしながら、このようにお互いに分かち合う関係があることによっても安息を得ていると思った。皆さんはどうだろうか。

・さて、コロナ禍の生活が三年目に入る。昨年は新年初頭から、会堂礼拝を全面的に中止せざるを得ない期間を三回繰り返した。10月になって会堂と家庭での礼拝を行い、クリスマスの礼拝も各チャペルで行うことができた。しかし私たちの周辺の状況は多少落ち着いてはいても、世界的にはさらに感染者が増え続けている状況であり、予断を許さない状況にある。

・振り返って、私たちが会堂に集まって礼拝ができなかったのは今回が初めてではない。27年前の阪神淡路大震災の時も同様であった。この会堂で教区の新年聖会が行われた翌朝に震災が起こり、その時から私たちは被災者であり、同時に避難所の生活になった。電車が使用できず、幹線道路も一般車両の通行止めになり、今回と同じようにある方々は家庭や避難所などで礼拝をささげることになった。

・しかしあの時と大きく異なるのは、震災の時は、しばらくすれば皆がともに集まることが許される状況になることが分かっていたこと。そして実際、集まることができれば、心いっぱい声を合わせて賛美し、礼拝し、食事をし、語り祈り合うことが自由にできた。一番厳しい状況は震災直後であって、それからは徐々に確実に回復していった。だから、お互いに「がんばろう」と言って歩むことができた。また日本の各地から、あるいは海外からも励ましに来てくださった。

・しかし、今回のコロナ禍はそうではない。一番厳しい状況はこれからやってくるという可能性もある。この先がわからず、同じことを繰り返している状況だ。被災地とそれ以外の地域という構造ではなく、世界のすべてが同じ状況に陥っている。ボーダレスの社会とはこういうことかと良くわかった。

・そういう中で、私たちが、聖書を通して知っていることが二つある。

 一つは、こういうできごとは起こるべくして起こっているということ。イエス様は、この世界の終わりの時代にはこういうことが起こると言われ、具体的に「民族紛争、大きな地震、そして疫病」をあげて語られた。だから、これは聞かされてきたこと。

・そしてもう一つは、そういうことは出来事としては恐ろしいことだが、それはこの世界の救いの完成の時が近づいていることのしるしであることだ。イエスは言われた。「これらのことが起こり始めたら、身を起こし、頭を上げなさい。あなたがたの救いの時が近づいているから」。だから、私たちは「身を起こし、頭を上げよう」

・さあ、そういう時代に生かされている私たちとして、古代イスラエルのコヘレト、伝道者と呼ばれる賢者の言葉を思い起こしたい。

・旧約聖書「伝道者の書」にある、「順境の日には幸いを味わい、逆境の日にはよく考えよ」(7:14)。

・神様は言われる。ものごとが順調に進んでいる時には、その幸いをよく味わい、感謝し、楽しみ、また、その祝福を味わえ。クリスチャンというのは、いつも難しい顔をして、深刻な生き方をしている人のことではない。神さまとその祝福を大いに喜び楽しむことは神さまの喜ばれることだ。

・しかし同時に、反対に「逆境の日にはよく考えよ」という。苦難が過ぎ去ることをじっと耐えているだけではない。苦難の時こそ、自分の人生や信仰のことを考えよ。またふだんは目の前のことに集中していても、大きな視点で人生の意味や目的について考える機会とせよと教える。

・困難に目を向けよと言われているのではない。よく考えよと、言われている。

・私たちは、このコロナ禍が速やかに過ぎ去って平穏な生活ができる時が来ることを願うが、しかし私たちはただそのことを祈り、その時を待っているだけであってはならない。やがてコロナ禍は過ぎ去ったという時が来るだろう。しかし、その時に私たちが経験するのは、コロナになる前の私たちの状況ではない。それを期待していてもそうはならない。そうではなく、私たちはあの初めの日よりさらに良くなるために、私たちはこの苦難の中で「よく考える」ことが大切なことなのだ。

① 「まず座って」考えよ

・今日のこのストーリー。25節にあるように、この時、イエス様は一緒に歩いていた人たちに対して、突然、振り向いて言われた。ちなみに、この人たちは、「イエス様と一緒に歩いている人」とあるように、「群衆」であって、弟子ではない。

・これを読んだ時、最初は「これはダメだ」と思うはず。「ついていきたい」という弟子たちならまだしも、群衆にこんな話をしてもと思う。それだけではなく、イエス様のこの言い方はどう考えても、上からだ。

・イエス様のことばっていつも最初は「えっ」て思うのだ。反発や、つまずきを覚える。ここもそうだ。でも、よく聞くと、わかる。イエス様は語るべきことを語っている。よくあるように、最初は甘い言葉で誘って後で大変なことを要求するというような方ではないということだ。ありのままを語って、そして、私たちに対して「よく考えて、そして、わたしの弟子となるのならついて来なさい」と。実に、誠実で、紳士的な態度ではないか。私たちを一人の人として扱っておられる。

・イエス様は二つの例を出して話す。塔を建てる人と、戦いをしようとする王の例。

“あなたがたのうちに、塔を建てようとするとき、まず座って、完成させるのに十分な金があるかどうか、費用を計算しない人がいるでしょうか。” 28

“また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えようと出て行くときは、二万人を引き連れて向かって来る敵を、一万人で迎え撃つことができるかどうか、まず座ってよく考えないでしょうか。” 31

・例えで言いたいことはシンプルだ。塔を建てる時には、その費用があるのかどうかを考えなければならない。なぜなら、途中で資金不足になって、土台だけで終わってしまったら何もならない。たとえばオリンピックを行ったが、当初の予算と最終予算はあまりにも違った。国家の事業だからできても、普通はこんなことはできない。招致したけど実行できなければ大問題だ。

・また、他の国と戦いをしようとするなら、勝算があるのかどうかを考えて、勝ち目がないのなら戦いになる前に講和をめざす必要がある。これも当然のことだが、かつて私たちの国は失敗した経験がある。とにかく戦いを始めたらあとはなんとかなるというような感じで突き進んだ。その結果は見えていた。戦国武将でも財や力を持った国が勝ったのではない。大切なことがある。

・この二つのたとえでイエス様が共通して使っておられる言葉は、「まず座って」ということ。「建て始めたのに完成できなかった」とか「負けてしまう戦いをしないように」、「まず座ってよく考えよ」と言われる。

・イエス様の弟子になるということは、その時の勢いや感情ではない。自分が自分の大事にしているもののうち何を捨て、そして何を負っていくのか。よく考えての決断でなければならない。

・私たちは、ニューコミュニティとしてのビジョンを掲げている(プログラム裏面)。

 「私たちのビジョンは、イエスキリストの弟子として神の愛に生きることをめざし、聖霊によって互いに愛し合う交わりを生み出していくことです。」

・これは、私たちの教会のビジョン、つまり、私たち一人ひとりのビジョン。

 私たちの教会が、漠然とただ「神さまを信じてます」とか「クリスチャンのサークルです」というものではないことを示している。私たちの教会が何のために存在し、この世界に対して何をしようとしているのか、そして、私たちが私たちの生活しているところで何をしようとしているのかを表現している。

・このビジョン、一言で言えば、①私たちはイエスキリストの弟子をめざしている。他の人がどうであっても、自分はイエスキリストの弟子を目指すということ。

また②人々がイエスキリストの弟子になることができるように教会の働きをしているのだ。その場合、イエスキリストの弟子とは神の愛に生きることだと考えている。

・そんな私たちにイエス様は言われる。「それはすばらしい。だけど、あなたが、ほんとうにわたしの弟子になりたいのであれば、まず座ってよく考えて、そして私についてきなさい」と、言われる。

・一つは、② イエスキリストについていこうとしているのか

・イエス様は、弟子となるということはこういうことだよ、と言われた。 

“わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分のいのちまでも憎まないなら、わたしの弟子になることはできません。自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。” 26-27

・そして続いて、33節には「そういうわけで、自分の財産すべてを捨てなければ、あなたがたはだれも、わたしの弟子になることはできません」と言われた。

・非常に厳しい言葉だと思う。特に「憎む」と言う言葉。それも先程も触れたように、これを弟子たちに向かってではなく、群衆に対して語られた。それは、実際にイエスキリストの弟子として歩む人も、歩まない人も知っておくべきことだからである。

・この言葉を読んで気がつくと思われるが、ここに繰り返されているのは「自分の」と言う言葉である。「自分の父、母」「自分のいのち」「自分の財産」とある。キリストの弟子となることは、そういうものが神のもの、神から委ねられたものであるということに、置き換えられていくことなのだ。

・私たちも「座ってよく考えてみなければならない」。私たちには父母を始めとする家族がある。持ち物や財産もある。この肉体の生命もある。それらは大切なものだ。軽んじてはならない。

しかしよく考えてみよ。それらは、永遠のものなのか、この地上のものなのか。この地上にあってさえ、最後に残るものはなにか。あなたという存在を生かし、あなたの本当の価値を認め、あなたを限りなく愛してあなたのいのちを救うのは、あなたの家族でもなく、あなたの財産でもなく、あなた自身でもない。

私たちがイエスキリストの弟子であるということは、イエスキリストによって与えられたいのちをもって、家族のところに遣わされ、与えられたものをもって神を愛し隣人を愛する生き方へと変えられていく。このことがはっきりしていなければ、最後まで歩み通すことはできないだろう。

・クリスチャンであるということは、家の宗教でも家族の信仰でもない。なにか世間の人よりも敬虔そうな感じを身にまとって、人よりも多少正しく、人よりも少しきよく生きているような、そんなものではない。クリスチャンとなる、クリスチャンであるということは、上辺の変化ではなく、根本的な変化であって、すべてを「自分の」という一言で捉える自己中心的な生き方に死んで、そして神の愛に生き、神から与えられた人生を自分の十字架として生きる新しい人生に生まれ変わることだ。それはパウロが、「私はキリストとともに死んですべてを十字架につけた。そして今はキリストとともに生きている」と言った、そのような生き方なのだ。

・あなたは、そのようなキリストの弟子の生き方を目指していくのか。そのような願いがあるのか。このコロナ禍の新年あって、時間をとって考えてほしい。

・イエス様は、「あなたがよく考えた上で、この方についていこうとそう願うなら、わたしについてきなさい」と言っておられる。決めるのは、私たち自身なのだ。そして、そう決めたならば、ついていくのだ。

・そしてもう一つの問いは、③ イエスキリストへの愛は燃えているか

“塩は良いものです。しかし、もし塩が塩気をなくしたら、何によってそれに味をつけるのでしょうか。…”34-35

・イエス様が、どうしてここでこの言葉を語られたのか。

イエス様は、山上の説教で弟子たちに「あなたがたは地の塩です」と語られた。イエス様が求めておられる弟子の姿を、地の塩、また世の光であると言い表された。塩とは、当時の生活においても、味をつけるものであり、腐敗を防ぐものであり、またきよめるもの。しかし、塩は、そのためにあるのであって、それ自体のために存在するものではない。信仰の言い方をすれば、塩は死んでこそ役割を果たす。

・イエス様は、ご自分の弟子たちにこの世においてそのような役割を期待しておられる。つまりイエス様は弟子たちの人数が増えて力を持つことによってこの世に影響を与えていくようなことを期待してはおられない。塩のように、自分が死んで他を活かす、そういう生き方を期待されている。だから先程のことで言えば、家族や財産や自分自身のこと以上に、神ご自身を愛するものでなければならない。自分の働きの成果や評価が認められないことに不満をいだいているようでは、塩の役目は果たせない。

・私には忘れられないメッセージがある。中国の家の教会の信徒リーダーであるママクワングという女性の方が、私たちの教会に来て話してくださった時のこと。中国共産党の文化大革命の迫害のもとで、家の教会(地下教会)の方々がどのように信仰の戦いを戦ってきたか。そして迫害下にありながらどのように主に仕え、教会を開拓し生み出してこられたかというお証は、実に生々しく現実的で、また感動的であった。彼女自身が牢獄に捕らえられて死を覚悟しているような中で、ある夜中に牢獄で、十字架の賛美がどこからともなく響いてきた。それが声は小さいけれども合唱のようになり、あちらこちらですすり泣く声と祈りのことばが夜中中聞こえてきて、牢獄の看守たちもそれを止めることはなかった。そして多くのリーダーに刑が執行されて、彼女の場合は信徒であったために釈放された。

・そんな証の最後に、このように言われた。

 「日本のクリスチャンのみなさん。あなたは、イエスキリストを信じておられます。では、みなさん、あなたはイエスキリストを愛しておられますか」。

 私はこのことばが忘れられない。また、自分へのメッセージだと思っている。

・家族も妻も子も神様から委ねられた大切なものだ。自分自身のいのちも。しかし、イエスキリスト以上のものではない。私は、永遠のいのちを信じ、神の国を信じている。この世の家族やいのちや財産を守りながら、神の国を無視したような生き方はしたくはない。むしろ、イエスキリストの弟子として愛に生きることによって、永遠の家族、永遠いのち、永遠の富を求めていきたい。

・イエス様はペテロに対して、繰り返して「あなたはわたしを愛していますか」と聞かれた。思わず答えた返事ではなく、言葉だけでなく、ペテロに本当によく考えさせたのだ。私たちにも繰り返して問われる。

・私たちは、このコロナ禍にあって、この時を無駄にしてはならない。もとの状態に戻るようなことを期待してはならない。コロナ禍が過ぎ去った時には、もっと神を愛し、互いに愛し合うような、お互いと教会と社会になるように。まず座って考えてほしい。「自分はイエスキリストを愛しているのか。」

“イエスは彼に言われた。「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。…」” マタイ22:37-

・祈り